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​消たえたイスラエル十部族 

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消えたイスラエル十部族

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桃楼お爺さんの大ボラ説法

松居桃楼

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松居松 翁

■人類はなぜ戦争を繰り返すのか?

  汎知性(パン・ソフィア) VS 反知性(パラノイド)

● 最終戦争直前に出現する【 別なもの】とは!
● 人類に残された最後の希望【 Sophe とは!

幻の共同体「蟻の街」の主催者、思想家 松居桃楼
  元祖ファクトフルネス・マインドフルネス・聖書暗号解読・ワンネス……
​ 父 松翁から語り継がれた
トルストイの予言を世界初公開

The Mystery of Ten Lost Tribes

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エフライムトップ

The Mystery of Ten Lost Tribes

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Written by Toru Matui 

The Mystery of Ten Lost Tribes

​桃楼おじいさんの大法螺説法!

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​消たえたイスラエル十部族 

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エフライム 目次

              消えたイスラエル十部族 

               目  次
 

           序 章 エフライム族のゆくえ                       
                        老カバラ主義者からの依頼
   
            
                        キリストは日本で死んでいた              
                        『香りもたかい橘を……』              

 

第一部  霧の中の景教徒
         第一章 命の木の実をたずねて           
             田道間守(たじまもり)はなにを持ち帰ったか      

             常世の国からの伝達            
             姿なき〈奥義書〉         
           第二章 東洋のロゼッタ石             
                        いろは歌の謎 
                                          
                        なぜシリア語にこだわるか
           中国管区のカテドナル
     第三章 うずまさ寺の由来
           飛鳥時代の渡来人

                            幻の佛菻(ふつりん)国

         

第二部  アトンは唯一の神である

    第一章  太陽の子ファラオ 

          〈ヨセフの話〉が成り立つ事情

          実現しなかったイクナトンの夢

          世をしのぶケニびとたち

    第二章  〈砂漠の先見者〉はヨシュア

          「わたしは有って有るもの」

          モーセ伝説の原型 

          エジプトで生まれた申命記 

    第三章  サマリア人の嘆き

                          ほんとうの名はタエブ

                          新しい契約を立てる​日

                          福音書の虚と実

           

第三部 「救世主」から「仏陀」への道      

    第一章 黙示録の秘密 

         桃楼じいさんの暗号解読

         「耳あるものは聞くがよい」

    第二章 すべてが一つに

         イエスは神か人か

         見て、聞いて、触れた

    第三章 太秦寺僧景浄

         アブラクサスは365

         バルラームとヨサファットの物語

         『それは偶然の一致です』

    第四章 インドに渡ったトマス

         聖書と仏典は双子か 

         マラバルのクリスチャン

         シルクロードの豪商たち

         ナグ・マハディの発掘

         神の知恵を求めよ

第四部 日出る国の神話

    第一章 女帝たちの悲願

         いつ 誰が なんのために

         ソロモンは簒奪者(ヤコブ)だった

         律令・遷都を企画させたもの 
    第二章  日の神信仰の系譜
         なぜ鏡をおがむのか 

         不死鳥フェニックス
         五千年前の春分点

    第三章  祭り終わって 
         牛を屠る神ミトラス 

         太子はなぜ厩で生まれたか 
         『今の橘なり』 
         不比等と三千代と人麻呂
         夢殿をめぐる幻想 
     
   


終 章 
      

あ と が き
                        

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​本  編

    

 

 

 

 

 

序 章 エフライム族のゆくえ

                                                  老力バラ主義者からの依頼

 

「誰かに似てない?」
意味ありげに曙生(あけみ)女史から手渡された写真に、私は歓声をあげた。
「ほんと、似てる! そっくりじゃない!」
 黒の鍔広(つばびろ)帽子、立襟(たちえり)の長上着(ながうわぎ)、こけた頬には重すぎるような長い白ひげ、非常な高齢を思わせる何本ものしわが深く彫りこまれ、そのあいだから放たれている目の光は、鋭く、それでいながら、とらえどころがない感じ。
「もしかしたら、ユダヤ人?」
「このソフィアのおじさんなの」

 曙生女史の答えに、私はまずいことを言ったと思ったが、本人のソフィアがその瞬間に、ユーモラスな表情で続けた明かるい口調で安心した。
「あの、大叔父でございましょうか? わたくしのおじいさんの弟でございますから」
 それにしてもさっき、ソフィア・ザダノフと紹介されたときは、ロシア系のアメリカ人かな? 
と思ったが、この写真の老人とは、どうもイメージがつながらない。
「そのアブラハムおじさんてね、ニューヨークのイーストサイドの、ユダヤ人地区じゃ、評判のもの知りなんですって。へブライ語の古典の、とくに力バラの研究となったら、ヨーロッパにまで、ちょっとは聞こえてるほど。だけど偏屈さんでね、生涯、独身の菜食主義者(ベジタリアン)。これまでソフィアの家族とも、ほとんど交渉なしだったんだって。ちかくに住んでるのに。彼女のお父さんは、グレニッチビレジで、日本ものの美術品店やってるの」
 風貌が、ソフィアとどこかそぐわない感じがするのは、そういうわけか。とはいうもののこの写真、ほんとに桃楼(とおる)じいさんと似てる……
「実はね、そのアブラハムおじさんのことで、あなたの力を借りたいのよ」
 なるほど、このあいだ、『ちょっと頼みたいことがある』と言ってきた電話は、これだったのか。

