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第四部日出る国の神話
第一章 女帝たちの悲願
いつ 誰が なんのために
「第二次大戦が終わるまでは、古事記といえば、日本最古の歴史書として神聖視されていたのが、敗戦後は、権威が地におちてしまった」
「いまは一般に、大昔の、ただの伝説集というくらいの認識になっているようだ」
「それにしても、いつ、誰が、なんの目的でこのような本を作ったのか、については、大安万侶(おおのやすまろ)の序文に、一応くわしく書いてあるね、――『日本には古くから皇室をはじめ豪族たちの家に、それぞれの記録や神話、伝説や歌物語などが伝わっていたけれども、時とともに異説や誤りが多くなって、このままでは、なにが本当かわからなくなる心配があるから、天武天皇の御代(六七三~六八六)に、それらを比較検討して訂正したうえ、できるかぎり正確な記録をまとめて、後世に伝えようとした』――というわけだね。もし、これがほんとうだとすると、古事記の本文は、すでに天武天皇のときに大体できあがっていたことになる。しかし、問題の序文には、『資料は集まっていたのだが、なぜかそれを明らかに成文化しないまま月日が流れてしまったので、和銅四年(七一一)九月十八日に、時の元明(げんめい)天皇から、あらためて安万侶に対して、これを正確にまとめるようにと命令がくだった』ということが、書き加えられてある。しかし、最近になって、梅原猛というのが出てきた……」
「天孫降臨の神話は、伝統をやぶる皇位継承の方法を、あくまでも正当化するために作りあげた話だっていうんだろう? あれは面白いね、ぼくらのような門外漢には、大いに好奇心をそそられる話だ」
「たしかに、七世紀から八世紀にかけて、女帝から孫へ皇位を伝えるということが、二度くり返されている。女帝の持統天皇から孫の文武天皇へ、そしてまた女帝の元明天皇から聖武天皇へ。……
『しかし、これは決して異例のことではなくて、そもそも日本建国のはじめに女の神様の天照大神が孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)を統治者として指命したときに、定められた法則だ――と、公けに納得させるために作られたのが、天孫降臨の神話だ』――という説だが、それだけでなく、この、梅原猛、上山春平両教授の説によると、この策謀を推進したのは、藤原鎌足の次男の不比等で、彼は、古事記の編纂によって、女帝たちの悲願を成就させたことと同時に、じつは、藤原家の独裁体制を固めるための裏付けの目的も、見事にやりおおせた――というわけだ。さらに梅原教授は、『天武天皇の命(めい)をうけて、古事記の原文を読みならって、それを太安万侶に口述筆記させた舎人(とねり 天皇側近の侍者)の稗田阿礼(ひえだのあれ)とは、本当は藤原不比等のぺンネームだった』、とも言っている」
「われわれは小学校のとき、稗田阿礼は語部(かたりべ 古い伝承を口誦する半自由民)の女だったって教えられた記憶があるな」
「古事記には『氏は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八』としか書いてない。しかし、もし、天武天皇が稗田阿礼に、古事記を誦(よ)み習うことを命令されたのが崩御の年(六八六)だったと仮定すれば、不比等の年齢とぴったり合うんだ」
「なるほどな、……いずれにしても、不比等が古事記作成のイニシァティヴを握っていたというのは、充分ありそうだ」
「ただし欲をいうとね、もし天孫降臨の物語が、元明天皇時代の創作だったとしたら、一ばん最初に、誰が、どうやって、そんな策略を思いついたのか?――その火元が、もっとはっきりすると、この両教授の説は、さらに劇的で魅力あるものになると思うがね……」
「そのプロットを、最初に思いついたのは、不比等か、それとも持統天皇のほうか……さもなくて元明天皇か……しかも、いかなるいきさつで……」
「そうなると、急にあやしい影をちらつかせはじめるのが、問題の幻の奥義書なんだ。なぜならば、古事記の内容や成立の情況が、旧約聖書と、あまりにもピッタリと符合しているからだ。もっとも、こんなことをいうと、『それこそ偶然の一致にすぎない』ということで、日本国じゅうから攻撃されるだろうが、……旧約聖書の創世記は、『はじめに神は、天と地を創造された」という書き出しになっているだろう、――一方、古事記は、『天地(あめつち)はじめて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は天之御中主神』という言葉ではじまる。ただし、聖書のほうは、それから先も、終始一貫、神はただ一人だが、古事記のほうは、文字どおり八百寓(やおよるず)の神々が現われてくる。その問題の解釈については、あとで論ずることにして、とにかく創世記の『地は形なくむなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた』――につづく天地創造の物語と、古事記の『国稚(わか)く、浮きし脂(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なし漂へる時……』ではじまる国生みの話が、酷似していることを、まず挙げておいて
……しかし、それよりもさらに重要なのが、いうまでもなく天照大神が天孫邇邇芸命に『この豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)は、わが子孫の統治すべぎ国である』と、命令するところだ。旧約聖書には、これとそっくりの場面が、何度も出てくる。その第一は創世記の第一五章で、神はアブラハムに向かって、『わたしはエジプトのナイル河から、メソポタミアのユーフラテス河までの地を、あなたの子孫に与える』と約束する。そして次の出エジプト記では、神はモーセに、『イスラエルの民を導いて、乳と蜜の流れるカナンの地へ行け』と命令する」
「『豊葦原の瑞穂の国は、わが子孫の王(きみ)なるべき地(くに)なり』という言葉が、戦前の日本人なら、誰でも瞬間にひらめくな」
「……もっとも、イスラエルの十二部族は、すぐには目的地に着けなかった。長い年月をかけて荒野を大迂回したあげく、第一世たちが死に絶えて二世の時代になってから、ヨルダン川の東側に出て、そこからようやく〈約束の地〉に入ることになる。それがなんと、古事記のほうも、高天原から地上に降った邇邇芸命の一行は、それから三代の問、九州にどどまっていた……」
「そうだね……実際に葦原中国(あしはらのなかつくに)を征服する旅に出たのは、神武天皇だから……」
「その神武天皇、なぜか最終目的の大和に入る前に、わざわざ紀伊半島を大迂回して東から西に向かって進むことになる」
「ウーン、似てるな……十二部族をひきいたモーセやヨシュアの行動と……」
「それにヨセフの身の上が、いかにもわが大国主命(おおくにぬしみこと)の運命と似ていることについても、黙ってはいられないだろう? 八○人の兄神たちに嫉まれて何度も殺されかけて、旅のときは奴隷さながらに、みんなの荷物を入れた大袋を背負って歩いた。ヨセフもさんざん兄たちから迫害されて奴隷に売られたが、クライマックスは国王につぐ〈国のつかさ〉にまでなって、最後は離散して、失われた十部族の末路になる――大国主命も絶頂期は人びとの敬愛を集めたが最後は、国譲りの決断を余儀なくされた……そのほかにも古事記と旧約の細かな共通点は、どっさりあるけれども、全体的に共通する特徴としては、地名や人名の由来を、あまり信用できそうもない故事来歴と無理にむすびつけたり、登場人物の系図を、その場その場でいかにも真実らしく、こまごまと書きならべているところなども、そっくりだ。……しかし、『大昔の神話や伝説というものは、どこへ行っても似たりよったりなのが、あたりまえ』という人も多いだろうから、しばらく問題の角度を変えて、古事記と旧約聖書のなりたちについて考えてみようか」
「しかし、聖書にはすべて神の言葉がそのまま書きとめてあるのだから、一点の虚構もない、という意識を、現代でも大がいのクリスチャンが持っているんじゃないだろうか――すくなくとも、ぼんやりと、くらいは」
「ところが、さっき言ったとおり、一八世紀末あたりから、わずかひと握りではあるけれども、いわゆる聖書批判学なる一派が現われた――『モーセの五書が、今日のような内容にまとめあげられたのは、ユダ王国が滅亡して、国民の多くが新バビロニア帝国の領土につれて行かれた。バビロン捕囚時代(BC五九七~五三八)以後であって、神のお告げを、そのままに書きとめたものではないこと』を、理路整然と立証した。そのために、聖書というものが、いつ、どうやって世に現われたのか、ということが、少しずつ、はっきりしてきた。それにしても、なにからなにまでバビロン捕囚時代に創作されたわけではない。いわゆる〈モーセの五書〉の原型ともいうべき最初の文書が成文化されたのは、紀元前八五○年ごろのことだ、とわかった。これは、ユダ王国とイスラエル王国が分裂してから、八○年もあとになってからなんだね。そして、その内容というのは、今日のものから見て、ずっと簡単、素朴なものだったようだ。だが、そのころになって、なぜ急に、ユダ王国の中で、『自分たちだけが、唯一の神から選ばれた特別の民族である』ということを、とくに強調した歴史書を編纂する必要が生じたのだろうか? 原因をたどっていくと、ユダ王国の初代の国王だったダビデの王位が、どのような経緯で、その子のソロモンに伝わったか? という問題を、究明しなければならなくなる」
「旧約聖書のなりたちも、王位継承の問題か……」
ソロモンは纂奪者だった.
「ダビデには、すくなくとも一九人の男の子がいた(歴代志 上 三-1)その中でソロモンは、年の順でいけば、まん中より下になる。もっとも、ダビデは、死ぬまぎわまで、正式の跡つぎをきめていなかったらしい。けれどもいろいろの事情から、四番目のアドニヤが、王位をつぐものと、大体において見られていた。つまりソロモンが王になるとは、誰も思っていなかったんだ――にもかかわらず、なぜ、ダビデは、ソロモンに王位を譲ったのか?……実は、そのとき、実際にダビデが生きていたか、どうかという疑いさえあるのだが、とにかく、ある日突然、ソロモンの母親が、死に瀕しているダビデ王に迫って、無理やりに『ソロモンに王位を譲る』と宣言させた。しかもそのとき、間髪を入れず、かねて待機していた祭司のザドクが、――ソロモンの唯一人の味方だった――ソロモンの頭に、王位継承の証しとなる〈聖なる油〉を注ぎ、ラッパを吹き鳴らして、『ソロモンが新しい王となったこと』を、公式に発表してしまった(列王紀 上 一章参照)。それだけじゃない。ソロモンは、ただちに兄のアドニアをはじめとして、反ソロモン派と思われる人間たちを、片っつぱしから殺したり追放したりする一方、最大の功労者のザドクを、大祭司として神職の頂点に立たせ、しかも、その特権が永久に彼の子孫だけに相続されるという慣例の基礎をひらいた」
「天武天皇が死んだ直後にも、同じようなトラブルが、あったらしい……」
「天武天皇は皇子十人。――もっとも、皇后を母とする草壁皇子(くさかべのみこ)が皇太子ということは、はっきりきまっていたのだが、異母弟の大津皇子(おおつのみこ)の方が人望があったから、皇后(のちの持統天皇)は不安のあまり、ついに、天皇崩御から一カ月もたたないのに、大津皇子を謀叛の名目で死に追い込んだ。しかし、これが、持統天皇の側の誰かがしくんだ落し穴だったことは、当時、すでに周知のことだったらしい」
「そのいきさつは万葉集の歌なんかからも、わかるな」
「権力で世間の噂は、抑えられないね、何千年後まで、こうやって、われわれにもなんとなく聞こえてくるんだから……ソロモンの問題にしても、彼が生きている間は、あまりにも権力が強大だったから、おそらく誰ひとりその不正行為をおもてだてて指摘することはできなかったろう。しかし、ソロモンが死ぬと間もなく、例のエフライム族を筆頭とする十部族が、新しくイスラエル王国を名乗って、ユダ王国と分裂した。……そして、彼らは公然となじったにちがいない――『ソロモンはヤコブだった』といって」
「ヤコブ――十二部族の生みの親だろう? アブラハムの孫で……そのヤコブだっていうと、なぜソロモンを非難したことになるんだ?」
「旧約聖書では、ヤコブをただの固有名詞に使っているが、元来は『とって代わる者』――それも、陰険な手段で、他人の地位を横取りする人間を意味する普通名詞なんだね、だからこそ、創世記(二七章)では、年とって目が見えなくなった父親をだまして、兄の相続権を奪い取った人物を、ヤコブという名で呼んでいるのだ」
「しかし、十二部族にとって最も大切な生みの親が、そんな卑劣な行為をしたと、わざわざ公の歴史書に、しかもヤコブという名前で残すというのは、ちょっとわからないね」
「おそらくヤコブの話は、最初は単なる昔話の一つにすぎなかったと思うんだ。ところが偶然にも、この話は、ソロモンの王位継承のいきさつに似すぎていた。そもそも『老衰している父親をだまして、兄の家督権を奪え』とヤコブをそそのかしたのは、彼の母親だったのだから。……だから、ユダ王国側にとって、『ソロモンはヤコブ( 簒奪者 さんだつしゃ)だ』という流言蜚語は、二重三重の意味で、手痛い攻撃だったはずだ。そこで名誉を挽回しようと知恵をしぼった。その結果、『ヤコブという伝説上の人物は、実は唯一の神からカナンの地を約束されたアブラハムの孫で、イスラエル十二部族の生みの親であること、しかもそのイスラエルという名前も、ヤコブが神と相撲をとって勝ったから〈神をうち負かす者〉という意味のイスラエルと改名したのだ(創世記三二-28)』というストーリーを、堂々とユダ王国の正史にのせることを思いついた……」
「待ってくれ……相当に複雑だな……そうなると、ソロモンを簒奪者だと非難するやつは、十二部族の生みの親を非難することになるし、さらにヤコブとイスラエルが同一人物である、となると、別れていったイスラエル王国側でも、ヤコブの悪口は言えないわけだな」
「つまり旧約聖書の最初の原典は、ことにヤコブをめぐる物語の部分は、こういう策略のもとに、ユダ王国とイスラエル王国の対立が最もきびしかった紀元前八五○年ごろに、ユダ王国内の知恵者、――おそらく例のザドクの子孫の祭司である誰かの手によって、作成されたに相違ないのだ」
「ヤコブの母親とソロモンの母親か……それを日本の歴史にあてはめてみると、古事記のなり立ちとも符合する……か」
せん桑よう
「その意味で、まず第一ばんに気になるのは、その当時の宣命(せんみょう=
みことのり)の中に、奇妙な言葉がくり返されていることなのだが――『不改 常典(あらたむまじきつねののり)』という、異様な表現が、なんと三度も、元明天皇、聖武天皇、孝謙天皇の即位の宣命の中に現われる……」
「不改常典というのが、そんなに異様か?」
