





第一部 霧の中の景教徒
第一章 命の木の実をたずねて
田道間守(たじまもり)はなにを持ち帰ったか
日募れからちらつきはじめた雪は、ずっと落ちついて降るつもりらしい。部屋に素焼の七輪をもちこんで三人が土鍋を囲んでいる。桃楼じいさんと私と、賓客は中村博士――渋い赤のセー夕ーに見事な銀髪が、ほの暗い電灯の下でひときわロマンチックな雰囲気をつくり、今宵、博士は最上のごきげんである。ご持参のウィスキーを独酌でかたむけながら、バリトンの美声で、もう長いこと唱いに唱って、さすがに学生時代の和洋とりまぜての愛誦歌のたねもつきてきたらしい。私も知っているかぎり唱和して、すでにのどが枯れかけた。
「このあいだ、偶然きいたんだがね、なんでも子供の歌で、〈田道間守の歌〉っていうのがあるらしいね」
博士が、肘つきのままとりあげたグラスを口に運ぶでもなく、酒の色を眺めるようなしぐさをしながら言った。
「香りも高いたちばなを……」
私がふしをつけて口ずさんでみると、「知ってるの? なかなかいいじゃないか。それ、ちょっと書いてくれない?」
かおりも高いたちばなを 積んだお船がいま帰る
君の仰せをかしこみて 万里の海をまっしぐら
いま帰るたじまもり たじまもり
おわさぬ君のみささぎに 泣いて帰らぬまごころよ
遠い国から積んできた 花たちばなの香とともに
名はかおるたじまもり たじまもり
何度もなんども斉唱がくりかえされ、やがてとぎれると、しばらくの沈黙のあとで、博士はなにかぎこちない調子で口をきった。
「……じつは、この歌で思い出したんだが……ある出版社からたのまれたんだよ。――『箱根の桃楼じいさんに、子供むけの本を書いてもらってくれないか、って。それも、田道間守の話を、っていう注文なんだ。ただしね、いまの世の中だから天皇の死を悲しんで 陵(みささぎ)の前で泣きつづけて死んだというところにポイントを置かないで、日本にはじめてみかんを持ってきた文化的功労者という点を、強調してほしい、っていうんだがね」
ああ、そうか、博士は、このことを言い出すために、さっきから、歌まで唱いつづけて、あんなに遠まわしに話をもち出したんだ!――思いあたって私は、はげしく感動した。
桃楼じいさんと中村博士とは、小学校一年生以来の親友で、ことに桃楼じいさんが箱根仙石原にひきこもってからは、博士のほうから年に二、三度は、激忙の
ペンを置いてわざわざ山を訪ねてくれる。そのときは、いつも一、二晩、時をわすれて語り明かすのだが、博士には、草庵の貧乏がどうにも気になるらしく、いつも、なにがしかの衣食のうるおいを加えて帰るのが例なのだ。このときに、いかにして竹馬の友の気持をそこなわずに……と、さりげなくついやされる心遣いは、とてもなみなみのものではない。――(彼、このごろ、なにか仕事してる? 生活、間にあってるの?……)
博士にとって淡いながら、昔の教え子の縁にある私が、いつも、そっと、きかれるのだ。
もっとも、桃楼じいさんの貧乏を心配しているのは、中村博士だけではなく、立原女史も、そのほかいろんな人が、不即不離でハラハラしてくれているのだが、桃楼じいさんの気むずかしさを知っているだけに、あからさまな応援もならず、それぞれに、二重三重の心遣いに骨を折ることになる。そんなことを本人は気づいているのかいないのか、原稿の注文も講演の依頼も、即座にことわるのがもう当然のならいになっているのが、何年来の状況なのだ。……いつになくあんなに博士が唱いまくったのは、なんとかして桃楼じいさんに、きげんよく仕事をひきうけさせたいという、苦心の筋書きだったのか……きょうというきょうはこの話、蹴ろうものならバチがあたる。なにがどうでも承知すべきだ。……私は祈りたかった。
「そうだ、その田道間守のことで、植物が専門の君に、教えてもらいたいことがあったんだ」
桃楼じいさんは、立って、本棚から、不器用に修繕してある古事記の文庫本をとり出してきた。手ずれで表紙の字も消えかけている。
「君はいま田道間守は日本にみかんを入れた功労者だといったけど、――もちろん昔からそういわれてきているのだが――古事記の多遲摩毛理(日本書紀の田道間守)の条(くだり)の、彼が〈非時の香の木の実(ときじくのかぐのこのみ)〉を持ち帰ったというところのあとに、『その非時の香の木の実は、これ今の橘なり』とあるね、――とすると、この古事記の時代の橘が、それからあとにいろいろ改良されて、今のみかんになったわけか?」
「いや、正確にいうとね……」
博士は、ちょっと、ためらったようにみえた。
「橘というのは、まえから日本にあるものでね、田道間守が、わざわざよそから持ってくるはずないんだ。それに橘は、大昔から現在まで、まったく変化していないから、いつの時代にも、花も実も観賞だけで食用にはならなかった。だから、問題の〈非時の香の木の実〉は、橘ではなくて、別の柑橘類だったろうといわれてるんだな」
「つまり、紀州蜜柑とか、温州蜜柑の原始的なやつというわけか」
「いや、記録ではね、紀州蜜柑が中国の浙江省から九州にきたのは、せいぜい鎌倉時代以後だというし、温州蜜柑はもっとずっとあとなんだよね……田道間守がもってきたのは多分、橙(だいだい)かなんかじやないのかな」
「となると、田道間守が、日本にみかんを運んできた功労者という話はおかしくないか?」
ああ、また! やっぱり、ひきうけるつもりがないんだ……私は、たまりかねて口を出した。
「田道間守の話は、いわば伝説でしょう? そんなにむずかしく考える必要はないのじゃないんですか? いつ、誰が、最初にみかんをもってきたのかわからなくても、とにかく大変な苦労がいろいろあったにちがいないのなら、それが田道間守の話でいいんでしょう? ずっと、そういうことになってきたんですもの」
「まあ、それは一理あるとしてもね、昔からおじいちゃんは、田道間守が常世の国から持ち帰った〈非時の香の木の実〉なるものが、今日のみかんの先祖だったという解釈には、どうも賛成しかねていたんだ。それよりもむしろ、学問的には橘でありえないのかもしれないが、古事記の著者が、『これ今の橘なり』といって、ことさらに断っていることに、重大な意味がありそうな気がしてならないんだよ……そこで相談だがね……」
桃楼じいさんは居ずまいを正すと、めったに見せることのない冗談気のない顔で博士を見た。
「君が、このおいぼれた幼な馴染みのために、わざわざ仕事をもってきてくれたことには、心から感謝する。――いや、わかってるよ、これは本屋が『桃楼じいさんに頼んでくれ』といったんじゃない。もともとは君に依頼があった仕事を、『松居にまわしてやってくれ』って言ってくれたのさ。だから、とやかく言えた義理でないことはよく承知している。承知している上で、甘えて頼みたいことがある――というのはね、『田道間守が常世の国から、いったいなにを持って帰ってきたのか?』ということについて、この桃楼じいさん一流の珍解釈があるんだが、とにかく、それを一応きいてくれたうえで……」
「わかった。それ、いま話してくれる? 本にするとかしないとかはこの次だ。是非ききたいね」
博士は自慢のパイプをくわえなおして、愛用の大ぶりの雑記帳をひきよせる。桃楼じいさんは、いまにもバラバラになりそうな〈古事記〉のまん中あたりを、そうっとひらいた。