 立原曙生さんから久しぶりの電話があったのは、一週間ほど前。彼女と私は、旧友とはいっても、小学校四年生のとぎに一年間だけ同じクラスだったのが、私が蟻の街に行ってから、彼女の早逝したお父さんが劇作家で、若き日の桃楼じいさんと非常に親しかったことがわかり、以来、喜憂をわけあう関係になっている。十数年前、私が桃楼じいさんに従って、東京の蟻の街をひき払い、神奈川県の箱根仙石原にひきこもってからは、月に一度はくる長電話が、このところ何ヵ月もとだえたままだから、また大作で苦労しているのかと思っていたら、突然、『是非、力を借して欲しいことがあるから来てくれないか』という話。もっともそれは単なる口実で、ただ『遊びに来い』とは言わないところが彼女らしい、と私は勝手にのみこんでうれしくなった。それにしても、ちかごろ桃楼じいさんの老衰のきざしが気になって、私は去年の秋から一度も山を降りていない。ましてこの盛夏、なにもわざわざ……と、ためらいもしたが、結局、存分に駄弁を交わしあう誘惑が勝った。

 鎌倉の、海岸や街の人通りからはちょっと離れた、小さなトンネルをぬけて山のくぼみにひっそりとある、古寺の境内。それも曙生女史が仕事場兼住居として借りているのは、参詣客には関係ない、茅(かや)ぶきの一軒家。横に奥庭が、植込みも適当に手入れしてあって、仙石原の雑木雑草のび放題というわが無名庵のまわりとはまたちがった、つややかな緑が、実に風通しのいい小空間をつくっ
ている。先々代の住職の隠居部屋だったとか聞いた。
 明け放した小さな玄関に入りかけると、
「暑かったでしょう! すぐシャワー浴びて。ここに着替えおいてあるから……」
 竹のすだれの奥から、声だけさきに出迎えて、やがてあらわれた彼女は、六分丈がスッキリと細いパンツの上は、同じ生地色の、ザクッとした布に首穴をあけたようなものを涼しげに着ている。

 襖をとりはずして二間をつづけた部屋の主役は、ゆったりとした藤椅子に囲まれた楕円形の大テーブル。オレンジを盛りあげたガラスの鉢が、庭の緑を映しかえしながら、浴衣ふうのワンピースに着替えた私を待っていた。 

「さっぱりした? お昼のお弁当、もうくると思うから、ちょっとゆっくりしていてね……」
 ありがとう、と答えて藤椅子に腰をおろしかけたとき、かすかなもの音に台所の方をふりかえると、真新しい藍染の暖簾をしとやかにあげて、霧をふいたコップ三つのせた盆を捧げて出て来たのは、なんと、あきらかに外国人の若い美女。暗褐色の、ほとんどまっすぐな髪を、あっさりうしろで束ね、目は茶色がかった黒。赤青黄黒の原色を大まかに不規則に配置した、袖なしのパンタロンスーツが、日焼けした肌の若女しさを、いやがうえにもひきたてている。挨拶がまだのその眼には、くったくのない親しみと、いかにもひょうきんそうな微笑が輝いている。私は一瞬、大いにとまどったが、なあに曙生女史のことだ、最近では、ウィリァム・ブレイクを連想させるという画風で、神秘的な伝説を好んで題材にする女流として、日本よりアメリカで売れはじめたというお伽話の主人公のような彼女だもの、外国人の友だちが訪ねてきたって、別にあやしむことはない……と立ち直った。しかし、それにしてもどことなく、〈ただの、外国人のお客さま〉という雰囲気ではない……あれこれ臆測している矢先に、例の写真を見せられた――この風変わりな老人のことで力を貸せって、なんだろう?
「まさか、こちらのお年寄りが、行方不明にでもなって、それで?……」
 もしや、箱根の草庵に一人残してきた桃槙じいさんが、今ごろ急に桃惚として近辺の山の中を、さまよい歩いてなどいないだろうかという不安が、一瞬、頭にひろがる。
「想像の飛躍はご立派だけど……さがしてるのは、アブラハムおじさんじゃなくて、アブラハムおじさんがさがしてる人」