「それまでは、皇位は、父から子へ継がれるというよりも、むしろ、最も適任と思われる皇子へ譲られるのが慣例になっていたのが、天武天皇崩御のとき、のちに持統天皇になった皇后が、是が非でもわが子の草壁皇子を皇位につけたかった。ところが草壁皇子は若死したので、その後は、さらに強引に幼年の孫を擁立することになった。これがのちの文武天皇だね。ところが、文武天皇もまた若死されたから、今度は草壁皇子の妃で文武天皇の母の元明天皇が、持統天皇と同じ立場で幼年の孫、後の聖武天皇が成長するまで、自分が皇位を預かっておく必要が生じた。しかし、これは、まったくの異例であって、当時の常識で考えられることではなかった。そこで『この皇位継承の経緯は、天智天皇が、永久に改めてはならないと定められた原則である』という説明をする必要があった」
「天智天皇の制定だという証拠は?」
「はなはだあやしい。もし本当なら、天智天皇の弟である天武天皇が、天智天皇の長子であった大友皇子を倒して即位したことが、そもそも不合理だ。……それはともかくとして、どう考えてみても、天智天皇が不改常典なるものを、言い残されたとは思えない。それで、説得力を、強めるために、『この不改常典という原則は、実は、神代の昔、皇祖天照大神が、皇孫邇邇芸命を豊葦原瑞穂国に降されたとき以来、連綿と伝わるものである』と説明する必要が起こった――それが古事記編纂の由来である――というのが、梅原、上山両教授の論拠になるわけだ」
「……用意周到な知恵者がいたことは事実だな」
律令・遷都を企画させたもの
「そこで、もう一度 ソロモン即位のとぎの状況を考えてみよう――誰の目にも、うさんくさいいきさつだったのに、おもてだっては一人も異議を唱えることができなかったのはなぜか?……それは、〈聖なる油〉なんだ。その当時、『一旦、聖なる油をそそがれて王となった者、つまりメシア=キリスト――に対しては、いかなる理由があっても楯つくことはできないという、犯すべからざるおきてがあったからだ――なぜ、聖なる油が、それほど絶対神性とされるのか、となれば、その根拠は、出エジプト記(四-13・14、27~31、二八-41、三○-22~38)にくわしく書いてある。ただし、それは、モーセの兄であるアロンの子孫と称するザドクの子孫たちが、後世に捏造したことはたしかなのだが、面白いことにはね――前にも言ったけれども、――この出エジプト記に『これは彼(アロン)と、彼ののちの子孫のための、永久の定めでなければならない』(二八-43)とか、『祭司の職は、永久の定めによって彼ら(アロンの子孫)に帰するであろう』(二九-9)という言葉が、なんべんも出てくるということなんだ」
「まさに不改常典だ」
「もちろん、これも、偶然の一致といってしまえば、それっきりのことだが、それなら一体、いつ、誰が、なんのために、その〈永久の定め〉なるものをつくりあげたのか? という問題ね、――何度も言ったけれども、今日われわれが手にしている〈モーセの五書〉――創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という、このぼう大な書物が、忽然として現われたのは、バビロン捕囚時代が終わってから約一○○年ほど後に、〈第二のモーセ〉とよばれる律法学者のエズラが、――これは例の祭司ザドクから数えて六代目にあたる祭司――彼が、解放後のエルサレム神殿の再建工事を督励するためにペルシア王の統治下にあったバビロンからやってきた――これが、紀元前四四四年とも、三九八年ともいわれているのだが、彼は、なんのために、宗教書というよりはむしろ法律の書と言いたいような〈モーセの五書〉をたずさえてきたのか?」「それは、さっきの話だろう? バビロン捕囚でエルサレムの都が、空き家同然になっている間に、周辺一帯に住みついた異部族を追い払う必要があった……」
「そうなんだ。ことに、旧イスラエル王国から移住してきたサマリアびとたちを、一掃するのが、ねらいだった。しかし、〈モーセの五書〉の特徴はそれだけではない。ほとんど全編の記事が、すべてアロンの子孫、しかもその中のザドクの子孫である祭司だけに、都合よく構成されているということを、見逃してはいけないんだ。モーセの五書に、ただそう書いてあるというだけでなく、この記述が根拠となって、いわゆる〈第二神殿時代〉とよばれる、約五百年の間、――エズラがエルサレムに現われてから、紀元七○年にエルサレムが陥落したときまでのこの期間、ユダヤ民族の最高権力は、ほとんど、ザドク家と、その一統であるサドカイびとの手にあった。そんなことができた根拠はどこにあったのか、というと、ことのおこりは、初代のザドクが、ソロモンの頭に〈聖なる油〉をそそいだ唯一最大の功労者だったことからはじまるわけだが、そればかりでなく、その後の子孫たちが次つぎと工作した策謀の巧妙さは、驚くほかはない。しかし、なんと、これが、わが藤原不比等のやりかたに、不気味なほどよく似ている……」
「どうやら、問題が、核心に迫ってきたようだ」
「不比等が、いつごろから、天武天皇の皇后だった持統天皇や、その皇太子の草壁皇子の妃で後に文武天皇を生んだ元明天皇たちの、最重要のブレーンになったのか、そして、その動機についても、はっきりしていない。しかし、天武天皇崩御の三年後(六八九)に、その時すでに死期が迫りつつあった草壁皇子から、ひとふりの宝剣が不比等に贈られたことが記録に残っている。この宝剣は、その後(六九七)草壁皇子の遺子の文武天皇の即位のとき、あらためて不比等から天皇へ返される。ところが、その文武天皇もまた、わずか二五歳で崩御となって、その直前、この宝剣が再び不比等の手に渡る、そして、養老四年(七二○)不比等が死んだ日に、当時皇太子だった、後の聖武天皇に、この宝剣が返されている――ということは、すくなくとも、このひとふりの宝剣が、草壁皇子から不比等に初めて贈られたときから、彼は一貫して持統女帝や元明女帝の信頼を一身に担っていたと考えて間違いないと思うね。……つまり三○年間、四代の天皇の絶対的支持の下で、彼は存分の活躍ができるわけだ。ところで、その間の彼の業績の中で、とくに力説しなければならないのは、第一がなんといっても大宝律令」
「そうだな、日本が、はじめて法治国家になったんだから……」
「それまで令(行政上のきまり)はあったが、そのきまりを破った者や、その他の犯罪者に対する罰則(律)が明文化されていなかった。その律ができて、一応、法治国家の体裁をととのえることに則(律)なった」
「しかし、角度をかえて見れば、窮屈になったこともたしかだ」
「うん、庶民はもちろんだが、皇族貴族といえどもこの律令に違反した場合には、たちどころに厳罰に処していいという、大義名分が成り立った……」
「そうか、……エズラがモーセの五書を持ってきたのと同じ効能だな」
「エズラ記には、彼は神の律法に照らして、ユダヤ教の信者――ということは全ユダヤ民族だ――を裁き、その教えを守らない者を投獄し、財産を没収し、追放し、あるいは死刑にする権利を、ペルシア帝国の国王から与えられた、ということが書いてある。(エズラ記七章)そこで、その永遠の定めである〈神の律法〉なるものは、いつ、どうやって制定されたのか? そのいきさつを証明するために、創世記はじめ、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記など、歴史書でもあり、宗教書でもあり法律書でもある、いわゆるモーセの五書が、入念に作りあげられた……」
「まてよ、……不比等が古事記を編纂したと仮定するとだな、まず新しい法典を制定した。そしてそれを裏付ける皇位継承のきまりまでが、天地開闢(かいびゃく)以来の、改ムマジキ〈永久ノ定メ〉であると宣言した……ということになるんだな、……ひっかかるよ、これは」
「そのうえ不比等の業績には、大宝律令や古事記のほかに、もう一つ大きな平城遷都があるね。――元明天皇和銅三年(七一○)――このときから、いわゆる奈良朝がはじまって、青丹(あおに)よし奈良の都の時代が、七代の天皇の七十何年、つづくわけだ。東大寺の大仏ができあがったのは、不比等が死んで三○年以上たってからの、聖武天皇の皇女(不比等の孫)の孝謙天皇天平勝宝四年(七五二)で、この大事業は聖武天皇の発願といわれている。しかし、ほんとうにそうだろうか? たしかに聖武天皇という人は、奇抜な思いつきを、ただちに実行するという傾向はあったようだ。しかし、日本全国に国分寺と国分尼寺をつくらせて、これとまったく並行して都に巨大なビルシャナ仏を建立しょうという、あの周到にして遠大なプロジェクトは、平城京造営の当初から、不比等の胸中で練りあげられていたのではないだろうか?……この仮設には、いろいろの証拠があげられると思うんだが――かりにだね、もし、不比等が、そういう理想を描いていたとしたら、彼のモデルは、どこにあったか……」
「もちろん旧約聖書といいたいんだろ?」
「例のダビデね、エフライム族の領地にあった契約の櫃をとりあげて、自分の居城のエルサレムに移したこと、そして、その子のソロモンの時代に、おそらく大祭司ザドクの発案だったろうが、エルサレムに、空前絶後の壮麗な大神殿を作って、すべてのユダヤ教徒にとって永遠の、唯一の聖地たらしめようとしたこと――もし、不比等が、そういう過去の先例を知っていたとしたら?……」
「平城京の造営や大仏建立のアイデアにつながったか……」
「もう一つ注目すべきことがあるんだ。彼は、文武天皇二年(六九八)に、父の鎌足が天智天皇から賜わった藤原の姓を、不比等直系の子孫だけに限ることにして、それまで同じく藤原を名乗っていた一族を、もとの中臣に一戻してしまった。その理由については、いろいろ解釈のしようがあるけれども、律令政治の中央最高機関である太政官の実権を藤原不比等が握って、一方の、神社や祭祀に関してのあらゆる問題を統制する神祗官を、中臣家がもつことによって、政治、宗教の両面とも、藤原、中臣だけで支配しようという意志だった、と推測する人は多いんだ」
「中臣家は、いうならばユダ王国の大祭司の家柄にあたるか……ザドク一門との類似性はますます濃厚だね」
「ところで――中臣家で担当する神事のなかで、六月と十二月の晦日におこなう中臣の大袚というのはとくに重要なもので、これは天皇以下万民の、ありとあらゆる罪をはらい清めるための神事だけれども、これとまったく同じといっていいのが、旧約のレビ記(二三-32)に出てくる〈贖罪の日〉(ヨムキプル)なんだ。ユダヤ教では七月一日が新年の元日で、天地創造の第一日を記念するわけだけれども、それにつづく一○日間は、エデンの園を追われたアダムとエバによる人間の原罪をはじめとして、一人ひとりが、過去一年間に犯したすべてのあやまちを悔い改める期間でもあって、その最後の日、七月一○日が、最も厳粛な〈贖罪の日〉(ヨムキプル)にあたる。そして、その日、エルサレムの神殿でこの神事をおこなう特権は、代々ザドク家――先祖がソロモンに塗油したザドクの子孫だけが握っていたのだ」
「日本の大袚は、そのヨムキプルだというのか……」
「偶然の一致というのは、世の中にいくらでもあるよね、……しかし、例の幻の奥義書なるものが日本に伝わってきていたとして、それを、藤原不比等が読んだ――と仮定した場合、大宝律令の制定や古事記の編纂、そして平城京造営の由来が、これまでより、はっきりしてくるのは事実だ」
「う――ん、まあ、そこまでは、一応、きみの仮設に可能性を認めるとして、――『皇太子が夭折したあと、女帝が自分の孫に皇位を継がせたいために、女神の天照大神が孫の邇邇芸命に詔勅を出したという歴史を書かせた』という、梅原、上山両氏の説に対して、きみは、それが旧約聖書の翻案だ――という。しかし、それなら、天照大神の岩戸開きはどうだ?――古事記の肇国神話にモデルがあったという以上、安易に例外ということはゆるされないだろう? ぼくは、むしろ、古事記神話の中で、岩戸開きというのは重要なテーマだと思っているんだがね……」
第二章 日の神信仰の系譜
なぜ鏡をおがむのか
「たしかに、いわゆる旧約聖書の中に、岩戸開きの原型は見あたらない。しかし、問題の幻の奥義書というのが、実際あるとしたなら、おそらくその内容というのは、単なる聖書の註釈だけではなくて、そもそもの成り立ちの解明から、究極に意図する奥義までを一貫して包摂しているものにちがいない。したがって、当然、発端は、イクナトンの昔へとさかのぼることになる……そこで、あらためて、イクナトンが崇拝した太陽神に、関係ある神話を調べる必要は当然おこる。そのとき第一に思いつくのは、エジプトのハトルという女神が、頭に太陽を表わす円板をのせている姿だ。エジプトの神話では、神々同士の親子夫婦の関係の説明が支離滅裂だから、彼女は太陽を生み出した偉大な宇宙神かと思うと、太陽神レエの娘だといわれたり、鷹の姿をした愛の女神だったり、天の牝牛だったりする.そういう雑多な神話の中に、こんなのがあるんだ――あるとき、何かでひどく腹をたてた〈太陽神レエの娘のハトル〉が、父神のもとを離れて、獰猛なライオンの姿になって砂漠をあばれまわっていた。太陽神レエは、地上の人類を統率するためには、是非とも娘ハトルの協力がほしい。そこで部下の神々を派遣して、彼女をなだめようとしたが、ハトルは帰るといわない。そこで知恵の神トートが、『もし、ハトルが、理想国エジプトの建設計画に参加してくれるなら、壮麗な神殿を建てて、好物の酒を毎日欠かさず供えるし、にぎやかな音楽も踊りも奉納する』と約束する。トートのたくみな弁舌にのせられたハトルは、ついに、怒り狂うライオンの姿から美しい愛の女神に戻って、華やかなパレードに囲まれながら新しい神殿に向かうことになる。それ以来、毎年、知恵の神トートの月の正月には、『ハトルの女神がつれ戻された記念』の祝典が、エジプト各地で盛大に祝われるならいになった
……いろいろ雑多にあるハトルの女神の神話の中で、これが一ばん知られているんだ」
「太陽の女神が、酒宴や踊りに誘惑されて連れされた、となると、いやでも天照大神の岩戸開きを連想しないわけにはいかないな……それに〈荒らぶる神〉の須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原にのぼってきたときに、天照大神は男装して立ちむかったというイメージも、ライオンに変貌した、というのと通じるともいえる……」
「ことに、思金神(おもいかねのかみ)の役割ね、――天安河原(あめのやすのかわら)に八百葛の神々が集まって夫照大神を岩戸からつれ出す相談をしたときに、芸能をつかうというアイデアを出して成功した思金神は、知恵の神トートの変形とも想像できるだろう?……そればかりじゃないんだ。このハトルの女神の祭りでは、とくに女の祭司が、シストラムという、赤ん坊をあやすときのガラガラのような楽器を振りながら舞う儀式がつきものになっているのだが、それが、また、日本の神楽(かぐら)で、巫女がふる鈴によく似てるんだ」
「しかし、きみ、太陽神信仰に専心したイクナトンは、太陽神以外の神は、一切排除しようとしたんだろう? それなら、ハトルの女神をまつるということも認めなかったんじゃないのか?」
「まったくそうなんだ。それまでは、大神殿の内陣には、ありとあらゆる神々の偶像が飾ってあって、全部がおがまれていたのに、イクナトンはその習慣をことごとく禁止した。そして、屋根なしの青空神殿というか、野外の聖域で、太陽を象徴する一枚の円板だけを礼拝の対象にした。……だが、その円板たるや、元来、ハトルの女神のシンボルで、彼女の頭飾りだったものだ」