「この話の原文は、せいぜい一五○字ぐらいの短いものだ……『また天皇(すめらみこと)、三宅連等(みやけのむらじら)の祖(おや)、名は多遲摩毛理(たじまもり)を常世の国に遣わして、非時の香の木の実を求めしめたまいき』――これが書き出しだが――この天皇は一一代の垂仁天皇だね。そこで、まず第一に議論の対象になるのは、『非時の香の木の実とはなにか』ということだ。それからもう一つ、『なぜ天皇は、その木の実を、遠い常世の国へ取りにやらせたのか?』ということも、一緒に考えなければならない。さっきから問題になっ
ている『〈非時の香の木の実〉は、蜜柑もしくは、蜜柑の原種だ』という一般の解釈は、一応、合理的な推理だといえるね。よほどおいしい果物でなければ、それも、当時の日本では得られないというものでないかぎり、わざわざ常世の国へ、取りにやるはずはないから。それならば、その常世の国とはどこか? もし、この木の実を、蜜柑だったと仮定すれば、どの辺になるのかな?」
「まあ、ヴェトナムか、カンボジアか、あるいはもっと向こうだったかもしれないね」
「古事記には、往復一○年かかったとあるところを見ると、相当の距離だったということなんだろうが……」
「もっとも、さがして歩いてめぐりあうまでの苦労がたいへんだった、ということじゃないのか? 栽培法を習ったり、いい種をえらんで播いて、そのなかからまた、いい苗をえらんできた、とすれば、四、五年は、そのために滞在したことも考えられるがね」
「いずれにしても、そうやって艱難辛苦の末に帰ってくると、天皇はすでに崩じていた。田道間守は悲しさのあまり『遂(つい)に叫び哭(な)きて死にき』と、古事記には書いてある。……そこで問題になるのは、彼が常世の国から持ち帰ったはずの、ふかんの種や苗木は、その後どうなったか、ということだ。そのすぐあとにくる、例の『その非時の香の木の実は、これ、今の橘なり』とあるところから推察すると、田道間守の持ち帰ったのが、みかんの実や苗木だったと仮定するならば、それは残念ながら一本も後世には伝わらなかったことになる……」
「なぜ、そう言えるんですか?」
頭が重たくよどんできたのを、ふるい落とすような気持で、私はきいた。
「なぜ言えないと思うのか聞きたいね。田道間守が持ってきたみかんが健在だったなら、『その非時の香の木の実は今のみかんなり」と、書いたはずじゃないか」
「なんかのはずみで、その人、田道間守が持ってきたみかんを、橘という名だと、思いこんでしまったのかも……」
「橘は、もともと日本にあった木で、しかも、とうてい食用に耐えない果実であることが、大昔から一貫して変わっていないって、中村君がいま言ったろう。一方、田道間守は、世にもすばらしい味の木の実を、さがしに行った、というのにかね?……とにかく、その木の実がみかんだったとして仮設をたてたら、その証明がどうなるか、一応、結論に至るまできいてくれなければ、話が先へ行かないじゃないか」
私は、すみません、と頭をさげたが、桃楼じいさんは無視して言葉をつづける。
「彼が持ってきたみかんが、後世に伝わらなかったとなると、そこで、第二の疑問が起こる。――古事記の著者は、田道間守が持ち帰った種や苗木が育たなかったことを承知のうえで、わざと『今の橘なり』と、嘘をついたのか、それとも本当に『橘は田道間守が、はじめて日本に輸入したもの』と信じていたのか、ということだが……」
「さあ、それは、どっちともいえないな。なにしろ古事記の著者は、地名のいわれなんかも、かなり無理なこじつけをしているところがあるからな」
「しかし、いずれにしても、この文章からは、『その非時の香の木の実とは、今日の橘である』という意味以外には、解釈できないことは、たしかだろう?」
「それはそうだ」
「だとすると、第三の疑問は、『花や実を観賞するだけで食用にならない橘、すなわち〈非時の香の木の実〉を、垂仁天皇が、わざわざ遠い常世の国まで使いを出して、取りよせようとされた』という話を、古事記の著者が、なぜ特筆大書する必要があったのか? ということだ。……まあ、大ていの人が、古事記とか旧約聖書などという本は、矛盾だらけのところが文学的で面白いとか、人間的ですばらしいのだなどといって、いちいち細かな詮索をするのは野暮な話だと笑うよね、しかし、そういうふうに、大昔に本を書いた人びとを、まだ幼稚だった――ときめてかかるから、えてしてかくれている真意を、読みそこなうことになるんだ……」
――まあ、そう、ムキになるなよ……それならきみは、この田道間守の話の裏には、なにか、謎がかくしてある、というんだな?」
「そうなんだ.しかも、その謎の鍵は、田道間守の話のすぐ前にある、〈円野比売(まどのひめ)〉の物語だ――というのが、この桃楼じいさんの、独断的庇理屈の発端というわけさ」
「どんな話だつけ? 円野比売の話って」
中村博士は、消えていたパイプに、性急に火をつけた。
「垂仁天皇は、はじめの后の沙本毘売(さほびめ)が亡くなったあとに、毘売の遺言にしたがって美知能宇斯王(みちのうしのみこ)の四人の娘を召し出された。ところが、四姉妹のうち、上の二人は美しくて、下の二人が不美人だったために、下の二人には、国へ帰るように命じられた。すると一ばん下の円野比売は、国の人びとに会わす顔がない、と、深い淵に身を投げて死んだ――というだけの話だ」
「それと、田道間守と、どういう関係があるんだ?」
「たしかに表面上は、なんの関係もなさそうだ。しかしね、この、円野比売が自殺したという報告をきかれたとき、垂仁天皇のショックがどんなに強かったかと想像すると、問題が、きわめて深刻になってくるんだよ」
「そんなショックの話、古事記にあるのか?」
「いや、なにも書いてない。けれども古事記を最初からくわしく読んでくれば、この、円野比売の物語のところで、むしろハッとしないのがおかしいくらいだ」
「というと、古事記の前の方に、その物語に関連する話があるというんだな?」
「例の天孫降臨のところね、邇邇芸命(ににぎのみこと)が天照大神から鏡と剣と勾玉(まがたま)の三種の神器を託されて、この日本を統治するために高天原から九州に降り立った――そのとき邇邇芸命は、すばらしい美人に出会ったので、『誰の娘か』ときくと、『大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)です』と答えた。そこで尊は、さっそく大山津見神に、正式に木花佐久夜毘売との結婚を申し込むと、大山津見神は非常によろこんで、木花佐久夜毘売とともに、その姉の石長比売も一緒にさしあげた。ところがこの石長比売が、非常にみにくかったので、邇邇芸命は、木花佐久夜毘売だけを側において、姉は親もとへ送り返してしまった。……どう? ここまでは、姉と妹の立場こそ逆でも、さっきの円野比売の話と、そっくりだろう。……だが、問題はこれから先にあるんだ。――姉娘を返されたことで、大いに面目が傷ついた大山津見神は邇邇芸命に告げた――『私があなたに姉妹二人をそろえてさしあげたのは、姉の石長比売がおそばにあることによって、あなたのお命が巌(いわお)のごとく永遠であれと祈り、妹の木花佐久夜比売がおそばにあることによって、木の花の咲き匂うがごとく、物の豊かなおくらしをされるようにと祈りました。けれどもあなたは、石長比売のほうはお取りにならなかった。このために、あなたのお命は、木の花のもろく散るような、はかないものになりました』……古事記は、この話の結末として、『故(カレ)、ココヲモチテ今二至ルマデ、天皇命等(スメラミコトタチ)、御命(ミイノチ)、長クマサザルナリ』