「いったい、どんな……?」
「消えたイスラエルの十部族――かの有名な〈失われた十部族(ザ ロスト テン トライブズ)〉よ。……その中でも、とくにエフライム族の子孫……」
「十部族って、あの、モーセにつれられてエジプトを脱出したユダヤ十二部族から、分かれて行ったあと、滅亡してしまったという、十部族のことでしょう?」
「そう、ソロモン王が死ぬと、ダビデ、ソロモンの親子の権力、というか、ユダ族そのものの優位を筋ちがいだとして、不満をもっていた十部族が、ユダ族たち
を残して独立した。だけど彼らは、紀元前八世紀にアッシリアに亡ぼされてしまった。そしてまた、残ったユダ族たちの側も結局、国を追われて、それからとい
うもの何千年もの間、いわゆる〈さまよえるユダヤ人〉の苦労があって、この二十世紀になってからやっと、イスラエル建国ができたわけだけれども、正確にいうと、これが、そもそもの、イスラエルの一二人の息子から出た十二部族全体の国ではなくて、十部族は、依然、消えたままなのね。その十部族を、それも、とくにエフライム族の行方を、必死になってさがしてる人があるのよ」
「だけど、そんな大昔のことを、いまごろ……なぜ?」
「なにしろ、そのエフライムの子孫たちの最後に行きついた国が、もしかすると日本じゃないか、っていう話なんだから……」
「まさか、そんな冗談……」
「そりゃ、わたしだって、はじめてソフィアからその話きいたときは、バカバカしいと思ったわよ。ソフィアだって、日本でエフライムの行方をさがしてくれって、アブラハムおじさんからいわれたときは、息をのんだそうよ」
「ハイ、わたくし、そのとき思いました。彼は竹にウグイスかもしれません、と」
「竹に鴬?」
 きょとんとした私に、ソフィアの目が、いたずらっぽく動いた。
「コレ ハキチガイ トリチガイ……」
「でもどうして、おじさまが、ソフィアさんにそんなことを?」
 外国人から、思いもかけない一本をとられた私は、ふき出すおかしさを押しころして、わざと外した。曙生さんが説明をひきとる。
「彼女のパパね、たいへんな日本びいきなの。この間の戦争のとき、アメリカの陸軍が、日本語学校つくったでしょう、知らない? もう、凄い訓練だったんだって。戦争終わって横浜に駐留することになってから、日本人以上に日本好きになっちゃったのね。わたしの作品も、彼女のパパがアメリカヘ出してくれたの。ニューヨークのお店は、日本美術でいっぱいだし、彼女のママが、ぜんぜん無名の日本人の若者を、よく面倒みてくれるものだから、しょっちゅう誰かが居候してるのよ。だからソフィアは小さいときから日本語ペラペラ。それで大学では、日本学(ジャパノロジー)のコースをとっちゃうし、それも、どういうわけか近世の文学。十返舎一九とか鶴屋南北とか、くわしいのよ。……それで今年は、彼女、日本へくることに、前から予定していたの。京都や奈良もゆっくり案内しようって。そこへ、この話でしょう――突然、アブラハムおじさんが、ソフィアに会いたいと言ってきた。
――日本の勉強してるのなら、エフライム族の子孫をさがしてくれって。……まあソフイァは九○パーセントは信じなかったけど、とにかく〈古代の日本に渡ったユダヤ人に関する資料〉のコピーを、山ほどあずかってきたわけ。なにしろアブラハムおじさんが、長年かかって苦心して集めたものでしょう、興味ない顔なんかできないものね。――それを彼女 ここへきてから、はじめて二人で調べたのよ。そしたらね、すくなくともこれが、アブラハムおじさんの妄想やねつ造として一概に片づけることはできないと思うものばかり……とにかく、これ見てちょうだい」
 曙生さんが身軽に立って、うしろの飾り棚から、ぶ厚い資料ばさみをとると、ソフィアは卓上のオレンジの器を片よせた。


     〈キリストは、日本で死んでいた〉

「この赤い印、なに?」
 一五○万分の一の日本地図のあちこちに、五ミリ径ほどの赤丸が、点々とついているのをみて、私は聞いた。

「むかし――って大昔 ユダヤ人が日本に渡ってきたという伝説と痕跡があるところ」
「九州、四国から東北まで? こんなにも?」
「まだまだ、地名がへブライ語からきてるらしいってところまで、いちいちとりあげてたら、日本じゅうまつ赤になっちゃう……とにかく、そういう問題、真剣になって研究してる日本人て、けっこういるってことが、わかったわ」
「それで? この赤印のところ、直接行ったわけ?」
「ええ、研究家に、ある程度評価されてるところは、ね」
「日焼けはそれね?」
「とにかく不便な山の奥みたいなところが多いんだから。この、四国の剣山( つるぎざん)なんかだって、車で、すごい急な坂道、峠まで何時間も走って、そこからリフト。そのさきは、熊笹の山道、どのくらい歩いたかしら……」
「なにがあるの? そこ……」
「さっき話した、イスラエル十二部族の〈契約の箱〉――ほら、モーセの十戒を刻んだ石が納めてあるっていう……この剣山の山頂にある〈宝蔵石〉っていう岩。その大岩の下に、あれが埋めてあるっていうのよ」
「まさか。……契約の楯はエルサレムの神殿に……」
「ところが、そのエルサレムの神殿はね、十部族がアッシリア帝国へつれていかれてから一○○年以上あとのことだけど、バビロニアの軍隊に完全に破壊されちゃったでしょう、そのとき、〈契約の櫃(はこ)〉がどうなったか、問題なのね。ほら、なんだっけ?  プロテスタントやユダヤ教では外典で、カトリックでは正典になってる……」
「マカベア書?」
「ああ、その第二マカベア書に、エルサレムの神殿がバビロニア軍の手で破壊される前に、預言者エレミアが、問題の〈契約の櫃〉をもって、エジプトへ逃げる途中で、ネポ山の奥にかくしたっていうことになってるんですってね、モーセが最後に登ったというネボ山……」
「ああ、ネボ山――〈神の山〉っていう意味なんでしょう?」
「それで、それからが大問題よね、それ以来、現在まで、〈契約の櫃〉は誰も見てないんだから。……では、なぜ契約の櫃の行方が大問題なのかということは、わたしよりあなたの方が、ずっとくわしいはずだけど、まあ、とにかく、アブラハムおじさんが言うところだと、いつの日か〈失われた十部族〉の行方がわかって、イスラエル十二部族が、もとどおりに一緒になった時でなければ、〈契約の櫃〉は姿をあらわさないことになっている……しかも、その中に納められている神のお告げの内容というのが、わたしたちが、ずっと読んできた聖書にあるようなものじゃなくて、それは、まったく新しい神の契約であるということ。ところが、アブラハムおじさんたちの学派のカバラ研究では、その新しい契約を記した奥義書を、ずっと伝承してきたのは、十二部族の中のエフライム族だけで、そのエフライム族をふくめたイスラエル十部族は、紀元前八世紀以来、行方がわからない。まったくわからないことになっている……」
「……だからといって、いくらなんでも、その契約の櫃や、いうならば〈幻の奥義書〉が、日本の、四国の山の中にあるなんて……」
「そう思うわよねえ。ところがよ、その四国の話をふかく信じて、契約の櫃発掘に、生涯のすべてを捧げたっていう日本人が、実際にいるんだから」
 曙生さんは、〈古代の日本に渡ったユダヤ人に関する資料〉のコピーを、ソフィアの手を借りてあちこちひっくり返しながら、学者の研究発表のごとくに話しはじめた。