「宮中の儀式で女子の大礼服のとき、おすべらかしの髪に〈ひらびたい〉っていうの、つけますね、額の上に。あれも、いかにも太陽と太陽の光、という感じじゃありませんか?」
「磨きあげた金属の円板が太陽のシンボルだというのは、そもそも天照大神の神勅と無縁ではなさそうだ。『この鏡を見ること、われを見るごとくせよ」
……それに、日本の神社にしても、普通の家庭の神棚にしても、御神体(ごしんたい)は、ほとんどが鏡だろう、つまり〈金属の円板〉というわけだ。……伊勢神宮をはじめとして、どの神社も、今でこそ鏡を屋内に祀っているけれども、昔はそとだった。祭礼のときは、屋外の聖域に運び出されて ひもろぎ(神のよりしろとなる木)にかけて礼拝した。――文武天皇のころまでは、そうだったらしい……」
「あの、……ですけれど日本は、――それこそ〈神代のむかし〉から、太陽神崇拝の国だったのではないのですか? 私たち、子供のころからずっとそう教えられていたと思いますけど」
「その神代の昔というのは、いつごろのこととして考えてる?……中国の歴史書をみると、『日本』という国名が正式に出てくるのは〈旧唐書〉(くとうじょ 一○世紀前半ごろ書かれた)以後で、それまでは、中国側では日本を倭国というし、日本ではヤマトと名乗っていたらしいね――ところが、ある時期を境にして、なぜか急に『日本』ということを意識しはじめる……」
「ある時期って?」
「記録の上にはっきり現れてくるのは、あの『日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや』だろうな……推古天皇一五年(六○七)に、隋に送った国書。隋の煬帝は腹をたてたらしいが、もしこれをエジプト流に解釈すれば、〈天子〉はすべて〈太陽神レエの子〉だ。そして〈日出処〉はケプリ(創造)、〈日没処〉はアトン(完成)を意味するのだから、少しも礼を失することにはならない」
「事実、煬帝は怒った記録があるんだろう? とすると煬帝が知らない知識を、聖徳太子が持っていて、力負けした、ということになるな? 当時の中国と日本の状況として、そんなこと考えられるか?」
「太子が例の奥義書を読んでいた、としたら?」
「うむ……それなら、その太陽神が、外来のものだったとして、聖徳太子以前の、いつごろ入ってきたことになる?」
「魏志倭人伝の記事ね、それに、古墳からの鏡の出かたからして、すくなくとも三世紀以後の日本人が、鏡に対して、異常な愛着を持っていたことは事実らしい……しかもその鏡には、凸面鏡があるというのは、明らかに化粧のための道具ではない。礼拝の対象として、霊的なものだったんだ。ところで『魏の天子が、邪馬台国の女王卑弥呼に銅鏡百枚贈った』というのは、景初三年(二三九)のことだといわれている……日本書紀の編者は、卑弥呼を神功皇后と考えていたらしいが、最近の歴史家の中には、卑弥呼の時代は、いわゆる神代の、天照大神のころにあたる、という人もいる」
「そうなれば、やっぱり神代時代から太陽信仰があったことになる。すくなくとも田道間守(たじまもり)よりはまえからあったということだろう?」
「そこでなのだが、――大正時代に内藤湖南という学者がいたろう? 支那学の大家。彼はね『卑弥呼の使として魏の国へ渡った人物は、田道間守ではなかったか?』とも言っているんだ。ただし、今日の歴史家の多くは、垂仁天皇は四世紀の後半あたりと推定しているようだから、当然、古事記に登場する田道間守は、卑弥呼時代より、かなり後れていると考えなければならない――だが、その問題は、いま、しばらくおいて、田道間守が常世の国をめざして非時の香の木の実をさがしに出かけた理由を、さっき言ったように円野比売(まどのひめ)が垂仁天皇を呪って死んだことにあると仮定した場合、古事記には、それとまったく同じといっていい話が、もう一つ、天孫降臨直後の、石長比売の物語として出てくるという問題なんだが……ここでかりに、内藤湖南説を参考にして、田道間守は円野比売事件の垂仁天皇のときでなくて、卑弥呼の時代、つまり天照大神時代、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と国じゅうの国民を呪った石長比売事件のときだった、と考えてみると……」
「なるほど、卑弥呼だけでなくて、田道間守まで神代の人間にしてしまうのか……内藤湖南は田道間守を卑弥呼までひき上げた。桃楼じいさんは、さらにその卑弥呼を天照大神だとしてみるというんだな――一方、その〈神代〉と魏人伝の〈銅鏡百枚〉の記録によって、三世紀前半まで下がってくる……『ヤマト』が、『日の本』とか『日本』にかわった理由も、それで説明がつくわけか」
「そこで、もう少しエジプトと日本の神話の類似点をあげてみると、古事記に、伊邪那岐命(いざなぎみこと)の左の目から天照大神が生まれた――つまり太陽だね、そして右の目から月読命(つきよみのみこと)、月が生まれた、とあるけれども、エジプトでは、太陽の女神ハトルの夫、〈鷹の姿をした空の神ホルス〉の目は、太陽と月なのだ。さらに見逃せないのは、別の伝説では、鷹そのものが、太陽の使になっている。それで鷹は、〈太陽神レエの子であるファラオ〉が、戦場で窮地に追いこまれたとぎ、かならず救いにやってくるというんだ――神武天皇の金の鵄(とび)の話と、どう? 長髄彦(ながすねひこ)を相手に苦戦したとき、天皇の弓の先にとまってサンゼンと光ったから、敵はみんな目がくらんで逃げたという物語と……」
「そういくつもたたみかけられると、田道間守がエジプトの太陽神をもってきた、という仮設も無視できなくなってくるが、……彼が、その信仰に出会った場所の設定は、どこに置くんだ?」
不死鳥フェニックス
「なにしろ空間的距離から言っても、当時エジプトは、はるか彼方のことだし、時間からみても、イクナトンと田道間守は、一六○○年以上の開きがあるとみなければならないわけだから、その間には、相当数の中継者がなければならない。……ヨシュアをはじめとするエフライム族や、サマリアびとの手を経てイエスに伝わり、さらにイエスからトマスに受け継がれた奥義のルートは、おおよそ想像することができるものの、それからあとが簡単にはいかない。
……もしも田道間守が行った先がインドだったとすれば、彼が手に入れたのは多分、アレクサンドリア経由でトマスが持ってきた、大乗仏教の原典になったものだろう。――しかし、田道間守が、あるいは中国のどこかでその奥義と出会ったのだとしたら、それは、シルクロード経由で、シリア系の絹貿易商が、中国に持って行った、景教の経典の一部だったかもしれない」
「しかし、どのルートだったにしても、エジプトの太陽信仰の起源にまでさかのぼるという以上、その間の千六百年、絶えないでうけつがれてきた伝承の、痕跡がなけりゃならないな」
「その手がかりは、意外なところに、ころがっているんだ。……たとえば、イクナトンの死後、ヨセフはテーベの神官たちの迫害をさけて、シナイ半島の荒野に脱出したと推定できるわけだが、旧約にも書いてある通り、彼は、オンの祭司の娘と結婚しているね――このオンというところは、現在ではカイロの町の一部になっているけれども、かつてはエジプトの最も古い都の一つで、あらゆる神々の揺籃(ようらん=ゆりかご)の地とよばれていたし、そのうえ、太陽神信仰の中心地だった。このオンという地名は、元来、古代エジプト語では『記念碑の都』――日光を象徴するオベリスクの都――という意味で、アレクサンダー大王がエジプトを征服してから以後は、ギリシャ語でヘリオポリス(太陽の都)とよばれるようになった。……さてこのヘリオポリスに関係する伝説というのは、またまた数えきれないくらいあるのだが、一ばん有名なのが、不死鳥フェニックスだろう。フェニックスはギリシャ語で、色あざやかという意味だね。この烏の寿命は、五○○年とか一五○○年とかいろいろの説があるけれども、とにかく臨終の時がくると、自分の体を焼いて灰にする。そしてその灰の中から、若い鳥の姿になってよみがえる。それから、かつての自分の骨を、ヘリオポリスの太陽の神の祭壇に納めるために飛んで行くというんだ。もっともこの神話は、本来はナイル河の氾濫を予告する星として信仰されていたシリウスが、はじめて地平線に姿を現わす日が、毎年すこしずつずれて、もとの日に一戻るのが、一四六一年目であることに由来するらしいのだが、いつの間にか、その天文学的な意味は忘れられてしまって、五○○年から一五○○年ごとに再生をくり返す不死鳥、つまり、永遠の命のシンボルということになった。そして、その後、紆余曲折を経た末に、キリスト教の重要な教義の一つである〈復活〉という信仰が生まれることになる」
「そうか……復活というのは、イエスが蘇ったためにはじめて宗教上の問題になったわけじゃないんだな。すくなくとも近東地方の人間にとっては、古代エジプト以来の願望だったわけか……」
「聖書研究家の多くは、古代のユダヤには復活の思想はなかった、というが、それはエフライム族の伝承を無視して、ユダ王国側の文書である旧約聖書だけにこだわるからで、そもそも古代エジプトの太陽神崇拝と、復活や永遠の生命の信仰は、大昔から付きものだったのだから、それが連綿と伝わって、後世キリスト教の中に根をおろすまでの経緯は、近東地方の国女の神話や旧約聖書(ヨブ記 二九-18 但し「砂」=「不死鳥」と解釈して)、それに初代キリスト教会の文献(クレメンスの手紙25・26)などから、いくらでも拾い出せるのだが、しかし、そのエフライム族経由の〈復活の思想〉が、さらに例のトマスを通じてインドの大乗仏教にまで影響していることを、明らかに示唆するのは、
法華経の、薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)だ――この中で、自分自身の体を焼いて仏を供養した菩薩が絶賛されているために、『焼身自殺が、なぜそんなにありがたいことなのか?』と真意をつかみかねて、昔から法華経の解説者が苦心惨憺(さんたん)しているんだが――しかし、この薬王菩薩本事品の、「一切衆生喜見菩薩――万人が憧れる美わしい菩薩――は、ありとあらゆる香木を積みあげてから自分で火をつけて、一二○○年の間、身を焼きつづけて灰になると、ふたたびもとの姿に復活した』という、謎めいた物語が、実は、エジプトの不死鳥フェニックスの復活物語のつくりかえで、その裏には永遠の命を得るための瞑想法の奥義がかくされているのだ――と解読すれば、焼身供養のテーマに、なんの疑惑も存在しなくなる」
「……そうだとすると、田道間守は、インドまで行ったことになるか?……」
「田道間守が、もし、三世紀前半の人だったとすれば、大乗仏教の思想をはじめて体系だてたといわれる謎の人物、ナーガールジュナ(龍樹)の晩年の時代にあたるのだから、一一人がインドで直接顔を合わせた可能性も、なきにしもあらずだね、しかし一方、田道間守は、中国に行って景教の信者に出会った、という可能性もある」
「行先がインドか中国かのちがいで、持ってきた奥義の内容はちがってくるだろうか……」
「ほとんど大同小異だと思うよ……とは言っても、景教徒の奥義書には、エジプトのイクナトン以来の系譜が、とくにはっきり書いてあったはずだ。なぜならば、彼らが自分たちの宗派を中国語では景教と呼んだ。――この字を分解すれば、〈日の京(みやこ)の教〉――つまり太陽の都の教え、ということになるだろう? 言いかえればヘリオポリスの教えじゃないか。フェニックスの教えそのもの、ということにもなるはずだ」
「しかしだね……フェニックスの復活が法華経の中に入り込んでいる、という説はなんとかのみこめるにしても、景教がヘリオポリスの教えだという謎解きは、どうもうますぎる感じがするよ……」
「じゃあ、例の、長安の都に建てられた〈大秦景教流行中国碑〉――この、上に彫ってある十字架をみたまえ――この形は俗にマルタ・クロスとよばれているが、これの起源は磔刑(はりつけ)の十字架ではなくて、本来、太陽の輝きの図案化であることは確かだ。しかも、その下に、蓮華と雲が描いてあるだろう。このデザインは、この石碑だけに彫ってあるのではなくて、中国周辺で発見されている景教徒の墓石には、ほとんどみな、マルタ・クロスがついていて、その下に、はっきり蓮華が描かれている石碑も、いくつか、あるんだ」
「太陽の十字とエジプトの蓮華か……盲点だったな……」
「エジプトの神話では、太陽は最初、蓮の花から生まれたことになっているんだよ。多分、蓮は日の出といっしょに花が開くからだろうが、要するに蓮華の上の日輪は、日の出の太陽=ケプリ=創造=『ありとあらゆるものを存在せしめるもの』という意味になる、しかもそればかりじゃなしに、大乗仏教の時代になると、急に仏や菩薩の彫刻や壁画が、例外なく蓮華の上に坐っている姿になるし、経文にも『蓮華台に坐し……』という言葉がしきりに出るのも、同じ根拠からに相違ない」
「それにしても、どこで、どうクロスするんだ? エジプトの太陽信仰とキリスト教は」
「イエスの誕生日が、一二月二五日ときまったのは、四世紀なかばごろからで、元来は、冬至を境に、日が長くなりはじめることを祝う太陽神の祭りだったのだ。だが、キリスト教と太陽神の結びつきは、それだけじゃない。イエスは十字架で死んだのち、いわゆる復活祭――春分後にくる満月の直後の日曜日――に蘇ったことになっているが、太陽神が悪魔の手にかかって殺されて春分のころに蘇るという神話は、エジプトばかりでなく、大昔から、世界じゅうどこでもあるんだ。ただし、古代のエジプトやメソポタミヤ地方では、牛が、太陽の身代りとして犠牲に供えられる習慣があった。その理由は、今から五、六千年前の春分は、太陽が、ちょうど牡牛座をバックにして空を渡っている季節に、あたっていたからなのだ」
「五、六千年前の春分と、今の春分とで、太陽の位置がちがうんですか?」
「その説明は、中村君にしてもらうほうが安心だな」
「桃楼じいさん流でなく、どうぞわかりやすくお願いいたします」
「突然、責任重大になるんだね、ここの家、星座表あったか? ああ、それでいい……地球は太陽の周囲を一年かかって一周するね、しかし地球からは、太陽の方が、一年かかって大空をひと回りするように見える――ああそうか、大空をひと回りとは見えないな、この星座表をひと回りするんだね……その太陽の通り道が、この黄道帯(ゾディアック)だ。この黄道と地球の赤道とが交わっている所が二カ所あるね、春分点と秋分点――つまり春分の日に太陽は、
――もちろん昼間 星座はみえないけれども、ちょうどこの魚座の辺の位置にきているわけだ。これが、四月五月と、だんだん東へ移っていって夏至には双子座、秋分には乙女座、冬至には射手座となってきて、一年たった春分にはまたもとの魚座のところに帰ってくる。といっても、正確には、もとの位置じゃない。ほんの少し、西へずれるんだ.これを天文学で歳差というんだが――今夜はテーマがちがうから、このずれる理由は省略しておくよね――とにかく七二年間で、約一度ずれるから、七二の三六○(度)倍して、約二万六千年たたなければ、もとの位置には、戻らないんだ」
「それで五、六千年前の春分のときの太陽の位置が、今とはかなりちがうというわけなんですね」