……このせいで、天皇とその子孫は、永遠の命をもてなくなってしまったのだ、って、つけ加えているんだね。
日本書紀も、この話は、そっくりのせているけれども、さらにまた一説として、『石長比売もまた、恥じて恨んで泣き叫びながら、日本国民もみんな木の花のごとく、はかなくあれ、と呪った――だからそれ以来、この世の人は、すべて短命になってしまったのだ』という言い伝えがあることを、紹介している。
この石長比売の物語は、なぜか明治以後の文部省教育からは、しめ出されてしまった。だから現代の日本人にはあまり馴染みがないのだが、〈古事記〉などという書物さえもなかった大昔の日本では、おそらく誰もが知っていた民間説話だったにちがいない」
「ユダヤ教やキリスト教徒の考えかたと、同じことだね、彼らは今でも、人間はアダムとエバの〈失楽園〉のおかげで死ぬことになった、と信じているわけだ。先祖代々、子供のとぎから聞かされてることは、理屈なしに強力だからな……」
「まったくそうだ。有史以来の日本人が、『人間はすべて、大山津見神と石長比売の呪いによって死ぬのだ』と思っていた――としても、ふしぎはない。ところが、だ。――垂仁天皇は、邇邇芸命と完全に同じ過失を犯してしまった。それどころか、円野比売が淵に身を投げて死んだ、という結末は、石長比売の呪いよりも、さらに深刻な責めとして、天皇の胸にこたえたろう。みんなも、天皇の死は、もう目前に迫っているように、思ったことだろうし、そのうえ、日本国民全体にどんな災厄がふりかかってくるかしれない、となれば、国じゅうが、ほん気でおそれおののいたかもしれない……この推理は、ひどくばかばかしいか?」
「うん、そうだね、『そういう不吉なたたりを、古代の人々が素朴に信じた』ということなら、きわめて自然だと思うな」
「ならば人びとは、そういうたたりや呪いから、なにによって助かろうとしたか。そこには、どんな宗教的願望がうまれたか……」
博士が、パイプを口から放した。
「まてよ! おい!……すると、その非時の香の木の実は、パラダイスにある生命の木だな? はるばる海の向こうの不老不死の国、常世の国へ、永遠の命の木の実を取りにいったというわけか、田道間守は……」
桃楼じいさんが、首の骨をガクソとさせてうなずいた。
「なるほどねえ、いかにも松居くん一流の推理だ。しかし、実際問題として、田道間守は、永遠の命の木の実を手に入れるわけにはゆかなかったろう……」
博士は、面白いけれども納得はしかねる、というようすだ。
「じゃあ、もう一度、筋みちをたてて話すことにするよ」
常世の国からの伝達
「垂仁天皇は、海の彼方の常世の国に、非時の香の木の実がなる永遠の命の木がある、ということを耳にされた。それは円野比売の自殺事件の前だったかもしれないし、あるいは後だったかもしれない。もし前だったとすれば、それほどの興味はひかれなかったろう。だが円野比売が、天皇を怨承呪って死んだ、と聞かされてからは、その木の実を、なにがなんでも手に入れたいというのぞゑが、切実になった。そこで田道間守が常世の国を求めて旅立つ羽目になった。そこは今の朝鮮半島だったかもしれないし、中国本土だったかもしれない。あるいは、さっき君が言った、ヴェトナムかカンボジアか、それよりもっとさぎまで行ったかもしれない。もちろんどこまで行ったって、不老不死の国なんか、あるはずがない。月日はどんどん流れていく。それでも田道間守は必死になって、命の木の実があるというこの世の楽園を求めて歩いた。……ところがあるとぎ、彼はたいへんな朗報を耳にした。『この世には、命の木のある楽園など、どこにもありはしないが、すべての者が永遠の生命を得ることができる教えがある』……彼はその教えを真剣に学んだ。そして最後に〈永遠の生命についての奥義書〉を授けられた。これこそ正真正銘の〈常世の国の非時の香の木の実〉だった。田道間守は、その奥義書をにぎって、天にも昇る気持で、まつしぐらに日本に帰ってきた。
だが、日本の港についてみると、天皇は、すでに崩御のあとだった。田道間守は泣いた。そして陵(みささぎ)の前で叫んだ。『常世ノ国ノ非時ノ香ノ木ノ実ヲ持チテ参上(マイノボ)リテ侍(サムロ)ウ!!』……古事記には、たったこれだけしか書いてないのだが、大昔の田道間守の声が聞こえるよね。それは、みかんや燈や橘などを、持って帰った人の声ではない。この教えをほんとうに体得すれば、まちがいなく死の恐怖から解放されるという、〈永遠の生命についての奥義書〉を、しっかりと握りしめている人が、胸の底からふりしぼって叫んでいる声だ。それは、円野比売や石長毘売の死の呪縛から、天皇と日本国民全体を解放する、絶対的平安をつげ知らせる叫びだったんだ。『常世ノ国ノ非時ノ香ノ木ノ実ヲ持チテ参上リテ侍ウ』と叫んだそのとぎに、この世の生も死も、愛も怨みも、完全に一つになった。同時に彼の存在も、原初の根源と融合してこの世から消えた。
田道間守の死後、彼が常世の国から非時の香の木の実を持ち帰ったという話は、長く語りつがれた。だがその〈非時の香の木の実〉というのは、じつは〈永遠の生命の奥義書〉である、ということについては、その奥義書を極秘のうちに受けついだ人の周囲の、ごく少数の人以外には洩らされなかった。だから世間の人は、ほんとうに木の実を持ち帰ったと思いこんだ。そこで古事記の著者は、表面上、世間の言い伝えどおりの文面で物語を綴った。しかし、古事記を真剣に熟読する人の心には、まったく違う意味が、うかびあがってくるようにね。そして、その謎をとくヒントは、ちゃんと古事記の中にかくしておいた。これは、田道間守だけのことじゃないんだ。古事記の構成自体が、謎仕立てなんだ。そもそも今夜の田道間守の話も、この、謎ときが眼目だから……」
「あの、すみませんが、ちょっと待ってください……」
私は、敵前突破の思いで声をかけた。
「その先がつづいたら、夜が明けそうですから、今夜はこのへんにして、おやすみに……」
全部をいわせず、博士は、桃楼じいさんにあてていた視線を動かさずに言った。
「夜が明けたっていいよ、つづけようよ。その奥義書ってやつ、田道間守が死んでから、どうなったんだ?」
「奥義書の行方をたどるには、まず田道間守の系図だが……」
徹夜の黙契が成立して、桃楼じいさんは、とんでもないところから、杭をうちはじめたようだ。
「彼の先祖は新羅(しらぎ)の国主(コニキシ 王を意味する朝鮮の古語)の王子で、その名は天(アメ)ノ日矛(ヒホコ)だと伝えられている。日本書紀には、垂仁天皇の三年に、わが国に渡ってきた、とあるが、古事記には、ただ『昔』、播磨風土記には『神代』のことだとあるから、どこまで信用できるかわからない。ところが、この〈天ノ日矛〉が新羅から持ってきたという玉や鏡や布を、神宝として祀ったのが、現在もある兵庫県の出石(いずし)神社で、この附近には、大昔から出石人(いずしびと)とよばれる強力な部族がいたという伝説が残っている。しかも古事記の「応神天皇の天之日矛の条(くだり)」に書かれてある系図からみると、田道間守は天ノ日矛から五代目で、三人兄弟の長男だったのだから、多分、出石人の族長だったろうと思われる」
「うん、その出石人っていうの、古代では外交や貿易で、かなり大きい仕事をした豪族だったらしいな」