 事件の主役はM・タカネ(高根政教 まさのり)という神奈川県小田原生まれの小学校の先生。非常に教育熱心な人物で、国語の授業をおこなううえでの基本として、『言語とはなにか?』という問題を真剣に追究、しているうちに、いわゆる〈言霊(ことだま)〉なるものに興味をいだくようになった。そして、その研究は、どんどん深入りしていって、晩年には、ついにユダヤのタルムードやカバラにまで及ぶようになった。
 とくに高根の関心をつよくひいたのは、あの〈新しい契約〉の内容が、いつ、どこから、どのような状況のもとに姿をあらわすか――ということだった。全力を傾けて聖書を精読したすえに、なぜか彼は、それが日本の四国に、かならず埋蔵されている――ということを、大まじめで信ずるようになった。そして彼は、ちょうどそのころ、B・ウチダ(内田文造 ぶんぞう)という人物とめぐりあう。
 内田は元来、敬虔な古神道の研究家だったが、たまたま四国剣山附近一帯の地下資源を採掘する権利をもっていた。彼は、高根政教が、神秘的資質をもちながら、一方には、きわめて現実的に、級密な推理を構築する才能があることに、心から傾倒した結果、一九三六年(昭和一一年)から十数年間、二人は協力して剣山の宝蔵石周辺に、大がかりな発掘をつづけた。すると、そのあたりの地下に、昔、なに者かが人工を加えたにちがいないと思われる、使途不明の奇妙な建造物の痕跡が、いろいろ出てきた。しかし、肝腎の〈契約の楯〉が発見されないうちに、内田は天文学的に巨額の全資産を使い果たし、貧困のどん底で生涯を閉じた。残された高根は、さらに発掘をつづけるべく苦闘したが、かさなる悪条件に抗しきれず、ついに断念せざるをえなかった……
「もしかして、もっとつづけて掘ったら、なにか出てきたかもしれないってことは、いえるの?」
「そこを確かめたいから、わたしたち、現地を見に行ったんじゃないの。でも、おそらくは、当分、あの辺を掘りかえすことは許されないんじゃないかと思う――出てくる見込みのあるなしにかかわらず……」

「ふ-ん、なぜ?」
「高根、内田の両氏の意気ごみが、あまりに異常だったでしょう。いつの間にかうわさのほうがね、〈契約の櫃〉から、〈時価数千億〉なんていう、ソロモン王の宝や、金塊ということになってひろがっちゃって、高根氏が断念したあとも、いろんな人が欲ひとすじで発掘をはじめたわけ。そうなると、あの辺一帯を管理してる神社が黙ってるわけにいかなくなって、『今後は、いっさい、誰にも掘らせません』となったんだって」
「掘っても、結局、永久に出ないんじゃないの? 契約の櫃は」
「うん、わたしも、ソフィアもそう思ってる。でも、この剣山の話なんかは、まだまだ軽いほうなんだから。青森県の十和田湖のちかくには、『キリストは日本で死んだ』という言い伝えがあるのよ。お墓だって、ちゃんとあってね」
 ソフィアが、微笑しながら、資料ばさみの中から、別の綴りをとりだした。


「こちらはね、剣山の事情とは、なんとなく正反対って感じのケース。まず、問題の戸来(へらい)村(青森県)というところ――今は新郷村になってるんだけど――国鉄の八戸から車で二時間かな、山奥っていっても、田んぼや畑の多い、わりあい平らな道ばかりでね、〈キリストの墓〉のすぐそばまで、乗って行けちゃう。それに地元の人は、もう観光事業化でもえてるから、話にどんどん尾ひれがついていくし……旅館のおやじさんの説明きいただだけでも、なるほど、って気になっちゃうのよ。イエス・キリストという人物が、十字架の受難を危いところで逃がれてから、はるばる日本に渡ってきて、この村で大往生をとげた――っていう話」
「そういわれれば、〈キリストの墓〉のこと、私もまえに、ちらちらと聞いたおぼえがあるけど、はじめから問題になんかしなかった。……その言い伝えって、その村で、それほど大昔から、あったわけじゃないんじゃないの?」
「そうなのよ、正確にいうと、昭和一○年(一九三五)ね、『キリストの墓が発見された』って大さわぎになったのは。ええと、その翌年が大本教弾圧事件があった年なのね。……ということは、ね, 四国の剣山で〈契約の櫃〉さがしがはじまったのもその前後でし襲うlそこに、なにかあるような気がしないでもないんだけど……それはともかく、この〈キリストの墓事件〉の主役は、K・タケウチ(竹内巨磨たけうちきよまろ)という神主さんでね、今世紀のはじめに、富山県から茨城県の磯原(いそばら)というところに移ってきて、皇祖皇大神宮っていう神社を建てた。そして、天津教という、新宗教団体をつくったのね。この宗教の裏づけには、竹内家の先祖が、大昔から伝えてきたという、ふしぎな文献がある……しかもね、その内容というのは、古事記にでてくる神代の時代より前、現代よりはるかに進んだ高度の文明世界があって、その中心が天津教の信仰する〈皇祖皇大神宮〉だった――というわけ」
「そんな文献が、どうして、その竹内なんとかいう神主さんの家に伝わっていたの?」
 