「この、魚座の中の現代の春分点の位置と、これよりはるか東の牡牛座のアルファ星のアルデバラソの位置は、これだけ――経度で約七○度 離れているだろう。だから、春分点が、そのあたりにあったのは、七二を七○倍した、約五千年昔のことだという計算になる……」
「でも、そのころの春分点が牡牛座にあったからといって、牛が、なぜ、太陽神の身代りの犠牲にされたんですか」
「それは桃楼じいさんの守備範囲だから、バトン渡すよ」
五千年前の春分点
「それはね、今から五、六千年昔のナイル河やチグリス、ユーフラテス河の流域に定住して農耕をはじめた人びとにとって、牛は最も大切な労働力だったから、毎年、新しく耕作を開始する春分のころに、きまって太陽が通過する星座を牡牛座とよぶようになったらしいんだ。しかし当時はまだ、歳差の事実に気がついていなかった。だから牡牛座は、永遠に太陽の新しい出発点となる聖なる星座だと信じられていた。そしてそこから逆に、牛そのものが、太陽神のシンボルになっていった……」
「鷹やスカラベが太陽の神のお使いとして大切に扱われたのと同じ意味ですね?」
「それと同様に、古代の人は、毎年、春分のころになると、冬の間枯れたと思っていた植物が、急に芽を出してくる自然現象を、悪魔に殺された太陽神が再生する、という神話によって理解しようとした。そしてさらに『あらゆる生物は、もし太陽神にあやかることができるならば、死んでもかならず生きかえる』という信念をもつようになった。それにしても、どうすれば、自分も太陽神のように復活することができるか? 太陽神と同じような死が、その条件だ――と彼らは考えたんだ」
「古代の神秘教(ミステリズム)の祭典では、入門者は、かならず一度殺されて、それから再びこの世に生まれなおしてくるという儀式が行われたらしいね」
「しかし入門者を本当に殺して生きかえらせるわけにいかないから、太陽神が殺された後、蘇るというドラマを演ずるより方法がない」
「そこで、太陽神のシンボルと思われていた牛が、殺されたわけか」
「窮余の一策というか、ごく自然にそうなったのか、人間というのは、じつにいろんなことを考えるものだ……それにしても、太陽神の呼び名が、民族、時代によって、いろいろちがうために、いわゆる神秘教とよばれる宗教の種類は数えきれないのだが、教義は似たりよったりだ。つまり、発想の源が一つだったということだね」
「キリスト教のミサにしても、キリストが殺されて春分の直後に復活したというドラマを、そのたびに厳粛にくり返すわけだから、やっぱり太陽神の神秘教の系統に入ることになるな?」
「でも、イエスキリストは、神の子羊にたとえられているでしょう? 子牛ではなくて」
「その問題をいうのに、『イスラエル民族が、とくに羊を大事にしていたから』とか、そのほかにもいろいろ理由があげられているが、その中で『イエスが生まれる少し前までの、二千年あまりの間は、春分点が、例の牡牛座から離れて、その隣りの牡羊座の上にくる期間に入っていたから』という解釈が、一ばん筋が通っている。つまり、イエスの時代、太陽神のシンボルは、すでに牛から羊に代わっていたのだ――だから、太陽神の身代りになって犠牲になる者を、〈神の子羊〉とよぶようになった……」
「しかしね、この星座表を、黄道帯の長さでざっと測っても、イエスが生まれたころの春分点は、もう牡羊座を通り越して、そのまた隣りの魚座に入っていたはずだと思うがなあ……」
「そこなんだよ! それが重大問題なんだ。古代の近東地方の宗教の歴史を調べるとき、その宗教が、それぞれ、いつごろ発生したかを知る方法として、教義や儀式の中で、牛が尊重されているか? それとも羊か、魚か、あるいはなにも出てこないか? ということが、おおよその年代や、系統を推定する目安の一つになるのだ。その意味からすると、たしかに君のいうとおり、イエスの
時代は、春分点は、はっきり魚座に移っていたころだ。だからこそ、マルコによる福音書(--17)の中で、イエスは、ペテロたちに向かって、『あなたがたを、人間を漁る漁師にしてあげよう』といっているだろう……そのほかにも、福音書には、魚と関係のある話が、かぞえきれないほど出てくる。それは、たまたまペテロたちが漁師だったからだ、といってしまえばそれきりの話だが、初代キリスト教会で、好んで使われた『Iesous Xristos Theos Uios Soter
(イエス クリストス テオス ヒュイオス ソーテル = イエス、油塗られた者、神、子、救い主)』という、ギリシャ語のイエスをたたえる祈り、これの頭文字を拾うと、Ixthus(イクテユス)となってまさしく魚の意味になる。これを、単なる語呂あわせと言ってしまうよりは、初代キリスト教会の人たちが――と言っても、ごく限られた、指導者たちだけではあろうけれども――たしかに天文学上の春分点と魚座の関係をよく知っていて、イエスを太陽神と同一視していた、なによりの証拠と見ることはできないだろうか」
「しかし、それはむしろ、迷信的な星占いの影響じゃなかったのか? 天文学というより……」
「キリスト教の研究家の中にも、そういう考えかたの人が、かなりあるようなんだ。だがね、占星術がいう十二宮(黄道帯を一二等分した位置)は、なぜか大昔から、春分は白羊宮にはじまって、そのつぎが金牛宮、それから双子宮という順序で、最後が双魚宮なのだ。これは、春分点がまだ牡羊座にあったころの習慣が、そのまま現代までつづいているということだろう。星占いの人たちが、もう二千年も前に、春分点が牡羊座から魚座へ移っていることを、知らないはずはないのだが、なにかの理由で無視しているのか……ところが、初期キリスト教徒たちは、すでに春分点が魚座に来ていることを、はっきり意識していた――となると、彼らは、占星術を信ずるよりも、むしろ天文学に明るかった――としか、考えられないじゃないか」
「となると、イエス自身も、かなりの天文学の知識をもっていたかもしれないね」
「クリスチャンの中には、パウロはインテリで、イエスや十二使徒は、学問には縁がない人たちだったという人が珍しくないが、聖書をよくよんで見給え、むしろイエスや直弟子たちのほうが、当時の保守的なユダヤ教のラビたちよりも、はるかに進んだ知識や教養をもっていたらしい面影が、随所にちらついている……」
「でも、そうならば、ヨハネの福音書で、〈神の小羊〉と言ったり、黙示録で〈ほふられた小羊〉と言っているのは、なぜでしょう? それはむしろ、星占いのほうに近いということになりませんか?」
「たしかに洗者ヨハネは、イエスのことを〈神の小羊〉と呼んでいるし(ヨハネ福音書--29、36)、ヨハネの黙示録では、〈小羊〉という言葉が、三○回ちかく使われているね(五-6以下)、……だが、そのことこそ、前にも言ったけれども、ヨハネの黙示録の原典は、イエスがまだ生まれていない前、春分点が牡羊座にあった時代に書かれた――洗者ヨハネはそれを読んでいたのではないか――と想像される理由の一つなのだよ」
「でしたら、その牡羊座が出てくる黙示録が、エジプト伝来の〈幻の奥義書〉ですか?」
「いや、そうではない。いまわれわれが言うところの〈原典黙示録〉は、牡羊座の時代に書かれたものにはちがいないが、だからといって、イクナトンやヨシュアの時代にまでさかのぼるほど古いものではない。なぜならば、ギリシャ人のヒッパルコスが歳差を発見したのは、紀元前二世紀だろう? このことは、羊が、はっきり太陽神のシンボルと思われるようになったのは、前二世紀ごろからだ、ということを裏づける――それ以前の約四千年間は、ずっと牛が、太陽神の象徴だったはずだ。したがって、いまわれわれが言うところの〈原典黙示録〉は紀元前二世紀以降にまとめられたことになるから、奥義書そのものではない。奥義書を手に入れるための道しるべにすぎないのだ」
「つまり、正真正銘の奥義書には、牛が太陽のシンボルだった時代の、痕跡をとどめているはずだ――というんだな?」
「その視点に立って旧約をよみかえしてみると、『黄金の牛を祭ることはヤハウェの意志に反するもの』として激しく非難しているね(出エジプト記三二-35、列王紀(上)一二-25~35、歴代志(下)一一-15、一三-8など参照)、……これは明らかにユダ王国や例のアロンの子孫と称する大祭司ザドクの家に伝わる教義が、太陽神信仰の系譜に属していないことを物語っている……。だが、もし『わたしは有って有る者』と名乗っているYHWHが、『ありとあらゆるものを存在せしめる』エジプトの太陽神ケプリだったとすれば、いわゆるほんものの奥義書には、むしろ牛という言葉が出てこないはずがない。……その証拠には旧約聖書の中にも(創世記四九-24、詩篇一三二-2、イザヤ書--24など)――今日では『全能者』という言葉に置きかえられているけれども――本来はこれらの書の著者が、YHWHを牡牛と呼んでいたらしい痕跡が、ごく古い版には残っている――と主張する聖書学者がいるくらいだ」
「そうなると、かならずしも、『牛は邪教のシンボル』として片づけられなくなるな……」
「そこで、問題は、牛がつきものであるミトラス教だ……」
「ミトラス教? あれはゾロアスター教の一派だろう……キリスト教の最大の敵といわれたやつじゃないのか?」
第三章 祭り終わって
牛を屠る神ミトラス
「ミトラス教が、どういう宗教だったかと言うのは、非常に困難なのだ。今から千五、六百年前に、キリスト教徒によって地上から根絶やしにされてしまった――ということになっているのだから……エルネスト・ルナン(一八二三~一八九二三)て知らないか? そう、例の有名な〈イエス伝〉の著者。その彼が『もしもキリスト教の成長が、初期の段階で止まっていたら、世界はミトラス教になっていただろう』といっているが、なにしろ、今日、われわれが、ごくわずかな資料から知るだけでさえ、この二つの宗教が、あまりにも似かよっていることは驚くべきものがあるんだ。たとえば――前に言ったイエスの誕生日――これが公けに一二月二五日となったのは四世紀になってからのことだが、それよりずっと以前から、ミトラス教では、この日が、太陽神ミトラスの誕生を祝う大切な祭日だった。ヨーロッパのあちこちからミトラス教の遺跡が出てきてから推測されることは、信者たちはちょうどキリスト教のカタコームのような洞窟に集まって『ミトラス神が、自分自身を象徴する牛を屠って、その肉と血を信者たちに与える――それによって彼らの復活を保証したのちに天に昇って行く』というドラマを演ずる聖餐式を実行していたらしい。ただし、ほんとうに牛を殺す祭典は、おそらく春分と秋分のときだけで、それ以外の季節には、羊や魚の肉を代用したり、あるいはパンとぶどう酒が、太陽神ミトラスの肉と血を象徴するものとして用いられた――ともいわれている。……いずれにしても、キリスト教とミトラス教が、いかに酷似していたかを知るには、その当時のクリスチャンが、『ミトラス教というのは、悪魔が、キリスト教を模倣して作りあげたものだ』と断言している事実で充分に推察できるだろう」
「じゃあゾロアスターの一派だという通説はどうなる?」
「ゾロアスター教の、ごく古い聖典からわかるのは、開祖のゾロアスター(前七世紀~六世紀)は、そのころ流行していた秘儀で――それがおそらくミトラズ教らしいのだが――復活の象徴として牛の肉をたべて血を飲むことに対して非常に批判的で、自分の信者たちが、それを真似ることをおさえた。ところが、彼が死んでから弟子たちは逆にミトラス信仰をゾロアスター教の中にとり入れて、ミトラス神を、唯一の神アフラマズダの分身のような位置にさえもしてしまった。……しかし、厳密にいらなら、ミトラス神信仰は、ゾロアスター教とはあくまでも別のもので、起源がずっと古いものだ」
「ゾロアスターが、古代のイラン地方で新興宗教をはじめたのは、ちょうどユダヤのバビロニア捕囚の時代じゃないか?……ミトラス教がそれより古いとなると、いつごろ誕生した宗教なんだ?」
「考古学上の調査で、紀元前一四世紀ごろに、小アジア地方を制圧していたヒッタイト帝国の人びと(旧約聖書のヘテびと)が、隣国のミタンニ国とむすんだ条約の証しとして、ミトラス神の名をひきあいに出している例が、あるそうだ」
「紀元前一四世紀というとイクナトンの時代じゃないか……太陽神ミトラスというのが同じころあったとなると、エジプトの太陽神信仰との関係が気になるな」
「じつはね、問題のイクナトンの熱狂的な一神教の発想は、彼自身のものではなくて、彼の王妃が、どこか外国の太陽神に心酔していたので、イクナトンはそれをエジプトの太陽神レエに置きかえたのではないか、という説があるんだ。では、その王妃ネフェルトィティの生まれはどこか、というと、正確なことはわからないが、『そのころ、エジプトと最も親しかったミタンニ国だろう』と推定する人が多いようだ。ところで、その当時、ミタンニ国にせよ、ヒッタイト帝国にせよ、かならずしもミトラス神一辺倒ではなかったにしても、ミトラス神を最高神、またはそれと同等の神として崇拝していたことは事実らしい。となると、王妃ネフェルトィティが新しくエジプトに持ち込んだ唯一神としての太陽神信仰は、あるいは発生期の、原始的なミトラス教ではなかったろうか? という説は、あながち一笑に付すわけにもいかないと思うんだ」
「イクナトンからヨセフを通してエフライムやヨシュアに伝わった太陽神信仰のもとが実はミトラス神信仰だった――という系譜もありうる――か」
「そのことについてはね、これまでのヨーロッパの、ミトラス教研究家の多くが、ミトラス神を『古代のイラン地方で発生した光の神(あるいは太陽神)であって、東はインドに伝わり、西は小アジアを経て、やがてローマ帝国の全域にひろまったもの』と定義づけている」
「光の神といえば、まず第一にゾロアスター教のアフラマズダを連想するが、しかしヨハネや、それからきみが言ったトマスの福音書にも、光という名詞がくり返されているということとも、関係がありそうじゃないか?」
「それに〈景教〉というのが、〈太陽の輝きの教え〉という意味だとしたら当然イクナトンの信仰とも無関係のはずはないと思うのだが、なぜか、エジプトの宗教との接触は、『絶無ではないが第二次的なもの』と見なされがちなのだ。しかし、その見解には疑問がある。というのは、今日、ヨーロッパのそこここで、いわゆるミトラス神殿の遺跡から発見される、〈牛の上にまたがってそれを屠ろうとしているミトラス神像〉の左右には、ほとんど例外なく、ミトラスと同じ姿をした、二人の若い松明(たいまつ)奉持者がつき添っていること。しかもその二人は、ただ松明を照らして立つのではなくて、大ていの場合、一人は松明を上に向け、一人は下に向けている。またある場合は、松明を上に向けている者が牛の角に手をかけ、下に向けている者は牛の尾をにぎっていることもある。それだけじゃない――松明を上に向けている者の後ろに、雄鶏がいて刻(とき)をつげていることさえあるのだ。いったい、これを、どう考える?」
「松明を上に向けたほうは夜明けで、下を向けてるのは、日没の意味じゃないのか」
「やっぱりそう思うだろう? となると、真ん中にいる〈牛を屠る神ミトラス〉は、真昼の象徴ということになるね――つまりミトラスが太陽神レエで、松明を上に向けているのはケプリー日の出、下に向けているのがアトン=日没……エジプトの太陽神信仰そのものじゃないか」