「そうなんだ。だからもし田道間守が出石人の族長だったとすれば、問題の奥義書は、今日でも、出石神社の宝蔵に、しまわれているかもしれない、という臆測もなり立つわけだ。つぎに、もう一つ――古事記の垂仁天皇の御代の多遅摩毛理の条に、『三宅連等の祖』とあるところから、いわゆる三宅連の子孫たち、つまり今日、三宅姓を名のる家柄の誰かが秘蔵しているかもしれない。……
しかし今までのところでは、どこからも、そういう古文書が現われた護 ないようだ’となると、今度は、その奥義書が、天皇家に渡った場合を考えて承る必要がある。これにはいくつものルートが想像されるわけだが、まず第一に垂仁天皇から三代あとの、仲哀天皇のときになると、有名な神功皇后がクローズアップされる。ところがこの神功皇后は、田道間守の姪の娘にあたるのだから、どちらの系図からしても、問題の奥義書が、神功皇后の手に渡るという確率はきわめて高い。しかも、古事記や日本書紀のいうところからみても、神功皇后は、非常にシャーマン的資質のすぐれた女性だったことが、わかる」
「……古事記にあったな、九州の香椎の宮で神よせをした話が。天皇が琴をひいて、武内宿弥が、ご託宣のきき役で……おそろしいお告げがあるんだな、灯を消したまっくら暗の中で、神功皇后にのりうつった天照大神から」
「そのご託宣を仲哀天皇は無視してしまったから天照大神の怒りにふれて、その場で崩御された。それからは、神功皇后の摂政の時期が長くつづくわけだが、それをずっと補佐したのが、武内宿弥(たけのうちのすくね)だ。日本の歴史で、彼に、はじめて大臣という位の名がついた。それから、長生きした人物といえば彼のことになっているね。それで垂仁天皇のつぎの景行天皇から仁徳天皇まで、五代の天皇に仕えたと」
「なんだか、永遠の生命の奥義書が、神功皇后から武内宿弥の手に渡った……なんていう推理もできそうだな」
博士が、笑いながら言う。
「それなんだ。ひょっとしたら、冗談じゃないかもしれないんだよ」
「そろそろ面白くなってきたな、――というと?」
「こんどは武内宿弥の系図なんだが、彼に七人の息子があった。それぞれが、新しい有力な家系の先祖になっている。古事記の、孝元天皇の条にある順序どおりにいうとね、最初が〈波多八代宿弥(はたの やしろのすくね)〉、次が〈許勢小柄宿弥(こせのおがらのすくね)〉、〈蘇我石川宿弥(そがのいしかわのすくね)〉――この子孫が、馬子・蝦夷・入鹿たちだね。つぎが〈平群都久宿弥(へぐりのつくねのすくね)〉この人物の出生について、日本書紀がくわしい記事をのせている。仁徳天皇は神功皇后の孫だが、大雀命(おおさざきのみこと)といって、平群都久とまったく同年同日に生まれた。ちょうど、その生誕の日に、大雀命の産屋(うぶや)に木菟(つく=みみづく)が飛びこんできて、都久の産屋には鶴鵜(さざき=みそさざい)が飛びこんだ。そこで皇子の父の応神天皇が、『鳥の名前をとり代えて、生まれた子の名にしよう』
と言って、皇子の名前が大雀命、武内宿弥の子には、都久という名がついた……
これでみても、武内宿弥の七人の男子のうち、とくに平群都久宿弥が、応神天皇や仁徳天皇と、親しい間柄であったろうと、想像できるわけだ」
* * * *
「あの、ごめんください。ちょっとだけ、よろしいでしょうか?」
突然かかったソフィアの声で、私の意識は、――話しながら次第に鮮やかになっていく十なん年前の――雪の夜の記憶から、鎌倉の、立原女史のアトリエにひきもどされた。
「いま、おはなしにありました平群都久宿弥と、平群真鳥との関係は?……」
「あ、そうですね、都久宿弥は真鳥のお父さんですね」
「そう?。じゃあ、あの平群真鳥? かのあやしき神代文字の文献を、漢字の文章に翻訳したっていう……」
曙生さんが声を高くして言った。私は、自分が話をしながら当然、結びつくべき連想に、気がつかなかったことに、いささかあわてた。
姿なき〈奥義書〉
「あれは、一九三五年(昭和一○年)だったわね?」
曙生さんが、ひとさし指で虚空に点を押しながら言う。
「『わが家の祖先、平群真鳥から伝わる古い文献によると、キリストは、この村で死んだはずだ』といって、竹内巨磨さんていう人が、突然、一月森県の戸来(へらい)村にあらわれたのは」
うなずいたソフィアの顔が、すこし上気しているようだ。
「それで村じゅうが大さわぎになって、いろいろさがして、〈キリストの墓〉がみつかった」
「それから、〈キリストの遺言状(テスタメント)〉も、出てきました」
ソフィアは、わざと、まじめくさった顔で言った。
「そう、そのあたりからが、いかにもあやしくなるんだけど、でも、どう? 竹内巨磨氏の言った話が、ぜんぶ、つくり話だったら、かのふしぎな文献を漢字になおした先祖、という人に、わざわざ平群真鳥なんていう、歴史上あまり有名でない人を、えらぶと思う?」
「わたくしも、考えておりました、そのことを……」
ソフィアが、すこし早口になり、さっきからの彼女にはあまりなかったゼスチュアを大きくまぜながら、手にしたノートからわれわれの眼に、律儀に視線を往復させる。
「平群の真鳥という人は、四人の天皇につかえました。けれども、あまり専横 (arbitrary アービタリー)だったために、死刑になりました。彼の子どもの鮪(しび)といっしょにです。これは、たいそう不名誉なことではないでしようか? K・竹内が、嘘をつくったならば、なぜ、自分の先祖は武内宿弥といって誇示しませんでしたか? 武内宿弥ならば、日本人、だれでも知っていますね」
「ほんとうにそうよ」
曙生さんは強く同意したが、私は、ふと疑問がわいて、言った。
「知られていない名前のほうが、虚構をささえるのに安全、ということもあるでしょう」
「だけどね、〈キリストの遺言状〉にしても、戸来村の墓の話にしても、とにかく、矛盾が多くて、用意周到につくりあげたウソなんていうものから遥かに遠い感じからしても、竹内巨磨という人は、歴史をくわしく調べたりするたちじゃなかった、としか考えられない。それなのに、巨磨氏は、平群真鳥という人物を、祖先である、と言ったのは……」
「真鳥が、ふしぎな文字で書かれた文書を持っていた。その真鳥は巨磨氏の先祖だった、ということは、事実だというわけね?」
「ええ、もし、そうだとすると、さっきの桃楼じいさんのお話の、田道間守が持ってきたと推測される奥義書ね、常世の国の非時の香の木の実が、ほんとは永遠の命についての奥義書だったとしたら、田道間守が死んだあと、それが神功皇后を経て、武内宿弥の手に入るというのは、充分ありうる――それが平群都久に相続されてもふしぎではない……となってくると、その息子の真鳥が、神代文字を漢字の文章に翻訳したという古い文献は、田道間守が持ち帰った奥義書……か……も」
「あの、……けれども……」
ソフィアが、遠慮がちに声をはさんだ。
「K・竹内の子孫が、現在持っているという真鳥の文献には、超古代文明のことが、たくさん書いてありますね、それは、とても信じられないような……そのようなものが、永遠の命の奥義書であると考えるのは、すこし、無理なのではありませんか?」
「その問題なら……」
曙生女史は、スケッチブックに図表を書きはじめる。
「もしも、よ、田道間守の奥義書と、平群真鳥がもっていた文書が、同じものだったとした場合ね、それは何語で書いてあったか知らないけれど、多分、そのころの中国や朝鮮半島の言語ではなかつたはずね。その字は、それまでの日本人が、まだ一度も見たことがなかったような、変わった文字だったらしいから……だからといって、かならずしも、〈神代文字〉じゃなかったんじゃないの?