「うん、その竹内家の先祖に、五世紀のころ、平群真鳥(へぐりのまとり)という人がいてね、なぜか大全日から伝わっていた神代文字の書きものを、解読して、漢字の文章に翻訳したんだって。それが、代々子孫に伝えられたと……」
「なにが書いてあるの? その中身」
「それがねえ、超々古代文明っていうのかなあ、とうてい信じがたいんだけど――なにしろ地球以外の天体と、自由に行き来する宇宙船もあったっていうんだから。しかもその宇宙文明の中心が、日本の〈皇祖皇大神宮〉だったので、モーセもシャヵもキリストも、みんな日本にやってきて勉強したんですって。つまり世界の大宗教のもとは、すべて皇祖皇大神宮からはじまった、というわけ。
だからイエス・キリストも青年時代は日本で修行して三十代になってからユダヤに帰って布教したのだ……ということなんだけど」
「ヘーえ、それほどの超女古代文明にシャカやキリストがいるのは不思議ねえ、モーセだって近すぎるようね」
「本気でその話、信じたのか、それとも誰かがいたずらをくわだてたのか、『青森県に戸来(へらい)村というところがあるのは、ヘブライの訛りで、しかもこの村に、〈十来塚(とらいづか)〉と〈十代墓(じゅうだいぼ)〉という変な名前の墓があるのは、キリストの墓にちがいない……となると、ゴルゴダの丘で十字架にかけられて死んだのは、キリストじゃなくて、彼の弟が身代わりになったのだ……』というようなことを言い出す人が出てきて、それからああだ、こうだといわれているうちに、ひっこみがつかない状態になつちゃったんじゃないか――っていうのが、わたしの推理」

「じゃあ、この話も、手がかりにはならなかったのね」
「伝説だって神話だって、みんなそんなところからはじまるのかもしれないから、名所旧跡としておおらかに楽しむのなら充分に結構なんだけど、アラブハムおじさんからたのまれているエフライム族や幻の奥義書の行方さがしとしては……」
「じゃあ日本に大昔エフライム族が渡ってきたかもしれない、という話、自体も?」
「そのことにつきまして……」
 ソフィアが、ちょっと打ちあけ話でもするような笑顔で口をはさんだ。
 「アブラハム大叔父が期待しておりました一ばんのことは、〈八咫(やた)の鏡〉の正体は、なにであったのか、がわかることでしたけれども、残念です。どこに行っても、答え、もらえませんでした」
 外国人の口から、『八咫の鏡の正体』などという言葉をきいて、戦前の教育で育った私は一瞬ドキリとしたが、外国人だからこそ、別に他意はないことだ、と、すぐ思い返した。

 

 第二次大戦の、戦前、戦中に教育をうけた日本人の大部分は、三種の神器ときけば、皇室に代々伝えられてきた皇位の象徴として、少なくとも終戦まではごく自然に畏敬の念をもってきた。その鏡と剣と玉、中でも八咫の鏡は、〈天孫降臨〉という厳粛な場面で、天照大神が孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)にむかって『この鏡を見ること、われを見るが如くせよ』といって託された最も神聖な神宝であるlと修身、歴史、国語の時間に、くり返し教えられた。この神聖な鏡は、伊勢神宮の奥深くまつられて何者の拝観もゆるされないという。にもかかわらず、この八咫の鏡の裏面に、旧約聖書出エジプト第三章一四節の『エㇸイエ・アシェル・エㇸイエ(わたしは有って有る者)』というヘブライ語が刻まれている――という噂が、いつとはなく国内に流れはじめた.一部のユダヤ研究家が主張する〈ユダヤ・日本同根説〉は、あるいは、こういうところから出ているのかもしれない。明治の自由主義者であった森有禮が暗殺されたのは、彼が、文部大臣の職権をもって伊勢神宮の八咫の鏡を、学術的に検分しようとしたのが原因だといううわさが、当時、すくなからずささやかれていた、という。