「そうなると、ソロモン王が死んでからユダ王国と袂(たもと)をわかったイスラエル十部族の教義や儀式は、ミトラス教と共通するものをもっていた可能性も考えられるか」
「捕囚後にユダ族側で作りあげた〈モーセの五書〉や歴史書(列王紀、歴代志など)のなかで、十部族たちの信仰を、『黄金の牛を崇める邪教』と言って非難しているが、ほんとうは彼らが、〈牛を屠る神ミトラス〉を祀っていたのを、わざとそんなふうに曲げてけなしているのかもしれない」
「かの有名な最後の晩餐ね、あのときイエスが『これは自分の血と肉だ』と言って、弟子たちにパンとぶどう酒を与えるところ(マタイニ六-26~28、マルコ一四-22~25、ルカニニ-19)、あれも、その、牛の血と肉を、ミトラス神が自分の命として、与える儀式とつながってくる感じだねえ……しかし、もしもそうならば、イエスはミトラス教というものの存在も知っていたことになるし、しかも敵視してはいなかった、と考えなければならないが、実際のところは、イエスの後継者たちは、むしろ目の敵にしたわけだな……」
「キリスト教徒の徹底した迫害によって、紀元五世紀以降、ミトラス教は地球上から完全に消えた――と欧米の研究家はきめている。しかし、それは、ローマ帝国と手を結んだ、〈ギリシャ語によるキリスト教〉の勢力範囲についてだけ言えることだ」
「それじゃ、さっきから君が強調する、トマスの流れのアラム語によるシリア教会の区域では、あまりはげしい対立はなかった――というような記録でもあるのか?」
「話が飛びすぎると思うだろうが、そのミトラス教の名残りが、二十世紀も終わらんとする今日、日本に歴然と存在している……ほら、松明と、牛が主役の祭り……」
(上) 牛を屠るミトラス (「ミトラス教」フェルマースレン著より)(下) 摩多羅神 (「仏教大辞棄」第六巻より)
「ああ、そうか、京都の太秦(うずまさ)寺の牛祭りだろう……。なるほど、あの白衣にグロテスクなマスクかぶった坊さんが、牛に乗って歩きまわる行列には、松明をふりまわすお供がつきものだったな……」
「しかも、あの牛に乗って練りまわるご本尊の名が摩多羅神だ」
「摩多羅神か、音がミトラスに通じるな」
「太秦寺の伝承では、天台宗三代目の座主の、円仁(慈覚大師七九四~八六四)が中国から持ってきたことになっているが、はっきりしたことはわからない。しかし、かなり古くから伝わっている、誰が描いたかわからない摩多羅神の画像があるんだ――といっても平安期以降のものとみえて、少しも外国人らしいところがない。しかし、中央に立っている摩多羅神の冠は、ミトラス神につきもののフリギア帽(日本の立烏帽子に似た、小アジアの古代フリギア人特有のかぶりもの)にそっくりなんだ。そして、なぜか、手に日本ふうの鼓を持っているのだが、ミトラス神の彫像や壁画では、彼が牛に乗っていないときには、手に丸い球を持っていることが、めずらしくない。ミトラス教研究家の多くは、それを地球儀と解釈しているが、むしろ太陽を象徴しているように思える」
「……その、平安時代の日本の画家が、球の意味を知らなかったから、日本風にと思って鼓に描き変えてしまったかな」
「だが、もっと重要なことがある――摩多羅神の両脇に立つ童子の一人が茗荷(みょうが)の葉を束ねたようなものを手にしているんだ。これにいろいろと解釈がつけられているが、どうも、もとの絵では松明だったのを、日本の画家が植物だと思いちがいしたらしい……」
「とにかく牛祭りを日本に伝えたのが天台座主三代目の円仁ならば、牛祭りは、平安時代からはじまった儀式なんだな」
「それが、じつに奇妙なことに、その摩多羅神なるものは、なぜか比叡山延暦寺では、天台宗の奥義中の奥義を修行する常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の守護神になっているんだ。だから、もし、この摩多羅神を、円仁が最初に伝えたのだったら、当然、この牛祭りは、比叡山の行事になりそうなものじゃないか。ところが、なぜかそれが、京都の太秦寺だけのものになっている……」
「すると摩多羅神の牛祭りは、実際には日本に天台宗が入るまえから、太秦寺に、すでにあったんだな」
「それだけじゃない。――この摩多羅神に扮する坊さんがね、牛にまたがって太秦寺の境内を練り歩いた末に、聖徳太子の霊を祀ってある上宮王院の前で、世にも不思議な、まったく意味をなさない支離滅裂な祭文を読みあげてから、いきなりその上宮王院の中へ、まっしぐらに駈け込んで姿を消してしまうんだよ……いったい、なんのことだと思う?」
「なるほど……謎だね……一見ただの仏教のお寺であって、歴史をたどって行けば、キリスト教に出会うかと思うとミトラス教とも関わってくるし、どうかするとエジプトの太陽神とも結びつきそうな気配だ。きみが『太秦寺は世界宗教史にとってのガラパゴス島だ』って最初に言ったのは、これだったのか」
太子はなぜ厩で生まれたか
「その問題の探索に入るのには、話をもう一度、出発点に戻して、――そもそも秦ひととは、消えたエフライム十部族の筆頭だったエフライム族の末裔で、太陽神レエだけを唯一絶対の神とする信仰をまもりぬくために、テーベの神官たちやエルサレム神殿の大祭司ザドクの一門、さらにはユダ族、レビ族、ベニヤミン族などによる、あらゆる迫害をくぐりぬけながら、ようやく東洋のはての日出ずる処日本に根をおろした人々だった――と仮定してみる。ただし従来の言い伝えでは、秦ひとの祖先は秦始皇帝ということになっているが、それから八代目にあたる弓月君(ゆづきのきみ あるいは融通王 ゆうずうおう)が、百二十八県(あがた)の民をひきいて応神天皇のときに来朝したという話は、ことによったらイスラエルの十二部族をひきいてヨルダン川を渡ったイエシュア(中国の景教徒が、シリア語で Ishu ユシュー と発音していたヨシュアまたはイエス)を暗示しているのではないだろうか……しかしいずれにしても、秦氏は、最初、武内宿弥の子、平群都久によって日本に迎えられた。その後、武内宿弥の孫にあたる蘇我満智の片腕として、古代の日本国家成立当初の財政上の実権を一手に握るようになっていて、やがて蘇我氏と血縁関係が一ばん近かった聖徳太子との間柄がきわめて密接になったらしいのは、むしろ必然的ななりゆきだった」
「太秦寺は、秦氏の長者の 秦 河勝(はたの かわかつ)が建てたんだね、聖徳太子の意向で建てた、とか、太子の死後、冥福を祈って建てられた、とかいろいろ説はあるそうだが……」
「日本書紀(推古天皇一一年=西暦六○三)では、聖徳太子が廷臣たちに向かって、『誰か、わたしが秘蔵している仏像をもらいうけて、寺を建てる意志はないか』とたずねたときに、秦 河勝が名乗り出て、例の太秦寺を建てた――ということになっている」
「その仏像というのが、国宝第一号の弥勤菩薩だな」
「そう、……はっきりはしないまでも、太秦寺にある宝冠の弥勤菩薩が、それらしい、としている人が多いようだ」
「その角度から見れば太秦寺は、伝統ある仏教の寺であって、聖徳太子や秦 河勝は熱心な仏教徒ということになりそうだが……」
「しかし、その〈弥勤菩薩〉とは、一体なにものであるか? だ」
「釈迦の死後、五六億七千万年とかたって現われてくるという仏なんだろう?」
「仏教のお経では、(仏説観弥勤菩薩上生兜率天経・弥勤下生経など)たしかに弥勤菩薩は釈迦の弟子で、釈迦の次にこの世に現われる未来仏ということになっている。しかし、〈弥勤〉というのはサンスクリットの(マイトレイア)という発音を中国字に写したものだが、元来は、インドのバラモン経典(ヴェーダ)に出てくるミトラ、つまり、例のミトラス神のことなんだよ」
「それじゃ牛祭りの摩多羅神も、聖徳太子の秘蔵の弥勤菩薩像も、結局はミトラス神信仰ということになるのか……聖徳太子は、仏教経典の解説書なんか、自分で書いてるだろう? それは、ミトラス教や景教の教義をふまえたうえでの教養だったことになるな」
「それだけではなくて、あの『日出処ノ天子』という宣言の根底には、よほど明確な太陽神の思想がなければならないはずだ」
「そうなると、それは、どういうルートで太子に入ったか、が、非常に興味ある問題になってくるな」
「ほんとにそうだ……とにかく、聖徳太子は最初、海の向こうに隋という大帝国が現われて、しかも皇帝は熱心な仏教保護者であるときいたとき、いわゆる弥勃の世――キリスト教の〈千年王国〉が到来する日が近づいた、という思いにとらえられた。そこで日出ずる処(ケプリ)である若き国日本と、日没する処(アトン)である成熟した先輩国、中国とが盟約をむすんで行けば、そのむかしイクナトンが夢みた太陽神レエの理想世界が実現できる――と確信して胸が躍っただろう。しかし、あいにく、隋の煬帝は、太子が期待したほど真剣な求法者ではなかった。それどころか、隋という帝国そのものが、太子の存命中に地上から消えてしまったのだから(六一八)、太子の幻滅の悲哀は深刻だったろう。だが、秦ひとたちが受けたショックは、そんなものではなかったはずだ。なぜなら、隋が滅亡してから、わずか四年ほどで、彼らにとってイクナトンやヨシュア(あるいはイエス)の再来とさえ思われた聖徳太子が急死してしまったうえに、その前後から蘇我入鹿は横暴になるし、皇族や豪族たちの間では派閥の反目陰謀が露骨になる……はては太子の後継者だった山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一家が皆殺しにされるという悲劇まで目撃しなければならなかったのだから……とはいっても、素ひとたちは絶望はしなかった。それどころか、むしろ聖徳太子一家の滅亡と、〈牛を屠る神ミトラス〉の密儀や十字架にかかって死んだイエスの復活とを重ねあわせることによって、彼らの、弥勤の世に対する期待は、ますます強固なものになった……」
「そういえば……『聖徳太子はイエスだ』っていう伝説、聞いたことないか? 〈厩戸皇子〉という名前が、その証拠だ、っていう話」
「そこなんだよ、問題は。……一体聖徳太子は、なぜ厩戸皇子とよばれたのだろう? それは太子のお母さんの穴穂部間人皇后(あなほべはしひと 欽明天皇の皇女、用明天皇の后)が皇居の中を巡回していて、たまたま厩の前にさしかかったとき、急にその厩の戸口で太子が誕生したから、ということになっている」
「ベツレヘムの馬舎の飼馬桶の中に生まれたイエスの誕生を、連想するなというほうがムリというものだよ」
「しかし、太子が厩の前で生まれたという話が、もしほんとうだとしても、それこそ、偶然の一致だよね、だが、その噂がいかにも意味のありそうな伝説として世間に知れわたったという事実のうらには、ひょっとしたら、その当時、日本にキリスト教徒がいて、しかも彼らが、聖徳太子とイエスを 同一視(アイデンティファイ)しようとしていたということの証拠といえないだろうか?」
「となると、――日本の庶民の間には、太子が死んだ直後からずっと聖徳太子信仰が生きていること、それに弥勤信仰の人たちの〈世直し運動〉というのが、何度となく大波のようにくり返されてきた――こういう歴史のかげにも、なにか、つながりが、かくれていそうだ……」
「今日のキリスト教はもちろん、密教以外の仏教も、すべて公教(顕教 エクソテリスム Exoterism )であって秘教(密教 エゾテリスム Esoterism)ではないことになっている。しかし、いわゆるクリスチャン(キリスト教徒)という呼び名が使われ出したのは、パウロがアンティオキアで布教しはじめてからのことで(使徒行伝一一-22~26)、それまでは、イエスの弟子たちは〈ナザレびと〉(ナザライオス)とよばれていたらしい(使徒行伝二四-5)。
この言葉が、新約聖書に出てくるとき、クリスチャンは大てい〈ナザレからきた人〉と解釈するらしいのだが、元来の意味は、『守る者』つまり『密儀を守る者』という意味のようだ。だからイエスの場合も、『ナザレびとと呼ばれるイエス』(マタイニ-23)と、『ナザレの住人イエス(ナザレノス)』(マルコー-24)では、意味がちがうんだ」
「ふ-ん、じゃあパウロが出てくる前の、イエスの弟子たちのグループは、秘密結社だったんだろうか」
「それと比べて法華経を見るとね、例の従地涌出品に『釈迦の死後大乗仏教の奥義を正しく伝える人々は、地下にかくれ住んでいて、公然とは姿を現わさない』と強く言っているんだ。それどころじゃない、如来神力品では、ただしサンスクリット原典のほうでだが、この地上にいる弟子全部が口を揃えて『われわれは、姿をかくしたままで、空中にいて声を出しましょう』と、釈迦に誓うんだ。ふしぎなことに、羅什訳の、中国語の法華経には、――したがって日本で最も流布している羅什訳からの和訳本も当然――ここのところがカットされているものだから、まるで釈迦は自分の教えが華々しく宣伝されることを希望しているように解釈している向きが多いのだが、全編通して慎重に読んでみると、法華経も、本来、秘教(密教 エゾテリスム Esoterism)であって公教(顕教 エクソテリスム Exoterism )ではないことがわかる」
「しかし聖書や法華経は公然と出版されて、無数のベストセラーズになっているじゃないか」
「それはみんな、太秦寺の牛祭りだよ……上宮王院の入口までの行列は、外側のお祭り、本当に大切な神秘の行事は、『祭りは終わった』として、一般の見物が解散したあとではじまる……」
「あ、あのう、カトリック教会のミサの……イテ・ミサ・エスト……は、ミサは終わった、でしょう? でも、聖体拝領の秘蹟は、その前だから、やっぱり意味が、ちがうんでしょうね?」
「もともと、ミサというラテン語自体が、『解散』の意味だ。――それからもわかるだろう。すべて、『解散』のあとになにがあるかの問題だ」
「クラス会も、二次会からが、本音が出て……」
「また、脱線するなよ、……とにかく桃楼じいさんが一貫して言っている幻の奥義書なるものが、しだいにはっきりしてきたな……しかし、その幻の書が、すでに古代の日本に伝わっていたという証拠が、古事記の内容から逆に推理できるということらしいが、かといって、現在われわれが読んでいる古事記が、その奥義書の日本版というわけではないだろう?」
「その昔、ガンダーラの周辺で、幻の書のインド版、つまり数多の大乗経典を創作した人たちがあったように、幻の書の日本版をつくろうとした人物があったことはたしからしい。その証拠は、今日の古事記の中にちゃんと残っている。たとえば、さっきも言ったけれども、古事記はエジプトの神話や旧約聖書の影響を強くうけていること、そのうえ、天照大神の岩戸開きや八百萬の神女が天安河原に集まった話などは、ミトラス教の秘儀の内容と実によく似ている。……だが、最も重要なポイントは、旧約聖書には暗号がかくされていて、その謎が解けた者だけが、モーセの五書を逆にたどっていくと、天地創造の物語の中で、永遠の生命を得るための瞑想法が説き明かされてあることが解読できるというしくみになっている。――ところが古事記の場合も、いわゆる上つ巻(神代の巻)を、一つの法則(ルール)によって逆に読んでいくと、謎の岩戸が開かれて、宇宙全体を象徴する天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と一体になることが、解き明かされているのだ」