――だからこそ、田道間守のあと、長い間 読める人がなかった――それが、どういうわけか平群真鳥のときに、日本語に翻訳された――ところが真鳥親子は、皇室に憎まれて処刑されてしまった――といっても、それからあとにも、平群姓を名のっている人は、たくさんあるからには、問題の奥義書が、翻訳も原書も、そのとき平群家のなかで刑にあわなかった子孫に、かなり後世まで伝わっていた
……と考えるのは、どう?」
「それならば、もしも田道間守が、ほんとうに永遠の生命の奥義書を、持ってきましたならば、そのオリジナルは、なに、だったでしょうか?……常世の国というパラダイスがあって、そこに永遠の生命の木の実があるというような、そういう内容は……」
ソフィアは謎の糸の端を見失うまいとするように、ゆっくりと、慎重に言う。
「当然、旧約聖書よ。第一ばんに考えられるのは……ねえ」
女史が同意を求めたが、私はあえて黙っていた。
「それを、だれが教えましたか? 田道間守に……」
「もちろん、ユダヤ教徒か、キリスト教徒か……」
「そのほかには、ないでしょうか? 旧約聖書とは関係ない、別のオリジナルのものは?」
「ええ、それも考えてみなければならないけれど、平群真鳥を経て後世に伝わったのが、もしもその奥義書だったとするなら、やっぱり一ばんの可能性は、キリスト教関係のルートだと思う……」
曙生さんの、疑問の余地がないような言いかたは、私だけでなく、ソフィアも意外なようだった。
「竹内家のふしぎな文献に出てくる、モーセやキリストが、日本で勉強した、なんていう話ね、常識からは、まったくナンセンスよれ。それにキリストの墓だって。冗談なら面白いけど竹内巨磨という神主さんが、新しく創立した宗教を布教するためとしては、むしろマイナスでしょう? それなら、なぜ、そんな逆効果になることを、わざわざしたのか、なんだけど、察するところ奥義書の原書や平群真烏の翻訳書そのものは途中で消えたけれども、そういう文書の存在があった話だけは、竹内家に語りつがれていたんじゃないか?」
「なるほどね、そしてその言い伝えの中に、なぜか聖書の内容に似た話が、ちらちら出てくる」
「もしかすると、その文書は、徳川時代の初期まで実在したかもしれない。だけど、竹内家の何代か前の人が、禁制のキリシタンの教えとそっくりの内容に気がついて、危険をさけるために破棄してしまった。原文も翻訳書も。……でも、こんど明治になると、キリシタンの禁制が解かれたばかりじゃなくて、キリスト教は、仏教よりすぐれた宗教だというように、世の中の価値観が変わってきた。そこで竹内巨磨氏は、先祖からの言い伝えを再認識して、『そのキリスト教は、平群真鳥の文書の中に、くわしく書いてあったはずだ』と、誰かに話した。それがだんだん拡がって、それをきいた人のうち、いろいろの策士が、巨磨氏のまわりに集まるようになった。そしてすでに消えたはずの幻の奥義書は、復元されなければならない、という信念と情熱が、どんどんエスカレートして……」
「……キリストの墓が、青森県に現われることにまでなった、というわけね、――でも、なぜ青森県になったのかしら」
「やっぱり戸来(へらい)村という名前の発音からじゃないの」
「あの、すみませんが、お話を、もどしていただいてもいいでしょうか、さきほどのところに」
よほどためらったあげく、というソフィアの声で、私たちは饒舌を切った。
「いまのお話のように考えるならば、K・竹内が発表しました文献と、真鳥が翻訳した文章とは同じものでない、と考えられますか」
「そうね、あれとはぜんぜんちがう本ものが、もしかすると別のところで現在までひそかに伝えられているという可能性も……」
「それならば、ますます、知りたくなります。田道間守の奥義書が、そのあと、どうなったか……
彼が、日本に帰ってきたのは、何年でしょうか」
「そうだ。それが問題よね、……とにかくここにいてはしょうがない」
そういわれて、廊下のガラス戸が閉めきってあるのを思い出し、私は首すじを流れている汗を拭った。
私が曙生さんの本棚から、亡き父上の蔵書印が押してある、古ぼけた年表をさがし出してくると、その間にソフィアはテーブルの上を手早く片づけ、曙生さんは台所で、ジューサーを回した。やがて氷片の浮かぶ果汁で蘇った三人は、ふたたび額を集める。
「垂仁天皇は……一一代――田道間守、橘を得て常世の国より帰る――西暦七一年だった」
「四○年くらいですね、キリストの受難(パッション)から、……」
「ローマの大火。直後に第一回キリスト教徒迫害が六四年。あ、ユダヤのエルサレム陥落が七○年――最終的に。ローマ軍に落とされたのが。……田道間守が常世の国へ行って帰るまでの一○年間には、こんな事件が起こっていたんだ……」
「その時代に、ヨーロッパ人やユダヤ人が、旅行をすること、ありましたでしょうか? この、東洋の一ばん東まで?」
「それは、あったようですよ」
「そうか、じゃあ田道間守がどこかでキリスト教徒かユダヤ教徒に出会って、少なくとも旧約聖書の中の、モーセの五書くらい手に入れる可能性は、あるわけね」
曙生さんが声をはずませた。
「でもねえ、この年表自体、日本書紀が基準でしょう? それを、どのていど信用していいかは、相当に問題なんじゃないの?」
「う-ん、そうか、古事記や日本書紀が、そのまま歴史ってわけにはいかないんだった……六世紀ごろまでの日本は、大体〈有史以前〉なのよね、あら、でも、そうなると垂仁天皇や田道間守の実在も疑わしいなんていうことも、あるのかしら……そんなこと考えたくないな……」
「田道間守の話が事実だったとしても、それが、日本書紀の記録どおりの、西暦六一年から七一年にかけてのことだったのか、どうか」
「そうねえ、むかしは国史を西暦でいうときは、神武天皇の即位が、西暦紀元より六六○年前だから――六六○年ひけばいいってことだったのに、いまは、日本の紀元は西暦紀元前後だっていわれたり、三世紀から四世紀半ごろまで、下げるべきだっていう説もあるそうね」
「それならば、垂仁天皇は、いつごろになりますでしょうか?」
ソフィアが気をもんでたづねる。
「四世紀後半あたりだって強く言う人もあるそうですけどね、とにかく田道間守の話がでてくる古事記ができたのが、七一二年でし襲うIだから、それよりも前だということは確かでしょうけれどね」
私が年表を見ながら、心細い返事をすると、曙生さんが、あきらめるように言った。
「結局、上限は西暦七一年、下限は七一二年……その間、六四一年の開き……これでいったい、なにが推理できるっていうの!」
「何千年の差から見たら、まだ軽いでしょう、天地創造が五千年か六千年前のことになってる歴史だってあるのに……」
私は、まったくうっかりと、それがユダヤの例であることも、ソフィアがユダヤ系であることも一瞬わすれて口をすべらせたが、ソフィアは何も気にしなかったようすで本題を続けた。
「田道間守が、そんなに最近、生きた人ならば……。七世紀には、日本に、キリスト教がきていたということを、わたくし、きいたことがございますが……」
「それ、京都の太秦(うずまさ)寺のことじゃありませんか?」
問いながら私は、ふたたび十なん年前の冬の夜を思っていた。あのとき、話題の途中で、中村博士が、意外なことを言い出したのだ。
いろは歌の謎
「かかるあやしき夜にふさわしい、奇怪な謎の話があるんだがね……」
箱根は容赦なく積もりつづける雪の下に、全山、息をひそめているのか、話がとだえると、ひたすら落ちる雪の気配のほかは、まったく無音の世界である。中村博士が、ものものしい前置きをしながら、雑記帳になにか書いている。私が食事のあと片づけをしている間は、田道間守の奥義書の話題を中断しておいて、時間つぶしの雑談でもしていようとの配慮と、あとで気がついた。中村先生という人はつねに、そういう心遣いが、身についているらしい――私が斜めにのぞきこむと、ノートには、〈いろは歌〉が七字ずつ区切って七行に並べられ、各行の末尾だけが丸で囲んである。
「とがなくて死す、でしょう?」
「なんだ、知ってたのか」
「そんなの、誰だって知ってますよ」