「でも、そういう雲の上の話は別として、そのほかの調べるところは、どうなの? 全部調べた?」
「まあ大体ね。とにかくソフィアの新学年もそろそろだし、私も秋の展覧会があるから……今回はこのへんで一応打ち切ろうってことになったの。ところがね、アブラハムおじさんの指定を、何パーセントこなせたかってチェックしていてね、大事な人に会ってないのに気がついたのよ。丹沢山の麓に隠棲してる人で中谷(なかや)さんという人。こちらも老人でね、ジャーナリストだったんだけど、アブラハムおじさんがもってる情報では、若いころから〈失われた十部族〉の研究しててね、そのために戦前はパハレスティナやエジプトにも行ったらしい。そのくせ、学会にも加わらないし、きわだった本を書くこともしないから、まあ忘れられた存在ってところ。それが、アブラハムおじさんの資料には、この人の名前に特別マークがついてた……ソフィアも、くわしくはきいてこなかったんだけど、なんでも、『世界の根本的平和は、宗教の根源が同じだということを確認しなければ、はじまらない』っていうようなこと、言ってる人らしいの。
 それで訪ねた。――これが第一次調査の仕上げのつもりでね。そしたら、やっぱり、ただ者じゃなかった。われわれの調査の動機と経過、わりに細かく話したんだけど、きくのは熱心にきいてくれてると思ったのにね、『それだけお調べなら、それ以上、別に申し上げることはないと思います』

って、それからさきは、シャットアウト。まあ、わたしだって子供じゃないから、このうえ食いさがっても無駄だな? って、直感したわけ。ここにも徹底的にわがままな研究者がいたわい、と、恐れいって退出してきた……」
「しゃべりたくないわけを付度(そんたく)したってはじまらないわね、……わかったからこそ秘さなければならないという考えかただってあるかもしれないから……」
「ところが、なのよ、門を出ようとするとぎ追いかけてきてね、『これをお読みになりましたか?』
って、本を出されたじゃないの。これが、なんだと思う?」
 わかるわけがないことを、わざわざ聞くな! と思いながら、私は首をふった。
「あれよ.あなたの――〈聖書は暗号で書いてあった〉――『桃模じいさん大法螺説法』の……」
「ヘーえ、それで?」
 私は、ソフィアの手前、必死で平静をよそおった。

「『あら、その本なら、著者からもらって持ってます』と口まで出かけたんだけど、『では、お読みになったんですね?』といわれたら困るんだな……あなたには申しわけないけど、ちょうどあの本が出たころ大変だったのよ。ニューヨークの個展の前で。……それに、あのタイトル、本題が〈黙示録の秘密〉なんてついてるんだもの、なんとかの大予言というような、この世の終わりのことでも書いてあるのかと思っちゃって、まあ、いつか、そのうちにって、本棚にあずけたまんま、それっきり忘れていたの。ごめんなさい……」
「はじめから、あなたが読んでくれるなんて思ってやしないもの」

 私は本心を言った。
「そんなわけだから『いいえ、まだ』ってだけ言ったの。そしたらね、『では、これ、さしあげましょう。これに、あなたがたがお探しの、エフライムの行方については、なにも書いてありませんが、この人は、なにか掴んでいるかもしれませんな、まあ私の感触ですが。実は、一度、会ってみてもいいな、と思って手紙を出してみたんですが、この桃楼じいさんという人は、健康上の理由で、現在、だれとも面会謝絶の状態とかで、ことわり状がきました。あなたがたが訪ねられても、多分、会わないでしょうが、これ、読んでみられたらどうですか? あるいはなにか、お役にたつかもしれませんな』って……」

「で、 ?」
「どうもこうもないでしょう。『ありがとうございます。では、遠慮なく頂戴いたします』って、わかれたんだけど。――もう、車を出したとたん、汗だく。あんな驚いたことって……。でもソフィアは事情しらないから、なぜ、そんなにエキサイトしてるのかって聞くんだけど、こちらは、夢かどうかもさだかでない気持ちなんだから、急には、うまく説明できないの。やっとここに帰ってから、実はって打ちあけて、さあ、それからよ。その晩――いまや二冊あるんだから、二人で一冊ずつ持って、読みはじめた」
「ヘーえ、この際、なんとご挨拶すればいいの? ほんとに、おつかれさまでございました……」
「こんどはね、ソフィアのほうが、もっとびっくりしちゃって。――たしかにエフライム族の行方のことは書いてないけど、アブラハムおじさん――どころか、何世紀にもわたって、カバラの研究家たちが、メジテーションにメジテーションをつづけながら――でしょう? 多分。……解こうと努力した旧約の謎を、あの桃楼じいさんが、こともなげに解いているかのごとく読めるじゃないの。
それはともかくとして、二人とも、その晩、徹夜。朝になって、ソフィアが最後のぺージを読み終えて、まず、言った言葉がね……」

「?……」
「『この、「『この、桃棲じいさんは、ほんとうに日本人なのですか?』だって。この人が、大叔父さんのさがしてるエフライムー日本に渡ってきたというエフライム族の、子孫じゃないのかっていう意味……」

 私はソフィアに向いて苦笑するしかなかった。
「そしてね、いまからすぐ、箱根に行って仙石原の桃楼じいさんを紹介してくれって」
「どうして来なかったの?」
「だめよ。あの老ジャーナリストにさえ断ったという人に」
「曙生さんが、そんなこと、なぜ思わなけりやならないの! あなたが、あのつらいとき、一世一代のひと工面して蟻の街を助けてくださったこと、桃楼じいさん、生涯、恩にきているのに。あなたのためなら、どんな無理してでも、話すにきまってるわよ」
「それが、わたし、いやなの。わたしの父も、早く死んじゃったけど、いわゆる芸術家かたぎというのか、気むずかしかったって、母が言っていた。自分がほんとに大事にしてることは、よほど気が向いたときにしか、口に出したくないっていうの、よくわかるのよ」
「そんなこといってたら、あの頑固じいさんが、自分から進んで、なにもかもしゃべるなんてこと、十年に一度くらいのものだわ」