「それでも古事記が幻の奥義書の日本版であるということにならないのか?」
「ところが奇妙なことに、上つ巻(神代の巻)が、実に入念に組みたてられてあるにもかかわらず、下つ巻の後半になると、たとえば仁賢天皇から推古天皇までの十代などは、人名や地名を羅列しているだけで内容は尻切れトンボだ
……」
「古事記をつくった本来の目的が、異例の皇位継承を正当化するためだったんなら、孫の聖武天皇に皇位を譲る前提として、祖母である元明天皇が即位した根拠は、天照大神が孫の邇邇芸命にこの国の統治を命令した故事によるということを、証明できさえすればよかったということじゃないのか? ただし、天照大神から元明天皇までの系譜だけは、はっきりさせておく必要は、あったろうが……」
「それならばなおのこと、推古天皇の御代で終わらせたりしないで、すくなくとも持統天皇から皇孫文武天皇に皇位が継がれたいきさつを、明記しておくべきだったんじゃないか。現に、古事記より八年くらいあとに完成した日本書紀は、ちゃんと、その通り構成されているのだから……」
「それならば、だれ、そのとき(元明天皇の和銅四~五年)どうしても急遽、発表しなければならない事情があって、未完成のままで終わらせてしまった。しかし、最初の予定では、推古天皇のときまでを、くわしく書くことになっていたから仁賢天皇以後は、あらすじだけの原稿が、そのまま残ることになってしまった……この推測はどうだ?」
「あるいはそのへんが真相なのかもしれないな……多分最初の計画では、推古天皇の終わりまで克明に記述するつもりだったのだろう。だが、そうなると、あの上つ巻を精巧に組みあげた古事記の著者は、そのフィナーレを、なぜか聖徳太子の死で結ぼうと意図していたことになる……」
「それはそういうことだな……推古天皇の治世は、聖徳太子の一生の業績と、ほとんど重なる時間になるわけだから……」
「そこで、かりに、幻の奥義書の日本版としての古事記を構想した人物があった、としたら、上つ巻の天地開闢(かいびゃく)の神話と対照させて、聖徳太子の生涯を、どういうふうに描こうと考えたのだろうか……神代の巻が旧約聖書の翻案であるように、おそらく古事記の最終編は、新約聖書の、福音書の形式で太子の伝記が綴られたうえに、黙示録的に太子の復活を暗示する、弥勤の世の到来が語られる予定だったのではないだろうか……そればかりでなく、今日われわれが読んでいる古事記の神代の巻には、まだまだ不可解な部分がどっさりあるわけだが、その謎を解くべき鍵は、終章のどこかに、暗号文で書き残す予定だったのかもしれない」
「またまたファナティックになってきた……しかし、それほど雄大にして複雑きわまる筋立てを考えた人物がもしあったとしたら、まさに興味津々だな……しかも、その計画は、未完成のまま挫折した……理由はなんだろう?」
『今の橘なり』
「われわれの常識として、古事記といえば昔から、天武天皇の御代(六七三~六八六)に大体できあがっていたものを、稗田阿礼(ひえだ の あれ)が暗語して後世に伝えた。それを元明天皇の和銅四一年(七一一)の九月から翌五年の正月にかけて、大安万侶(おお の やすまろ)が勅命によって成文化したことになっていたね、――しかし最近は専門家の意見として、『稗田阿礼は、ただ暗誦していたのではなく、非常に読みにくい変則の漢文体で綴ってある文章を、彼だけが正確に朗誦できた』という解釈が多いようだ。それにしても、その稗田阿礼を、安万侶が、古事記の序文でことさらに『年はこれ廿八(28)、人となり聡明にして云女』と、ほめそやしていることに、ちょっとひっかからないか?」
「梅原氏は、稗田阿礼を藤原不比等と断定していたな……」
「不比等という説は、まさに的を射ていると思うね、天武天皇の晩年に、『年はこれ廿八』だったとすれば、まさしく不比等と同年輩だし、和銅四年ごろに安万侶が公けの文書の中で、こんなにホメることのできた、あるいはホメる必要があった人物といえば、不比等くらいのものではないか?……つまり不比等が安万侶に向かって『これは、自分が二八歳で、天武天皇の舎人(とねり)だったときに、天皇の命令で読み習ったものだ』と語ったことは、さだめし事実だろう。しかし、そうなると、どうしても不比等の背後にもう一人、それ以前に、〈彼が読み習った原文〉の執筆者がいたことが、考えられる……」
「天武天皇ではないのか?」
「不比等は、そういうニュアンスで安万侶に語ったのだろうし、安万侶もそう書いているわけだが、安万侶は、はたして不比等のいうことを、額面どおり受けとっていただろうか……不比等が何かの理由で『自分の名は明かさないでくれ』と言ったとすれば、そのための偽名である〈稗田阿礼〉に対して、『年はこれ廿八……』以下の賛辞は、不比等にとってむしろ迷惑なはずだ。ただし、もしも古事記の〈原文執筆者〉が、天武天皇ではないのに、そうであるかのように印象づける必要があったとすれば、問題の重点が変わってくる……」
「原文執筆者の名前のほうが、さらに知られたくなかったんだな?――
「かりに、Ⅹという人物がいたとしよう。彼はなにかの機会に幻の奥義書を読むことができた。彼は非常に感激して、これをダイジェストして翻案することを思い立ち、それの日本語版を書きはじめた。だが、未完成の段階で、つまり神代の巻ができあがったころに、その原稿が、不比等の知るところとなった。不比等は、この本が、持統女帝から文武天皇へ、さらに元明女帝から聖武天皇への、皇位継承を正当化するうえで、絶好の裏付けとして役に立つことに気がついた。そこで当然、そのⅩの作品のモデルになった原典をも読んでみたくなる――それを精読した不比等は、今度はⅩとは正反対の角度から、その内容に魅惑された……」
「なるほど……そのとき不比等は、アロンの子孫と自称するザドク一家が、モーセの律法書なるものを創作して、エルサレム神殿の大祭司の地位を独占するに至った策謀の一部始終を会得したわけだな」
「さあ、そうなると、不比等としては、Ⅹがすでに書き終えた神代の巻は、皇位継承問題のために是非そのまま利用したい。――しかし、一方、Ⅹは精魂を傾けて後編を書いている。そこに描かれている聖徳太子伝や、弥勤の世に太子が復活するようなテーマは好ましくない、ということになる。――現実主義者不比等と、理想主義者のⅩとは、真正面から、意見が対立する.不比等としては執筆者が、テーマを変えないという以上、前半の上つ巻、中つ巻だけを活かして、後半(下つ巻)の部分は抹殺しなければならない。――それには、執筆者Ⅹの存在そのものまでも、完全に消してしまうことが必要だ」
「不比等に消されたⅩか……だいぶん的がしぼられてきたようだ」
「そうなると当時の情勢からみて、Ⅹの条件をみたす人物はほんの数人しかいない……まず第一に幻の奥義書と接触できる立場――生まれや経歴の問題ね、そして教養――七世紀の終わりごろの日本で、あのような物語形式でしかも長編の文学書を創作できる人物は、そうざらにはいない」
「……柿本人麻呂あたりはどうだ? 彼が古事記を書いたんじゃないかっていう説は、あるな」
「彼の若いころの恋歌には、琵琶湖や鴨川、宇治川がよく出てくるね、いずれも秦氏の一門にもっとも縁のふかい場所だ」
「鴨川や宇治川は太秦寺の位置から言ってもそうだろう、しかし琵琶湖の周辺も?」
「京都の松尾神社の大明神が秦氏の氏神の一つだというのは有名だが、比叡山麓の日枝神社(日吉神社)に祀られている山王様というのは、松尾大明神の別名なんだ。ということから近江の〈日枝の山〉も、秦ひとの勢力範囲だったと考えられる」(古事記上つ巻〈大年神の神裔〉参照)
「あら、 それなら、稗田阿礼は、墓の山の麓の生まれ〉――というのはどうでしょう?」
「無意識というのは不思議なものでね、たとえば犯人が用意周到に偽名を使ったつもりでも、その中で、ぬきさしならない本人の正体をさらけ出していることが、いくらでもあるんだね……まあ、それはともかくとして、青年時代の人麻呂は、秦氏の領地内でくらしていたか、あるいはそこに、彼の恋人が住んでいたのではないだろうか?……面白いことは、そのころの人麻呂の歌は〈略体〉だ――いわゆるてにをは(助詞)をまったく書かない、一見 漢詩のようにみえる表記法をしている。ところで日本列島と朝鮮半島に住む知識人は、ごく最近まで――というのは、日本では大正の終わりごろまで、朝鮮韓国では現在でもまだ――漢文で母国語の詩や文章を書くことが、当たりまえのように思ってきたね、それで、七世紀の日本人が、日本語の歌や文章を、中国文字をそのまま使って表記していたことに、なんの疑問も持たないようだけれども、これは、言語学上の曲芸だよ。たとえば、『はるやなぎ かつらぎやまに たつくもの……』という日本語を、『春楊葛山発雲』と書くなどということ、欧米人には想像もできないことだろう――ところが、言語学史上の例外として、前にも話したパフラヴィ語が、それをやっているのだ」
「文字はアラム語で書いて、読みは古代ペルシア語、というやつだな」
「そして、このパフラヴィ語的文字使用法を、シルクロード沿線の国々に伝播させて歩いたのが、誰あろうシリア人の貿易商、つまり秦ひとの祖先たちだ」
「そうすると、アラム語の文字の代わりに中国の文字をそのまま使って書いて、それを純然たる日本語で朗誦したという方法は、秦ひとから習ったんだな」
「そのところを詮索しはじめると、じつに面白い問題がとめどなく出てくるんだ。たとえば、人麻呂とか安万侶のマロとはなにか?――昔から多くの学者がいろいろの解釈をしているが、これはアラム語のマールで、景教ではもっぱら聖職者に対する敬称として使っているが、元来は〈主君〉に向かって呼びかける言葉だから、秦ひとが、日本の貴族に対して〈何某麻呂〉という呼びかけをしたのが最初だったのではないだろうか?……とにかく、柿本人麻呂と秦ひととの言語上の関係を想像するだけでも、興味はつきないね」
「……人麻呂は秦ひとを通じて奥義書にも触れた。そのうえ秦ひとの聖徳太子信仰や弥勤思想も啓発された……芸術家の彼に、そういう方向で求道的出会いがあって、まともに取り組むことになった……興味ある想像だね」
「そして中年以降は、持統天皇や、のちに元明天皇となった、草壁皇子の妃たちの寵愛をうけて宮廷詩人として大いに活躍したのだから、藤原不比等とも親しくなっただろうし、もし、古事記を彼が書いたとすれば、その原稿を、不比等が見たとしてもふしぎはないだろう」
「その人麻呂が、あとになって不比等に排斥されて、流罪のあげくに石見国(いわみのくに)で殺された――というのが、梅原猛氏の説だったな」
「梅原教授は、人麻呂の死んだ年を、和銅元年(七○八)と推定している。それは、その年に柿本猨(さる)という人物が死んでいることが、続日本紀(しょくにほんぎ)にあるからだ」
「あのころは、左遷されたが最後、名前まで変えられることが多かったんだな
……人麿が猿麿になったり清麿が穢(けがれ)麿になったり」
「もしその推理のとおりだと仮定すると、不比等は和銅元年に人麻呂を処刑して、例の〈古事記の原稿〉を取りあげた、という推測が成り立つ。そしていろいろ手を加えたり削ったりしたものが、三年後の和銅四年(七二)の九月一八日に、安万侶の手に渡って最終的な推敲がおこなわれたうえで、和銅五年の正月二八日に、いわゆる古事記が完成したことになる」
「すくなくとも、時間的には、問題がないようだ……」
「ただし人麻呂の死んだ年については、いろいろの意見があるんだね、中でも、和銅三年三月一八日説の人が一ばん多いようだ。その理由としては、万葉集の、人麻呂の最後の歌のすぐあとに、奈良の都のことを詠んだ最初の歌が出てくるのだが、問題の奈良遷都が和銅三年三月一○日だからだ」
「人麻呂が和銅三年に殺されたとしても、安万侶が正式に古事記編纂にとりかかったのは和銅四年だから、別に時間的不都合はないわけだな」
「それどころか、もしも人麻呂の死が和銅三年だった、とすると、これは大変な意味を持ってくることになる」
「人麻呂の死が?、それとも古事記が、か?」
「……不比等は、人麻呂から、原稿を取りあげようと思って、あの手この手を使っておだてたり脅したりする。しかし、宮廷詩人としてもてはやされたころには、あえて権門に媚びることも辞さなかった人麻呂が、なぜか古事記の内容の問題では、一歩も譲ろうとしない。といっても、正面から不比等にたてつくわけにいかないから、『未完成』を理由に原稿を手放さない……ついに不比等は非常手段に訴えて奪いとることにする。……人麻呂はそのことを察知したとき、自分が殺されることよりも、自分の死のあとに、不本意な古事記が世に出されることのほうが、つらかった。かといって、すでに書きあげた部分まで葬ってしまう決心はつかない。――としたら、彼にできることというのは、なんだろうか?――『自分は〈幻の奥義害〉の真髄を世に語り伝えたかったのだが、心ならずも中途にして筆を折らなければならなくなった。したがって、後世の読者たちが読むことになるこの書物は、ほんものではない。真の奥義は別のところにかくされてある。心あらば、それをさがしあててくれ……』という意味の〈暗号文〉を、本文の中に潜ませる以外にない」
「それを、どこに書き込んだ?」
「それが田道間守の物語だ。『ソノ非時ノ香ノ木ノ実ハ、コレ今ノ橘ナリ』という一句さ」
「……『今の橘なり』……『ほんものは橘ではない』が鍵か」
不比等と三千代と人麻呂
「話はもう一度、天武天皇崩御の直後のころ(朱鳥あかみどり元年=六八六)に一戻るが、皇后の鸕野皇女(後の持統天皇)は、わが子の草壁皇子の皇位継承を確実にするために、ライバルの大津皇子を謀叛のかどで死に追いこむほどの非常手段をとった。にもかかわらずその三年後に、肝腎の草壁皇子が早世 した。もっとも、その草壁皇子には妃の阿陪皇女(後の元明天皇)との間に軽皇子(かるのみこ 後の文武天皇)が生まれていたのだが、まだ七歳で皇位をつぐには幼なすぎた。そこでやむをえず、祖母にあたる天武天皇の皇后(鸕野皇女)が、空位のままの天皇の政務に三年間あたった後、即位して持統天皇になってから(六九○)、七年後に皇孫の文武天皇(軽皇子)に位をゆずった。ところが、この文武天皇もまた一○年後(慶雲四年=七○七)に、二五歳の若さで崩御して、またもやわずか七歳の首皇子(おびとのみこ 後の聖武天皇)を遣すことになる。――となると、今度もまた持統天皇の例にならって、首皇子 の祖母にあたる阿陪皇女(草壁皇子の妃)が即位して元明天皇となりたいのだが、いまだかつて皇子の妃が天皇になった先例がない。それでもなんとかして、そのことを正当化しようと、例の『不改常典(あらたむまじきつねののり)』という宣命(せんみょう)を持ち出す。つまり持統天皇から皇孫文武天皇へ、そして元明天皇から皇孫聖武天皇へ皇位が継承されるのは、持統天皇や元明天皇の父にあたる天智天皇が立てられた原則にのっとってのことである――というわけだ。しかし、その程度の理由づけでは、元明天皇の即位に不満を持つ人びとを納得させられるものではない。ひとつ違えば反乱もおこりかねない。それを無事に乗り切って、とにもかくにも元明天皇が即位できたのは、藤原不比等が手ぎわよく、今日でいう戒厳令をしいて、すべての不穏なうごきを、未然に鎮圧してしまったからだ。しかし持統天皇や元明天皇がいわば、四面楚歌の中で孤立状態になりつつあったときに、不比等はなぜ、それほど積極的に援護したのだろうか?――歴史家の多くは、その動機が不比等の権勢欲以外のなにものでもないとしているようなんだが――たしかに結果的にみれば、その後 不比等の娘の宮子が、文武天皇の妃となっているし、その宮子と文武天皇との間に生まれた聖武天皇の皇后には、宮子の異母妹の安宿媛(あすかべひめ 光明皇后)がなったのだから、例の祖母帝から皇孫への皇位継承のパターンも、すべてが、不比等の野望達成の手段だったように見える。しかし、不比等という人物の性格をよく検討してみると、必要以上に細かなところまで気を配るタイプだったらしい。それがどうにも腑に落ちないのは、天武天皇崩御の直後の、険悪な状況の中で、とかく直情径行になりがちの女帝たちに味方するということは、賢明な人間なら、むしろ回避するはずなのに、不比等は、なぜ、そんなあぶない賭けに手を出したのか?」