中村博士ともあろうものが、そんな通俗な問題を、ごたいそうに持ち出したことに期待をはずされて、私の返事が乱暴になっていた。
「案外、ものしりなんだな。しかしいまは、トガナクテシスが答えじゃないんだ。『咎なくて死んだのは誰か』の問題だ」
そういわれて承ると、千年も昔から伝わるという〈いろは歌〉に、とがなくてしすという不気味な暗号文がかくされているという話はよくきくけれども、いつのころにか、 誰かが、うまく見つけた冗談の遊びにすぎないときめこんでいたから、『誰が?』などとは、ついぞ考えたことがなかった。
「でも、やっぱり偶然じゃないんですか? 七字目ごとに、その字が当たっていたというのは。ほんとに無実の罪で殺された人があったとしても、『咎なくて死す』と言い残しただけで、なにか効果があるでしょうか」
「しかし、この『色は匂えど散りぬるを……』というのは、もともとお経の文句からきてるんだろう?」
「ええ、涅槃(ねはん)経だそうですね、諸行無常、是生滅法、生滅滅巳、寂滅為楽を今様に詠んだものだって聞きました」
〈無常偈(げ)〉という名で知られているこの四句は、大乗経典の中の涅槃経の、『釈迦の前生譚」にでてくる話で、雪山(せつせん)童子とよばれる若い修行者が、一切衆生のために正しい悟りを開きたい、と必死に祈っていると、帝釈天(たいしゃくてん)が鬼の姿になってあらわれ、上の二句だけを唱えてきかせた。雪山童子は、どうぞあとの言葉を教えてくれと頼むが、鬼は腹がへっているからダメだとことわる。そこで、自分の体をたべさせるという約束とひきかえに、下の句を聞かせてもらった童子は、後世の修行者たちのために、この〈無常偈〉を岩の上に書き残してから、はるか眼下に牙をむき出している鬼に向かって身を投げた。その刹那、鬼はもとの帝釈天の姿にもどって、童子の体をやわらかくうけとめる。――童子はこの瞬間生死を超越した境地を体得した……という話である。
「……人間は誰でも、己れを完全にゼロにした瞬間に、永遠の生命を獲得する話なんだろうが、キリスト教にもね、イエスが十字架にかかったのは、その『うゐ(い)のおくやまけふこえて……』の悟りを、自分の命とひきかえで、全人類に理解させるためだった、という説があるんだよ」
「まさか、いろは歌の とがなくてしす が、イエス・キリストを指してるというお話じゃないでしょう? ヒマラヤで投身した雪山童子は、釈迦の前身なんですもの」
「それが、だな、このいろは歌のもとである大乗仏教の経典そのものが、ぜんぶ、新約聖書の翻案だということに、なったらどうする?」
私は答えを見あわせた。まじめに聞いているつもりなのに、〈宗教の門外漢〉をもって自認する博士が、いったいなにを言い出す魂胆なのか……
「しかし、現に、そういう意見を持ってる人物が、あるんだよ」
「それ、誰?」
崩れかかるノートの山を、あぶなっかしくおさえながら、しきりになにかさがしていた桃楼じいさんが、突然、ふりむいてたずねた。
「いや、それがね、僕がまだ学生で、牧野富太郎先生のお伴して、よく山歩きしてたころの話なんだがね、ある山寺の和尚から聞いたんだ。いろは歌をつくって世にひろめたのは、弘法大師じゃなくて、大昔の日本のキリスト教徒だった……って。あとになって、あのとき、もっとくわしく間いとけばよかったと思ったんだが、なにしろそのころ、植物ばかり面白くてね、そんなことは軽く聞き流しちゃったんだなあ……だけど、そのときにね、どうも、京都の太秦(うずまさ)寺が、そのいろは歌を作ったキリスト教徒たちと関係があるっていうようなこと、聞いたっていう記憶があるんだよ」
「太秦寺? そいつは面白い。なるほど、今夜のミステリーとして、ピタリだ」
桃槙じいさんの眼が、急にいきいきとして、博士に先をうながしている。
「その〈いろは歌〉の話をきいたずっとあとで、『七世紀のころ中国に大秦寺というキリスト教の寺ができて、それが日本にも伝わって太秦寺となった」という話をきいたものだから、急に興味がわいてね、それ以来、何人かの学者にきいてみたこともあるんだ。しかし、否定的な返事だったな……『太秦寺と大秦寺は字からいえば点一つのちがいだといっても、中国の大秦寺の大秦はローマ帝国をさしているんだし、京都のうずまさは、明らかにうずまさという地に由来した名前だ――っていうんだ。そのほかにも、日本の太秦寺が、中国の大秦寺より、少なくとも一五年くらい前からあった、とか……
それから、中国のほうは最初のころは、大秦寺という名じゃなくて波斯寺――ペルシア寺とよばれていたのであって、それが正式に大秦寺と改められたのは、玄宗皇帝の時代で、日本に太秦寺とよばれる寺が建ってから一○○年以上もたってからだっていう意見もあった……」
「それなら、うずまさ寺が、キリスト教と関係があるというのは、ただの風説ですか」
そのとき、私の質問を斬るように、桃楼いさんが、指を立てて大きくひと振りした。
「ガッヵリすることはない。中国の大秦寺が、日本の太秦寺より後れてできたという証拠があるからといって、それが、『七世紀ごろの日本に、キリスト教が入ってはいなかった』と、断定する証拠になるわけではない……」
「……そうすると桃楼じいさんとしては、ちがう角度から、そのころ日本にキリスト教がきてたっていうことを証明するというんだな?」
「と、正面からこられると、少々うろたえるがね、……君、むかし、大英博物館でロゼッタストーン見たってハガキくれたな、ロンドンから……」
「ああ、あれ、意外に小さいんだよ、大体このテーブルの三分の二くらいだったなあ。黒玄武岩だったよ、たしか」
「ロゼッタ石って、エジプトの王様の頌徳碑(しょうとくひ)なんでしょう? その、ごく一部……? ナポレオン軍がエジプト遠征してみつけたプトレミイ五世とかいう王様の……」
「あんな小さなかけらを手がかりにしてね、結局シャンポリオンが、それまで誰にも見当がつかないでいた象形文字を読破したんだから……感動するね、いつまで見ても見飽きなかったよ」
「それならば……往時の君の感激にあやかって、今夜は東洋のロゼッタストーンに会うことにしよう」
桃楼じいさんが本棚の隅から、重たげにとり出してきたのは、この家には数少ない豪華本の一冊、〈景教の研究〉である。
「景教か――それが、七世紀の長安の都に、かの大秦寺をたてたシナのキリスト教だな、正しくはネストリウス派っていうんだろう?」
「このほん書いた佐伯っていう人も、そう確信して、ネストリウスの問題に大半のページを割いている。彼は、明治の末期から昭和のはじめごろにかけて、ほとんど独力で、この研究やりぬいたんだ。地球上の景教についての、あらゆる資料を調べつくして……そのために、相当の素封家(そほうか=金持ち)だったのに、全財産を失ったんだ」
桃楼じいさんは、うすい膝にのせた重い本を、しげしげと眺めながら紹介する。
「ところで君、中国の大秦寺について、何人かの学者の意見、聞いたっていったけど、その人たちが証拠とする資料の中で、最も重要なものは、まさに一個の石碑なんだな。……この写真、一ばん上に大きく『大秦景教流行中国碑』と彫ってあるだろう……この石碑、数百年間、地の下に埋まっていたl明朝末期の嘉宗の時代に掘り出されるまで」
「日本は徳川家光の時代(一六二○年代)ですね」
私が、すかさず念を押した。桃楼じいさんは、ちょっと意外そうだったが、私がテーブルの下にかくして、ポケット年表をみていると知って、(な-んだ)という顔をしてから、話をつづける。
「その碑文から知れるわけだが、建ったのは、七八一年……」
桃楼じいさんは、そう言ったまま、わざとポーズをおいている。私は、あわてて年表を繰(く)った。
「ええと、七八一年……唐は徳宗のとき。日本は桓武天皇即位の年……」
桃楼じいさんは、いかにも可笑(おか)しそうなのをおさえて、話をすすめる。
「碑面には、景教という宗教の性格、内容、中国伝来の時期やいきさつ、その後の発展の経過などが、一七○○字ばかりの、――部分的に難解な点はあるにしても――簡潔な漢文で書いてある.それはともかくとして、少々変わっているのは、その碑文の周囲のシリア文字――漢字で書かれてある人名の大部分が、肩書きも一緒に、シリア文字でも刻ってあるんだ……」