「でも、あなたは、もう、二十年以上も、そばにいるんだもの、あなたから聞いても、まあ同じことだろうって……」
「……そうね。……もう二十なん年たったのね……」
 私の体をつつみかけた感慨は、しかし、すぐ消えた。あらためて立原女史に言われなくても、さっきから私の頭の中で、奥義書、カバラ、エフライム……と、いくつもの名詞が綯(な)いあって紡錐(ぼうすい)のようにくるくる回っているのだけれど、糸口が見えてこない。……あれは――あとひと息という感じのとき、私の想念を、いきなり曙生さんの声が断ち切った。
「あ、お弁当、きたらしい。おそくなったけど、おひるにしましょ」

  


     『香りもたかい橘を……』

 

 思い出したように鳴きたてる蝉しぐれに、さそわれて庭に目をやると、小さな石塔の上のさるすべりが、群れをなす花を真紅にひろげた梢で、まだ真上にいる太陽をガシッとうけとめている。
「外に出るのは暑いし、それにこの季節だからまちがいないようにと思ってね」
 ソフィアも手つだって卓上に配られた細長い三重弁当の中は、京都風の精進料理だった。
「まあ、素敵! だけど、ソフィアさん、大丈夫なの?」
「ソフィアは、わたしよりずっと、日本趣味だもの。それに、たまには、ベジタリアンのアブラハムおじさんをしのんで、肉もさかなも無しというの、楽しいんじゃない?」
 食卓の話題は、アブラハムおじさんの赤貧の噂に集中した。

「箱根の仙石原ならね、霞を吸って生きても、結構おいしいかもしれないけれど、ニューヨークではねえ……」
 立原女史の言葉に、ソフィアは、器用に割箸をあやつっていた手をとめて笑う。
 それでもニューヨークの霞を吸って、ほとんど誰ともつきあわずに、古いヘブライ語の写本の山に埋もれながら、ひたすら時を惜しんで黙々とカバラの研究をつづけるアブラハムおじさんの光景を、箱根仙石原の桃楼じいさんと、一つ一つ重ねあわせて、とにかく、そっくりだということに、論評は一致した。
「人間て、生きかたが似てると、顔つきまで似てくるものなのかしらねえ……」
 曙生女史は言いながら、あらためてソフィアに顔を向けると、桃楼じいさんが、第二次大戦後の東京で、蟻の街というバタヤ部落をひっぱって、蟻の街の一般の住人よりも、はるかに貧しくくらしたこと、人類が動物や植物の生命を奪うことなしに生きられる食糧の研究に夢中になったこと、そして、そのドンキホーテじいさんのそばで、私が、いかに無意味な苦闘をしていたかを、彼女一流の容赦ない毒舌を盛り込みながら説明した。どうやら、ほとんどが初耳ではないらしいそれらの話題を、ソフィアは軽薄にならない感嘆詞でうけながら、積極的に聞きいっていた。
「まだ、すこしは冷えてる」
 やがて曙生さんは、オレンジにかるく手をふれながらすすめると、微かに一肩をすくめて、思い出しわらいをした。
「ねえ、桃楼じいさん、相変わらず、みかんの種まき、やってらっしゃる?」
「もちろんよ。種さえあれば、食べるより種まいて歩くのがしあわせって感じでね。――なんの話かと、首をかしげているソフィアに、曙生女史が解説する。
「あなた、アップルシード知ってるでしよ?」
「あの、りんごの種を、いつもポケットに入れていて、どこでもまきながらあるいた、ジョニー・アップルシードのことでしょうか?」
「そう。桃楼じいさん、彼の話をね、子供のときに読んですっかり感激したのね。それからというもの、果物のタネ、とくにみかんのタネというタネは、ぜんぶ播いてあるくんだって。ところかまわず……」

「それならば、もう仙石原は、みかんがいっぱいでございましょう」
「それがね、いまだかって、一本も生えたためしがありませんの……でもね、桃楼じいさんに言わせると、出なくて当たりまえ、生涯に何万粒のうちの一粒が、もしも出たら大変なことなんですって……」

「それだけ悟ってるなら、もっと、どんどん書いたり講演にだって行けばいいじゃないの! ねえ」

曙生さんが、皮肉と私への同情をまぜあわせた声をなげ出すと、ソフィアは、とりなすように言った。

「桃楼じいさんは、日本の、オレンジシードでございますね」
「ゆくさきざきに、みかんの木が生えるならば、ね」
「そう……日本のオレンジシード……」
 立原女史が虚空をみたまま、つぶやいた。

「ね、済んだら、秋の展覧会に出すの、途中だけど、見て……」
 手にしかけたオレンジをそのまま置いて、彼女は、せわしげに立ちあがる。
「うれしいけど、あなた、わからない人間には、描きあがるまで絶対に見せないんじゃなかったの?」

「いいから、いいから。このさい皮肉は無用……」
 さっさと画室へ行く女史について、私たちも廊下に出た。

 