「そうだね……遠大な計両を級密に組みたてる人間は、バクチは打たないものだ……女帝たちの側から、よほどのさそいがあった気配だね……」
「おそらく側近の女官たちも集まっていろいろ謀議をこらした末に、不比等を彼女たちの陣営にひき入れることが、是非とも必要だという結論に達したのだろう。それにしても、どうやって、あの慎重派の不比等に、あえて冒険の決意をさせることができたのか?」
「化学でいえば、そこに〈触媒〉が必要だな」
「染めものに使う、あの触媒ですか?」
「なるほど、染め物にも使うだろうな……二種類以上の物質に化学変化を起こさせる場合に、さらにある特定の物質を加えると、その反応を急に早めるやつさ。もちろん逆におそくさせるものもあるがね……」
「まさに、その触媒が、さっき言った『今の橘なり』なんだよ」
「きみの回りくどい説明を、少し手っとりばやくさせる触媒はないものかね」
「じゃあズバリ言うよ――県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)……」
「後の橘三千代だな……」
「彼女は軽皇子(後の文武天皇)の乳人(めのと)だった。乳母といってもただの女官ではない。父親は県犬養 連東人(むらじあづまびと)という人物だが、彼女は天智天皇や天武天皇の曽祖父にあたる敏達天皇の玄孫(やしゃご)の美努王(みねおう)の夫人で、王との間には葛城王(かつらぎおう 後の橘諸兄)、佐為(さい)王、牟漏(むろ)女王(後に不比等の二男、藤原房前⦅
ふささき⦆夫人)という、三人の子があった――それはともかくとして、三千代は軽皇子誕生(天武天皇一一年=六八三)を契機として、天武天皇の皇后、鸕野皇女(後の持統天皇)のひとり子、草壁皇子と、その妃の阿陪皇女(後の元明天皇)の側近に仕える身になった。だが、彼女はそのために、やがて持統天皇や元明天皇の懐刀(ふところがたな)として、悪戦苦闘せざるをえない羽目におちいるのだ」
「すると、藤原不比等と女帝たちの仲だちも、彼女がしたと考えられるか」
「といっても具体的なことがわかっているわけではないが、草壁皇子が薨(こう)じたのは天武天皇の崩御の年から、わずか三年後のことだが、そのときにはもう不比等が、幼少の軽皇子の後楯として全力をつくすことを、はっきり約束している。見ようによっては、その密約をとりつけたうえで、持統天皇は安心して即位ができた、ともいえるだろう。それで、それからは不比等も持統天皇の寵臣として、思う存分、政治的手腕をふるうことになるわけだね――じゃあ、その間に、犬養三千代は、どんな動きをしていたか、というと、歴史上にはなにもでてこない。しかし、文武天皇の大宝元年(七○一)に、不比等と三千代の間には、後に光明皇后となった安宿媛が生まれているんだ。では、この二人、いつ、どういうふうに、そこまで接近したのだろうか――三千代の長男の葛城王(後の橘諸兄)は、軽皇子の誕生(天武天皇一一年 六八三)と大体同じころの生まれで、しかも三千代と美努王の間には、それからも二人の子どもが生まれているのだから、天武天皇崩御の年(六八六)あたりまでは、三千代と不比等は、そんなに親しかったとは思われない。だが、それから三年後の、草壁皇子がなくなった年(六八九)になると、女帝たちと不比等の間をむすびつける連絡係りとして、三千代の立場が非常に重要だったことは、間違いない。では、この二人は、公務の上で近い立場にあったから、やがて個人的に親しくなったのか? それとも、先に二人が個人的に親しかったから三千代を通じて不比等が女帝に近づくことになったのだろうか?」
「雪が解けて春になったのか、春になったから雪が解けたのか、デリケートなところだな」
「ところがね、その疑問を、ある程度は解明すると思うのが、元明天皇即位式のあとの、大嘗祭のあとの節会(せちえ)の……」
「橘の杯か……天皇が三千代に、杯に橘をうかべて与えた――橘三千代の姓の由来だね」
「……それはまったく特別の論功行賞だった――これまでの長い間の三千代の功績をたたえるために、いかにも女帝らしいロマンチックなやりかたで、褒賞として橘の姓を与えた……一体、これあは、なにを意味するのだろうか――そのとき、三千代と不比等の間に生まれた安宿媛(あすかべひめ 光明皇后)は、すでに七歳になっているのだから、いうならば三千代は藤原不比等の夫人だね、しかも、元明天皇が厳しい難関を乗り切って無事に即位ができたのは、なにもかも、不比等ひとりの功績といってもいいくらいだ――にもかかわらず、元明天皇が、とくに『これまでの成果は、すべて三千代の手柄ですよ』といわんばかりに、公式の、最も重要な宴会の席上で、ことさらに彼女を賞讃したのは、なぜか……」
「そうか、三千代と不比等の関係は、たんなる個人的な恋愛とはいえないようだな……それにしても、その、大嘗祭のあとの節会で三千代が橘姓を与えられたということと、君がさっきから、勿体ぶってくり返してる『今の橘なり』とは、どうつながるんだ?」
「さっき、柿本人麻呂は、持統天皇のお気にいりの宮廷歌人として、ふだん天皇のちかくにいたはずだから、人麻呂が書きかけていた〈古事記〉の原稿を、不比等が読む機会があったかもしれないといったことね、そこのところを、もうすこしリアリスティックに推理すると――二人の間に、あるいは三千代が存在したかもしれない……」
「なんだ、こんどは、その原稿を、皇位継承の裏付けとして活用できる、と最初にひらめいたのは、犬養三千代になるのか……」
「となるとね、さっきは、人麻呂が例の幻の書を秦ひとから見せられた――という筋で推理したわけだが、これが案外、田道間守の持ち帰った奥義書は、代女、天皇家に伝わっていたかもしれない。……という設定で推理してみると――最終的には持統天皇の手もとにあったその奥義書を、三千代が熟読して、彼女の政治的な霊感がスパークした。そして『是が非でも、この書物の〈日本版〉をつくるべきだ』――と思い立った……」
「そこで彼女は、当時もっとも文名の高かった人麻呂に、それを書かせようと考えた、か」
「人麻呂は最初、三千代から〈古事記〉の執筆を依頼されたとき、いわゆる宮廷詩人的な気軽さで、注文主の意図するとおりのものを書くつもりだったろう。……しかし、いざ仕事にかかってみると、本来の詩人としての魂が、注文主の意図を無視しはじめた……」
「そこで不比等が権力にものをいわせて、原稿をとりあげようとした、か」
「梅原教授の説にならえば、それは和銅元年(七○八)の三月だ。とすれば、流刑の地にある人麻呂は、前年の一一月に、三千代が橘の姓を賜わった噂を耳にしていた。そして、その賞讃の理由を、誰よりも知りぬいていた彼の思いは――『女帝たちの悲願を成就させた表面上の功労者は、もちろん不比等だが、彼がおこなったあらゆる方策のもとをただせば、すべて三千代の発案なのだ。しかもその、三千代の思いつきは、かねて田道間守が常世の国から持ち帰った奥義書――世にいう〈非時の香の木の実〉だった……元明女帝は、かの〈……木の実〉のことを頭に描きながら、三千代に橘の姓をさずけられたにちがいない……今、自分がここに持ってきているこの〈古事記〉の原稿こそ、本当の〈非時の香の木の実〉なのに……これを自分から無理やり取りあげようとしている三千代や不比等は、かならず内容を改ざんする……あの理想の奥義書は、裏から読めば、そのまま権謀術数の指南書になるのだから……だがそれはもう、田道間守が持ち帰った〈非時の香の木の実〉ではない。そんなものは、もともと日本にある、ただの〈橘〉にすぎないのだ!』……」
「それで、われわれは今日、人麻呂の原稿を改ざんしたり尻切れトンボにされた〈古事記〉を読むことになるんだな? しかしそうならば〈本ものの非時の香の木の実〉は、どこへ行った?」
夢殿をめぐる幻想
「さあ、そこでね、元明天皇即位後の、大嘗祭につづく節会なるものが、いつおこなわれたかということが、問題なんだ」
「大嘗祭は天皇が即位してはじめての新嘗祭だな、その年の新穀を天皇が神々に供える――即位が七月以前なら、その年の一一 月、だったな?」
「そう、それで、元明天皇は慶雲四年(七○七)の七月一七日即位されたのだから、当然、大嘗祭は、その年の一一月の下の卯の日で、三千代が〈橘〉の姓を賜わったのは、その翌日の、豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)の席上だったことになる。ところがね、『三千代が橘姓を賜わったのは、その翌年、和銅元年(七○八)の大嘗祭の時だった』という説もあるんだ」
「それはなにかの間違いじゃないのか? 大嘗祭は、天皇にとって、一代に一度だけの祭式だよ」
「そのはずだね、しかし実際には、平安朝になって〈延喜式〉(一○世紀に編纂された法令式の集大成)ができあがるまでは、大嘗祭おおにえのまつり)と新嘗祭(にいなめのまつり)の区別が、かならずしもはっきりしていないのだ」
「じゃあその大嘗祭が翌年の一一月だったかもしれないとすると、それがどう問題になる?」
「万一、そうだとするとね、それに対して人麻呂の死が、それより後の和銅三年(七一○)だった場合には、『今ノ橘ナリ』と三千代がもらった橘の褒賞を風刺して古事記に書き込んだ、ということも、成り立つが、彼がもし、和銅元年(七○八)の三月にすでに死んでいた、とすれば、そんなことはありえないことになる……」
「当然だね、死んでから七、八カ月もたってはいかに歌聖といえども橘の杯の皮肉も言えない」
「その場合は、古事記の田道間守の条(くだり)に『今ノ橘ナリ』と書き加えたのは、犬養三千代――後の橘三千代だったという筋書きに変わらざるをえない」
「またまた奇想が天外から落ちてきたようだ。その理由を展開してもらいたいね……」
「それには、すくなくとも三つのケースが考えられる。……第一は、これまで想像してみたのとほとんど同じ筋道だが、ちがう所は、三千代と人麻呂はまったく同じ意見だったということ。それに対して、不比等が、原稿の後編で、聖徳太子や弥勤菩薩の再来が強調されるような構想を認めなかった」
「となると、衝突したのは、三千代と不比等……」
「だが、結局は、三千代のほうが、心ならずも折れるより仕方がない。もともと女帝たちの願望を達成させることが主眼である以上、文武天皇の乳人として、肉親にまさるとも劣らない心情的関わりに、はまり込んでいた三千代として、自分の個人的な理想を貫くなどということは、現実と相容れないことだった……」
「なるほどそういう設定なら、人麻呂が何年に死んだにしても関係ないな。とにかく大嘗祭のあとで、三千代が『今の橘なり』と書きこむこともありうる
……」
「そのかわり、元明天皇が三千代に橘の姓をさずけた意味が、少しちがってくる。それは、三千代の長年の功績をたたえるだけでなく、彼女をして無理に妥協させたことへの慰めやいたわりの気持が充分に籠(こ)められていた……」
「しかし、それにしても、立場がこれほどちがう三千代と人麻呂が、そんなに完全に意気投合したなんて考えられるか?」
「それが不合理すぎるというのなら、第二のケースを推理してみよう。こんどは、〈古事記〉の原稿を執筆したのは、三千代自身で人麻呂は無関係だった、という場合――つまり彼女は、あくまで純粋なロマンチストとして、文学的衝動だけで制作をはじめたのだが、不比等がそれに目をつけて、『これを、もっぱら神代の巻に重点を置いて編集すれば、皇位継承問題の裏づけとして利用で
きる』と考えた。もちろん三千代は反対するが、第一のケースとまったく同じ状態のもとに、押しきられてしまう……」
「三千代が『今の橘なり』という言葉を書いたと想定する筋書き、三つあるって言ったな、もう一つは?」
「三千代の前の夫だった美努王が書いたのかもしれない」
「おい、正気か?」
「不比等との関係から、そんなことは、ありえないと考えるんだろうが、そもそも橘三千代とは、どんな性格の女性だったのだろうか」
「頭脳明噺で男も及ばぬ権謀術数……というんじゃないのか?」
「というよりはむしろ、母なる大地のごとき無邪気な包容性と、当時の女性随一の学問教養とが、凡人には想像できないような、ラジカル(急進的)な思いつきを、続々と可能にした――ように見えるんだ……要するに彼女は、周囲の敬愛を一身にあつめ博愛を与えつくして貫いた生涯だったんだ……」
「う-ん……きみもさっき言ったけど、彼女の長男の橘諸兄がね、母親が不比等と再婚してからもらった橘姓を、自分から朝廷に請願して名乗ったということは、ぼくも、ずっとふしぎに思っていたんだ。しかし、最後まで敬慕していたのなら、それでわかる……すると〈幻の古事記(ふることぶみ)〉は、美努王が書きかけて死んだものを、三千代が完成しようとしたか?」
「美努王の先祖の敏達天皇は、とくに日祀部(ひまつりべ)を創設したくらいだから、太陽神崇拝だったにちがいない。その子孫の美努王に、幻の奥義書が伝わっていた――ということは、ありうるだろう、となると、稗田阿礼は、『日枝の生まれ』つまり皇族出身ということにもとれそうだ。前後の関係から想像して、不比等と美努王は、それ程、年がちがっていなかったらしいから、美努王が『年はこれ廿八、ひととなり聡明にして……』という賛辞も、当たるだろう……不比等は、三千代の〈古事記改作〉への不満をやわらげる一策として、わざと安万侶に、そう書かせた――ということだって、考えられる……」
「まさに絢欄たるグロテスク模様だな……まあ、仮設っていうやつは、意外であるほど活性剤的効力があるから……それにしても、もし、古事記の原作を三千代がひとりで、あるいは人麻呂ないし美努王の遺志をついで書きあげようとした、とした場合、――三千代の重大なモチーフとなった――と、きみが想定しているということになるらしい、彼女の、聖徳太子崇拝という証拠は?」
「三千代が死んだのは、天平五年(七三三)の一月だ。光明皇后は、生母の死を深く悲しんで、翌年の一周忌には、藤原家の氏寺だった奈良の興福寺に、西金(さいこん)堂を建立している。有名な阿修羅像なども、そのときに造られた。……だから、そのころの慣習からすれば、三千代の形見は、主として興福寺に納められるのが自然だろう。ところが、三千代が造した邸宅や遺品の多くは、聖徳太子に最もゆかりの深い法隆寺に贈られているんだ」
「ああ、法隆寺の玉虫の厨子、あれも三千代の遺愛の品だな、国宝の……」