「それで東洋のロゼッタストーンか。しかし、それなら、その碑文からも、シャポリオンがあの象形文字の解読の鍵を発見したほどの、ショッキングななにかが、あらわれたというわけか?」
「ところが、発掘されてからもう三六○年も経っているというのに、いまだに枝葉末節の字句の解釈が論議されているていどで、目新しい問題は、ほとんど出されていないようだ。そのくせ、大秦寺の問題には、解明不可能な謎が多すぎるんだ。――まず第一に、その当時の景教の坊さんたちは、『われわれは大秦国からきた』といっていたが、それは嘘だった。なぜかというと、そもそも、大秦という国は、今日のシリア地方だったりローマ帝国そのものであったりで、その定義たるや、はなはだあいまいなんだが、いずれにしても、ササン朝ペルシア帝国の国境をこえて、さらに西にあるはずだ。だが、その当時、景教の本山は、ペルシア帝国内のセレウキアというティグリス河の中流に沿った町にあったのだ。つまり彼らは、ローマ帝国からの亡命者であり、ぺルシア帝国の居留民にすぎなかった。ということは実際のところ、ローマからもぺルシアからも、保障してもらえない立場だったんだ。そこで、時にぺルシア人ということにしたり、時にはもっと西の方の、大秦国から来た人間だと言いもした……ところが、七世紀なかばごろに、本山が寄留していたササン朝ぺルシア帝国は、マホメット教の軍隊によって壊滅させられてしまう。本来なら景教徒もそのあおりでひどい目にあうはずだが、イスラム教徒は、アラビア砂漠の中から新興したばかりで、文化的水準の低いことを自覚していたから、自分たちの勢力下に置かれることになった領土内に、以前から住んでいた異教の景教徒を、かえって保護して、彼らの西欧的文化を積極的に吸収しようと努めた。
そこで景教徒は、ササン朝ペルシア時代より、はるかに地位が安定した。そうなると、中国にいる景教徒たちも、ペルシア人らしい印象をあたえることが、こんどはマイナス効果を持つことになってきた……」
「なるほど、それで、『波斯寺なんていうまぎらわしい言いかたをしないで、正確に大秦寺と呼んでもらいたい』となったか」
「という次第で、大秦寺という名称は、玄宗皇帝の時からはじまったんじゃなくて、中国に、はじめてキリスト教の教会が建ったとき以来、ずっとつづいてあったと考えられる。それも、この碑文に出てくる貞観一二年(六三八)より、もっとずっと早くから、〈大秦寺〉は存在したはずだ。なぜかというと、石碑には、長安の都に、公式に大秦寺が建立されたよりも三年前の、貞観九年(六三五)に、大秦国から――というのは、さっき言ったとおり嘘で、ほんとうはセレウキアから司教の阿羅本(アブラハム)を主席とする宣教師団がやってきたのを契機として、景教は唐の朝廷から公認されて、国費をもって大秦寺が建てられたことになっている。そのために『景教は西歴六三五年に、はじめて中国に伝来した』かのごとく思い込んでいる人も、すぐなくないようだ。しかし、ちよっと考えればすぐわかることば、阿羅本がセレウキアの本山から派遣されてきたのは、布教のためというよりは、おそらくその当時の景教が、唐の朝廷から公認されるほど、隆盛になりつつあったからだろう。――となると、中国においての景教の歴史は、貞観九年よりも、はるか以前にさかのぼらなければならないことになる」
「『日本の太秦(うずまさ)寺が、中国の大秦寺より前からあった』という説が、くつがえりそうだな」
銀髪の貴公子の顔が、一瞬、少年のかがやきを見せてほころびた。
「しかし、そうなると……景教は、いつごろ中国に入ってきたんだ?
リウス派のことだ、ってよく聞くが、その問題はどうなんだ? ……それに、景教はネストリウス派のことだ、ってよく聞くが、その問題はどうなんだ?」
なぜシリア語にこだわるか
「たしかに『景教は、正統なキリスト教から異端として追放されたネストリウスという一派のことだ』と、大がいの本には書いてある。そして、その説には、かなり根拠があるといわなければならない。――にもかかわらず、この桃楼じいさんには納得できないんだ。むしろ、大まかにすぎる分類ではあっても、『シリア教会の中の一派だ』といったほうが、穏当だと思う。それなら、シリア教会とは? となると、簡単に言って『イエスの教えの真髄は、シリア語によらなければ把握できない、と信じているグループ』ということができるだろう」
「ああ、この景教の碑に刻ってあるのは、シリア語だったな」
「そうなんだよ。それにしてもなぜ彼らは、そうやって徹頭徹尾シリア語にこだわったのか? キリスト教といえば、西欧的なものとしか考えられないわれわれ現代人には、理解がむずかしい問題だが、シリア語というのは、正確にはアラム語と呼ぶべきものを、後世の人が、故意にそういう別名を使っているだけの話で、もともと新約聖書の福音書に登場するイエスも十二使徒も、アラム語でものを考え、アラム語で議論しあっていたことを思えば、この問題は、意外に重要性を持っていることがわかるだろう。
こんにち、地球上の大部分の人が〈キリスト教〉として認識しているのは、実はイエスの死後に、イエスやその直弟子たちに関する、アラム語で語られていた言い伝えを、いったんギリシャ語に翻訳してから、それにギリシャ、ローマ的解釈を加えて、改めてつづりなおしたギリシャ語の福音書や使徒行伝や書翰(しょかん)だけを通じて知る――という意味では、あきらかに間接的なのだから」
「英語訳の枕の草子や芭蕉の俳句で、日本文学の真髄を鑑賞する、となると、たしかにむずかしいことはあるな……」
「ところで、本来の景教、つまりシリア語(アラム語)によるキリスト教は、イエスの死後まもなく、パミール高原を越え、タクラマカン砂漠を渡って中国の本土にまで伝わっていた形跡があるんだ。
「どうしてそんなに早く、キリスト教が中国に行くことになったんだ?」
「本当のことをいうと、〈キリスト教〉が伝わったんじゃない。キリスト教を信ずる貿易商人たちが、絹を手に入れたい一心で中国へ中国へと向かった……」
「そういえば、シルクロードは紀元前二世紀ごろから通っていたんだな……」
「中国の絹製品が、いわゆる商品として、どっとヨーロッパに流れ込むようになったのは、紀元前一世紀の中ごろ――前漢の終わりごろで、ローマがシリア地方を占領してからのことだ。ちょうど、そのころから、首府のローマの中心にある商取引き専門の町、バスクスに、はじめて絹の市がひらかれたという記録がある。それと同時に、絹はまたたく間にいまのスペイン、フランス、イギリス
といった地方にまでひろがっていった。つまり、ヨーロッパの絹の需要が、紀元前後から爆発的にふえたために、絹を買いつける隊商の群れが、中国に殺到しはじめた。そこで問題になるのは、その絹商人の主流は誰だったのか? ということ。いわゆるシルクロードの沿線にあった多くの小国家や小民族をはじめ、古代の安息国(パルテア Parthia 後のササン朝ペルシア帝国)などが介在して、中国との貿易に利益をあげていたのは事実だが、なんといっても見すごすことができないのは、その当時、おおざっぱに〈シリア人〉とよばれていた貿易商人たちの存在だ」
「シリアというのは、いまのシリア共和国の前身と考えていいのか?」
「地域的には今日のシリアのほかに、レバノン、ヨルダン、イスラエルあたりまでを含めて呼ぶことがあったようだ。ただし、シルクロード時代のシリア人といえば、むしろシリア語をはなす人びと、と解釈すべきなんだな。……しかも彼らが活躍した地域となると、非常な広範囲にわたっていた……」
「そのシリア語というのが、イエス時代のユダヤ人も一般に使っていたアラム語か」
「そうなんだ。そのアラム語は、すでに紀元前八世紀ごろから、西アジア全域にわたって共通語になっていた。そして前六世紀ともなると、古代ペルシア帝国の公用語にすらなっていたんだ」
「ということは、古代のシリア地方が、いかに重要な地域だったかということだな。あそこは、アジアとヨーロッパ、アフリカと三大陸をつなぐ交叉点だし
……」