 ガラス戸をしめきったままの北向きの部屋。さすがに蒸し暑いが、曙生さんはこの部屋では心頭滅却するとみえる。横位置の、幅三メートルほどもある描きかけの大作の前に、すでに彼女は、腕組みして、あぐらをかいている。
 まだ下塗りの画面は、大きな墓の内部らしい。中央のやや右よりに、石棺の前で、うづくまるように一人の老人がひざまづいている。
「あら? これ、さっきのアブラハムおじさま?」
「そうしたわけじゃないのに、なんだか似てきちゃうの。はじめは桃楼じいさん描きたかったんだけど。箱根の火口丘で、ガスにつつまれて立っている……若き日の華やかな環境、劇場生活。それから戦争。空襲、焼野原の東京。野宿の人の群れ、蟻の街のマリア……そういう時間を、こうバックにおいて、遠く見つめているのは桃楼じいさんなのか、波潤万丈の桃楼じいさんの過去が、火口丘に一人立つ彼をつつんで、見つめているのか、……というふうに」
 私は彼女が桃楼じいさんに直接、会いに来なかった別の理由がわかる気がした。なにか、磁力がつよすぎて、針がブレ切れるのが怖かったのではないだろうか。
「そこへソフィアがやってきた。二人でエフライムさがしの旅行してるあいだに、桃楼じいさんとアブラハムおじさんが重なってきちゃったのよ。ニューヨークのイーストサイドの屋根裏で、背中をまるくして大昔の手書き本をね、もう、あちこちちぎれてるようなのを、読みふけっている姿のファンタジー……でも、まだだめ。こっちへ入ってこない。アブラハムおじさんが言ってるそうなんだけど、『全人類共通の宇宙的記憶』っていうのを、なんとか描けないかって気持ちが、だんだん強くなっちゃって……そうなってくると、もう、一人の老人の過去じゃないの。民族の歴史なんていうのでもなくて、永遠の、宇宙の神秘をさがす人――なんだけど、それが、なんなのかって。……それがね、ソフィアと二人で四国から九州へ行こうとしていたとき、ふしぎなほどピタッとくるみかん山を見たの。真青な入江をゆったりと囲んで、見渡すかぎりの濃緑(こみどり)が延々と起伏してる。あの花の香りが、まだほのかに残っていて、体じゅうの血が、きれいになるような感じがした。そしたらわたし、ソフィアと歩いているのもわすれて、唱ってたの。知らない?『香りもたかい橘を……』っていう、昔の童謡……」
「『積んだお船がいま帰る……』lどうしてこんな歌、知ってるの, およそ、あなたらしくない……私は弟が小学生のとき――あ、あのころは国民学校ね、学校で習ってきたのを、教えてもらったんだけど」
「あら、文部省唱歌? わたしは母が唱ってたのを聞いたの。だれが母に教えたのかなあ」
「低学年だったと思う。短音階で、児童むけにしてはずいぶん感傷的なメロディーね。いまの子供は、とうてい唱う気がしないでしょう」

「そうねえ……わたしには母の声として入ってるから……死んでからはいっそう。ふかん畑の裾(すそ)を歩いていて、無意識に唱ってたとき、今度の画は田道間守(たじまもり)だ! って。同時に構図がきまったの」
「桃楼じいさんから、アブラハムおじさんになったのは、まあ、わかるとして、なんで田道間守?」
「だって、わたしのからだには、田道間守の血が流れているんだもの」
 ソフィアは、笑顔で、傍聴者になっている。
 曙生さんの語調は、冗談でもないらしい。


「わたしの母は兵庫県生まれ。三宅という姓なんだけど、三宅姓は、みんな田道間守の子孫なんですって」

 そういえば私も以前、読むか聞くかした――三宅連等(みやけのむらじや)の祖(おや)……
「――『こうして、日本じゅうの人が、みかんを食べられるのは、かあさんのご先祖さまのお蔭なのよ』っていうの。『今から千九百年も前の大昔、垂仁天皇の御代に、日本になかったみかんの種や苗木を南の国から持ってきたの。それはそれは苦しい旅を、一○年もつづけて。そして、やっと見つけて日本に帰ってきたら、みかんをさがしてこいと命令なさった天皇さまは、もうおかくれになっておられた。田道間守はガッカリして天皇さまのお墓の前で、常世(とこよ)の国の非時(ときじく)の香(かぐ)の木(こ)の実を、ただいまもってまいりましたって叫びながら泣きつづけて死んだの』って。ものごころつく前から、なんども聞かされた。こんど、なんとなく気がついたのよ、田道間守は、わたしにとって重大なアイデンティティだったって」
「なんだかきょうのあなたは、私の知らない曙生女史ね。いつも、ご自分の画と関係ある話なんか、してくれないのに――しかも、こうやって途中の作品の前で。……そうすると、このお墓の壁にえがき出されるのは、彼の最後の目がみた幻影? ……幻想は立原曙生の世界、画がき手は、田道間守の亡霊……」
「そう、そうではあるんだけれど、もっともっと奥の、いうなら、すべてのいのちが帰っていくところ……あなたなら、ここに、なにが見えてくる?」
 私はなにも答えず、そのうす暗い洞窟の壁をみつめながら、さっきの歌を、ほとんど声を出さずに唱った。……私には、この、いかにも時代にそぐわない感じの歌を、そう遠くない昔、唱った記憶がある。あれから何年たったろう……

序章 エフライム
キリストは日本でしんでい死んでいた
香りも高い橘を
香りもたかい橘を
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