「法隆寺という寺は、元来、聖徳太子の時代に建てられたのだが(六○七)、天智天皇の時代に、火事で全焼してしまった(六七○)。しかし、その後、どうやら元明天皇のころには、再建されたらしい。ところが太子の死後ちょうど一○○年たった時期に、行信という聖徳太子への熱狂的信仰者が現われて、法隆寺の東隣りにある斑鳩(いかるが)の宮の敷地にまでも伽藍を建て増そうと思い立った」
「斑鳩の宮というのは、太子の住まいの御殿だったのでしょう?」
「太子の死後は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の住まいになっていたのだが、蘇我入鹿がさしむけた軍勢によって焼きはらわれてしまった……。例の行信という坊さんは、なぜかそこに、あの夢殿を中心とする、法隆寺東院なるものを建てることにしたのだ。それが完成したのは、天平一一年(七三九)ごろらしいから、三千代が死んでから六年ほどあとになるが、おそらく、三千代は生存中に、自分の邸を法隆寺に寄進することを、行信と約束していたに相違ない。そして、そのことを、光明皇后をはじめ三千代の周囲の人々は、はっきり承知していたのだろう。……さあ、そこで、またまた詮索したくなるのは、どういう動機から、行信は一○○年以上前に死んだ聖徳太子を慕って、その顕彰に生涯をささげるようになったのか? ということだ」
「最初に思い立ったのはその行信という坊さんでなくて、橘三千代だったIということも考えられるな」
「古事記の中で描くことができなかった三千代の理想、現実の利害にゆがめられないロマンを、行信の法隆寺東院建立に託すことによって花咲かせた――とも想像できる。なにしろ、太子の冥福を祈るための〈聖霊会(しょうりょうえ〉なるものをはじめたのも行信といわれているんだ。ところが、その法事の行われる日が、今日では四月一二日だが、元来は、陰暦二月二二日、これは、おそらく春分の日の太陽神の復活の日を意識したものにちがいない」
「なるほどな……それにあの夢殿というのが、なんとも異様だね、本尊の救世(ぐぜ)観音は秘仏ということで、明治になるまでは法隆寺の坊さんでも、夢殿の中に、はいれなかったそうじゃないか」
「観音菩薩のことは法華経の『普門品』にくわしく書いてあるけれども、サンスクリットの原典では、あの普門品にあたる章は『あらゆる方角(十方)に顔を向けたほとけ』となっている。そこから中国や日本では、十一面観音の像がつくられることになったのだが、ゾロアスター教の教典では、ミスラ神(ミトラス神のイラン名)は一千の耳と一万の目を持っているということになっている」
「すべてのもののあらゆる動きを見聞きできる神という意味だろう……すると、救世観音はミトラス神でもあった、といえてくるな?」
「しかも、夢殿の救世観音は聖徳太子そのものだともいわれているんだ。それに、三千代の形見の玉虫厨子は、さっきの話の、涅槃経の雪山(せつせん)大士『捨身飼虎』の絵で知られているよね、これもイエスが身を捨てて全人類を救う話や、太陽神が殺されて、やがて復活する神話に通じる」
「その雪山大士の『諸行無常……』を意訳したという『色は匂えど……』も、まあこれは今様ですから平安末期になってから生まれたにしても、誰かがこの裏にとがなくて死すという暗号文を埋めて、――さっき中村先生のおっしゃった、この作者がキリスト教徒だという噂がある、ということは、そこにもなにか消えないでつづいている秘伝が、あるのかもしれない――という気がしてきました……」
「しかし……そうなるとだな、ほんものの〈非時の香の木の実〉は、橘三千代の手を通じて法隆寺のどこかに納められているかもしれないじゃないか……」
「それにしても橘三千代が死んでから一九年後の天平勝宝四年(七五二)に、奈良東大寺でおこなわれた大ビルシャナ仏(大日如来=太陽の神)の開眼供養こそは、イクナトン以来、太陽神レエの信仰をまもり伝えてきた『ヘリオポリス(太陽の都)からの教え』(景教)の信者たちにとっては、空前絶後の祝典だったのかもしれない……」
「しかし、その景教徒だった秦ひとたちは、奈良時代の終わりとともに――という感じで歴史から消えていくんじゃないのか?」
「日本における絹貿易商としての秦ひとたちの繁栄は、おそらく聖徳太子時代が絶頂だったのだろうね、だが、じつは、太子の祖父の欽明天皇(在位五三九~五七一)のころに、東ローマ皇帝ユスティニアス一世(在位五二七~五六五)が、二人のペルシア僧をそそのかして、中国から蚕を盗み出させることに成功したとき、時代は方向を変えはじめたんだ。それにもかかわらず、その後も、二○○年ほどの間は、中国も絹貿易がもたらす利益で有頂天になっていた。しかし、やがて、ヨーロッパで絹の自給自足がはじまると、シルクロードの交易は、昔ほどの魅力がなくなる。そして、中国も日本も、あの唐王朝初期や、奈良朝時代のような、爆発的に文化を発展させる原動力を、急激に失ってしまった……」
同じくり返しが、二十一世紀の日本にまた迫ってくる気がするね……あをによし奈良の都は咲く花の……高度成長のはかなさは、あとになって、ふり返ってみたときでないとわからないんだ……」
「大仏開眼という大ページェントをクライマックスとして、もっとも華やかだった古代日本の歴史は、一気に下り坂になる。それと同時に、例の幻の奥義書の存在も、その後は、まったく行方を消してしまう……」
「ふ-ん……なんとなく読めてきたぞ……その幻の奥義書が封じ込めてある契約の箱は、箱根のまんなかの、ネボ山ならぬ神山の麓にかくされているらしいな」
「中村先生、その神山の麓は、聖なる荒野=仙石原の、どこかだっておっしゃりたいんでしょう」
「ああ、博士のいうとおりかもしれない。……夜が明けたな……雪もやんだようだ。ひとつ、これから、さがしに行くか……」
「この大雪じゃ手も足も出やしないよ。……何千年にわたる無数の謎で閉ざされた歴史のようだ……」
それから一日たった午後、快晴の陽をまぶしく反射する積雪の中を、草庵の外の、車が雪を被って待っているところまで見送りに出た私に、中村博士は、ささやくように言った。
「なんとかして彼に書かせられるかと思って相当頑張ったんだけど、やっぱりその気はないらしいな。すっかり煙に巻かれたよ。――でも、おとといの晩の話、ずっと録音してたようだね、あれ、消さないでおいてくれよ。桃楼じいさんがどうしても承知しなかったら、彼が死んだあとで、かならずぼくがまとめるから……。彼の名前で出そうよ……」
終 章
「……でもね、その中村先生のほうが、さぎに宇宙の本源に帰って行っちゃったの――去年の暮に。
それ以来、桃楼じいさんの沈黙はふかくなるばかり……もう、あの雪の夜のような話、することはないでしょうね……というわけで、どこまでが冗談か、どこまでが本気か――それどころか、狂気か正気かさえ、正直いって、私にはわからない……」
ほとんど自問自答で私が話しおえたとき、すでに日は募れきって、どこからか入ってくる外燈のかすかなあかりに、室内の三人の位置が、ぼんやりと見えるだけだった。彼女たちは、わざと電灯をつけなかったのだろうか。
「つまり、ふり返れば、みんな帰って行くところは同じ……そして、幻の奥義書は、めいめいの家にあるんじゃない? メーテルリンクの青い鳥じゃないけど……」
ほの暗い中で曙生さんが言った。
「はい。そのことは、アブラハム大叔父の心も、同じことかもしれません。彼は最後に、そのことたしかめたかったのかもしれません――だれかに……あの、あのお年よりのジャーナリストも、ほんとうの、お気持ちは、もしかするならば、丹沢の山そのことなのではないのでしょうか」
ソフィアは、さっきまでの上手な日本語を忘れたように一語一語、区切って、ゆっくりと言った。
「木を割りなさい……石を持ちあげなさい……か」
言いながら、しずかに立ちあがった曙生さんの顔が、パッと輝いた。
屋外の、夜空に高く花火があがったのだ。
ちょっとして、破裂音とともに、群集のどよめきであろう響きが、遠くやわらかく伝わってきた。
それは、『わたしは光である』と、誰かが、大空から呼んでいるかのようだった。
あ と が き
田 所 静 枝
一般に私たちは、長い間イスラエルときけば、まずく選民思想〉を思うのが普通ではなかったろうか。だが〈桃楼じいさん〉は、それこそ大きな誤解だという。今日のイスラエルでも、全人類を同じ仲間として考え、全世界を共通平等の理想郷とすることを目ざしている人々が、かならずしも稀ではなく、しかもその思想は、そもそもの大昔からユダヤ=イスラエルの歴史には、絶えることなく流れてきたものだと強調する。
もっとも、「われらは神に よみせられたる(ほめられる)特別の民族」という信仰は、気づいてみれば、なにもイスラエルの専売特許ではなかったようだ。有史以来ほとんどすべての民族にとって、選民思想はむしろ普遍的な意識だったとさえ言えるのではないだろうか。私たち日本人自身にしても、つい四十年前までは〈天孫民族〉〈八紘一宇〉などの言葉が、老若男女の耳口に誇りとして親しまれていたし、隣りの中国の〈中華思想〉にしても、古く広大な伝承に培われてきたものだろう。 それがいま、二十世紀後半になって、それぞれの民族、宗教が、この〈選民思想〉を互いにふりかざしているかぎり、世界は進退きわまってどうすることもできないということが、次第にはっきりと見えてきた。――戦争の悲惨さ空しさに、つくづくこりて和平を誓う足もとから、またしても〈敵〉をつくり、軍備を拡大し殺りく行為に突入してゆく……このくり返しのもとのもとをたどれば、選民思想のエゴイズムにゆきつかねばならないということに、ほんとうは世界じゅうが気づいてきているのではないだろうか。
しかし桃楼じいさんは、前述したように、それはなにもいまさらの新しい発想ではないという。人類は〈瞑想〉によって、すでに大昔からこの覚醒を持っていたのだ、と。
すぐれた宗教は、等しくこの〈瞑想〉をもっている……そのことを証そうとしたのがこの本――〈消えたイスラエル十部族=法華経・古事記の源をさがすの巻〉である。
「岩戸を開くということも、聖書をよく読むということも、同じことなのだ。ユダヤ人はそれをパラダイスとし、日本人は高天原(たかまがはら)と言ってきた。天国も極楽も一つのものだ、瞑想によって、否応なしにそれがわかる
……」
とは言え、その、各民族がそれぞれに持っている、いわば共通の選民思想の、根拠はどこにあるのだろうか?
「驚くべきことに、そんなものは、どこにもありはしなかった――伝承の解釈に瞑想が失われたとき、幽霊のように出てきて幅を利かせたにすぎないのだ」と桃楼じいさんは憚(はばか)りもなく言う。
「他人から聞いた話を鵜呑みにしてそのまま信ずるならば、人間は、どこまでも〈たまたま出会った説〉によりすがるだけ、ということになる。そのようにしてお互いに、井蛙的に『わが仏尊し』『われらは選民』とくりかえしているならば、行きつく先は戦争と約束されているようなものだ。
『人類は本来同種――それどころか、全生物全存在はもともと一つ』という思いだけが、地球を絶滅から救うことができる……」
〈戦争と平和〉の問題に、いまや世界じゅうが困惑するなかで、世界じゅうが気づいていながら『わが仏尊し』の習慣的圧力によって、なかなかその気付きを浮上させることができないでいるのが、私たちお互いの実情なのかもしれない。
「凝り固まりの教条主義は、どの宗教にとっても実は異端だった――そもそもが方向を曲げられて成長繁茂した枝にすぎない、とあれば、核戦争による地球の不本意な天折をさけるためにも、われわれは、どんなに苦痛を伴おうとも、いさぎよく誤まれる教条主義、護教意識から脱皮しなければならない。にもかかわらず、ただ信ぜよ、と迫りあっているかぎり、宗教は、おきてと罰とで固められ、脱皮はますます困難になる……本来、教祖たちは、ただ信ぜよなどとは言わなかった。瞑想によって体験して知れ、と言った……」と、桃楼じいさんは主張する。
その瞑想の具体的な方法については、この前冊、〈黙示録の秘密=聖書は暗号で書いてあった〉で詳述してあるので、ご参照ください。
「極楽往生なんていうのは、神や仏との特別契約で権利をもらった者だけが行くようなヘッポコなところじゃない、それがわかるのが仏智見だし、ソフィアだ」と、この本の中で桃楼じいさんは絶叫しているわけだけれども、なんといってもこれは、桃楼じいさんの一夜の大法螺説法。頼りないと思われるかたのために、関連する文献から、現在入手しやすい本を、ご参考に挙げておきます。
参考になる関連文献
○景教の研究 佐伯好郎著フロイド選集(⑧宗教論)人間モーセと一神教 日本教文社
○古代エジプト J・ヴェルクテール著 白水社
○エジプトの神々 F・ドマ著 白水社
○死海写本とキリスト教の起源 M・ブラック著 山本書店○聖書外典偽典(①旧約聖書外典―第二マカベア書) 教文館
(⑦新約聖書外典―トマス行伝) 同上
○聖書の世界 (⑤新約1―トマスによる福音書) 講談社
(別巻④使徒教父文書――クレメンスの手紙) 同上
○大乗仏典(⑫如来蔵系経典――如来蔵経) 中央公論社
○中村元選集(⑯インドとギリシャとの思想交流) 春秋社
○ミトラス教 M・J・フェルマースレン著 山本書店
○隠された十字架(法隆寺論) 梅原 猛著 梅原猛著作集第十巻 集英社
○水底の歌(柿本人麻&論) 梅原猛著 梅原賊著作集第十一巻 集英社
○神々の体系 上山春平著 中央公論社
○続神女の体系 同上 同上
oいのちきわみなし――法華経幻想 松居桃楼著 ミネルヴァ書房
o黙示録の秘密――聖書は暗号で書いてあった 松居桃楼・田所静枝著 柏樹社
なお本文中、聖書・法華経・古事記の引用は、おおむね「日本聖書協会『聖書』」、「平楽寺書店版『訓訳妙法蓮華経』」、「岩波文庫『古事記』 によりました。
終わりに、本書が昭和五六年に出た〈黙示録の秘密〉にひき続いて上梓されるはずのところを、延引に延引を重ねたにもかかわらず根気よく激励督促をやめないで下さった柏樹社の中山社長と、また、脱稿後は、編集に精力的な努力を惜しまずに尽力して下さった岡部清氏に、敬意と感謝を書きとどめさせていただきます。
松居桃楼(まつい とうる)
明治43年東京生まれ。父は劇作家松居松翁。第二次大戦中は,台湾総督府の依嘱により,全島の演劇責任者として指導にあたる。戦後、同志とともに「蟻の会」をおこし、貧しい人々の町づくりに尽す。
現在、箱根・仙石原、無名庵に隠棲。
主な著書 「死に勝つまでの三十日」「天国ははだか」「私の《無用》(エントロピー)哲学」「禅の源流をたずねて」「黙示録の秘密」(以上、柏樹社)
「蟻の街の奇蹟」(国土社)、「蟻の街のマリア」「ゼノ死ぬひまない」(以上、春秋社)、「いのちきわみなし」(ミネルヴァ書房)等。
田所静枝(たどころ しずえ)
大正13年茨城県生まれ。昭和35年より、「蟻の会」において松居桃楼氏を補佐する。昭和44年、箱根・仙石原、無名庵に移り,現在に至る。
消えたイスラエル十部族一法華経・古事記の源をさがすの巻
1985年8月15日 初版印刷
1985年8月25日 初版発行
著 者 ©松 居 桃 楼
田 所 静 枝
発行者 中 山 信 作
印刷/三晃印刷 製本/難波製本
発行所 ㍿ 白 樹 社
東京都文京区千駄木2-8-3(〒113)
振替 東京0-33721 ☎03-827-8431