「シリア地方に隊商の制度が、世界一はやく発達したのも、当然だ。そのうえ古代ペルシア帝国の領土は、インダス河の流域から、天山山脈やパミール高原の西の端までひろがっていたのだから、アラム語が話せる人びとは、なんの不便もなしに、エジプトからインドまでの地域を旅行できた――つまりシルクロードの全域で、もっともひろく一般に通用していた言語といえば、大昔から終始一貫、アラム語(シリア語)だったんだ。……そこから、〈シリア人〉というよび名が、〈金儲けのためなら命がけで世界の涯てまでも旅一行してあるく貿易商人〉の代名詞にされた。……しかも中国人がこのシリア人のことを、前漢時代にはえ黎軒(ライケン この言葉のもとは、ギリシャ語のセリコン=絹だと思うのだが――)、あとでは大秦という名で、よく知っていたということは、非常に早くから、相当の人数のシリア人が、中国本土に姿を見せていた証拠じゃないだろうか……」
「そこで当然、考えられるのは、前にも言ったように、ローマのバスクス街に絹取引の市が立ちはじめた時代、つまり紀元前一世紀の後半ごろから、すでに中国の本土でも、いたるところで、このシリア人を主流とする絹貿易商人たちの取引きがさかんだったに相違ない。――となると、その取引所の周辺には当然、隊商宿、倉庫、商館などが建つ。だが、そのなかでも、最も重要だったのは、各グループの隊商たちが信仰する守護神の神殿や礼拝、集会のための教会堂だったろう。行く先ざぎで自分たちの神を祀る慣習は、すべてに優先していたはずだと思うんだ」
「旅が危険に満ちていたものな……盗賊、疫病、それに難路だ。気象は、一日のうちに急変するし……いかに真剣に祈ったか想像できる」
「さあ、そこで――これから先は、全部桃楼じいさんの大法螺だと思ってくれても、一向かまわないんだが……まず第一に、はっきりさせておかなければならないのは、――シリアの貿易商人たちが、紀元前から中国に来ていた、とするとき、そのころの彼らの信仰は、いうまでもなく、キリスト教ではなかったということだ。多分それはゾロアスター教かミトラス教だったろうと思われるわけだが、それはともかくとして、やがて紀元後(後漢時代)になると、うって代わってシリア人のキリスト教会が建てられるようになった。そして、その教会の表口には、なぜか中国の文字で〈大秦寺〉という額がかかげられた。中国人はそれをみて、『大秦寺とは、大秦という国からきた人たちの寺』と解釈した。そういうことで、前漢時代には〈黎軒〉とよんでいたシリア人を、以後はあらためて〈大秦国人〉とよぶことにした」
「なんだか話が混み入ってきたな……どうも、きみの言うのを聞いていると、まるで『たまたま大秦寺という寺が建ったから、中国人は、その寺を建てたのは、大秦国の人間だ、と誤解した』というように聞こえるよ」
桃楼じいさんの韜晦(とうかい)趣味は、さすがの博士にも相当に迷惑らしい。
中国管区のカテドラル
「たしかに、例の〈大秦景教流行中国碑〉の中でも、『自分たちは大秦国からやってきた」と、くりかえし書いている。だが、何度も言ったけれども、それは大嘘なんだ。――その当時 彼らの本山は、ササン朝ペルシア領の、セレウキアにあったのだから……」
「ああ、さっき、きみ言ったな。ペルシア人といわれながらペルシア人じゃなくて、しかも大秦という国というのも嘘だったんだな……それにしても、〈大秦〉というのは、ペルシア帝国より、さらにもっと西のほうの国をよぶのに、中国人がつけた名前じゃなかったのか?」
「そこが問題なんだよ。なぜかというと、シルクロード時代の中国人は、自分の国を〈秦〉ともよぶ習慣が、あったんだ。日本人が、日本のことを、ヤマトとよぶように……」
「そういえば!……」
私は、われをわすれて話をさえぎった。
「天台小止観に『魔羅、秦ニテハ殺者トイウ』とありますね」
もう何年たつか――桃楼じいさんが、天台大師の〈天台小止観〉を現代語に訳したとき、私は原文の読みくだしの作業を仰せつかって、上野寛永寺の二宮大僧正の膝下へ何ヵ月も日参し、一字一語について、ご教示をいただいた。あの、破格にも恵まれた講義の時間が、一瞬、私をよび戻す━━『印度の魔羅(悪魔)を中国では殺者という……』というところで、八十歳をとうに過ぎられた老師は、『昔、中国人は自分の国を秦とよんだ』と、そして、ついでに、日本のお寺では、坊さんたちが〈魔羅〉を読むとき、なんとなく遠慮してモラと読む習いになっていると、微笑しながら添えてくださったのもなつかしい。その老師も、大空に帰られてすでに久しい時がすぎた……
「なるほど、ぼくも英語のチャイナの語源は秦だとはきいていたけど、いくら始皇帝の存在が華々しかったといっても、紀元前三世紀ごろ中国を統一して、たった十なん年の天下だったんだろう? それなのにどうしてヨーロッパ人はその秦だけを永久的に呼びつづけているのか? って、思ったことがあったんだが、そうか、中国人は、ずっと自分の国を〈秦〉とよんでたのか……」
「天台大師という人は、隋の煬帝が師事した人だから、その天台大師が中国を秦と、それもごくあたりまえに呼んでいる以上、すくなくとも唐のはじめごろまでは、秦(Ch‘in)という言いかたは、つづいていたにちがいない」
そうすると大秦という名の、ほんとうの由来は、どうなるんだ?」
「そこでいよいよ東洋のロゼッタ石――〈大秦景教流行中国碑〉の出番だ」
桃楼じいさんは、そう言いながら〈景教の研究〉を、重たそうに卓上にのせ、話題になっている碑文のページを博士に示した。
「この碑文の中の人名や肩書きには、シリア語の呼びかたがいちいち添えてある。――つまり、ふり仮名というわけだね。たとえばこの『僧遙越』はIouel Kasisa(ヨエル カシサ=聖職者 )という具合に。だが、ここで問題になるのは、この碑文の第一行目に書いてある言葉なんだ」
(碑文の第一行目とは〈大秦寺僧殿浄述〉という文字である。これに添えてあるシリア文字の発音を、ローマ字式の綴りになおすと、
Adam KasisaW'korepiskopa W'paps d chinestan となり、さらに、
これを英語に訳すと、
Adam priest and chorepiscopus and papas of chaina となる
(アダム プリエスト コレピスコパス パパス チヤイナ)
━━と、〈景教の研究〉五九五頁に説明されている)
「この添え書きによって、この碑文を書いた景浄という人物の洗礼名が〈アダム〉だということ、そして彼は平(ひら)信者ではなくて聖職者(Kasisa カシサ )であること、それからkorepiskopa(コレピスコパ)という文字から、彼の階級が副司教であることも、わかった。しかし、最後のpaps d chinestanとは、なんのことだろうか?……この、Paps(パプス)については、これまで学者の間で、いろいろ論議されているのだが、この〈景教の研究〉を書いた佐伯好郎氏は、『まちがいなく、キリスト教の聖職者一般に対する〈神父〉の意味だ』と、主張している。しかしヨーロッパの研究家の中には、『中国語の〈法師〉とい文字の発音を、シリア式に表記したのではないか?』と、いっている人もある――この二つの説は、真向から対立しているようではあっても、実は、Paps' をシリア語とみなすか、あるいは中国語とみなすか、のちがいであって、どちらにしても、ただ単に、〈聖職者〉を意味することにしかならない。しかし、それなら、最初のKasisa(カシサ)=聖職者と、どうちがうのだろう。もし、Kasisa(カシサ)とPaps(パプス)が大差ないのならどうしてこの肩書きを、二種類に書きわける必要があったのか? 冒頭に『彼アダム(景浄)は聖職者である』と打ち出しておいて、その次にその階級が副司教であることを明らかにした以上 第三番目には、当然 彼の職分がなんであるかを、述べるはずだ――と考えるべきではないだろうか? ――となれば、Paps' は神父でも、また、法師でもあるはずがない。
じゃ Paps d chinestan(パプス ド チネスタン)とはなにか? 結論をいうとこれは、〈中国管区の管区長〉ということになる。では、この、桃楼じいさん独断の根拠はどこにあるのか、というと、この本の中で著者の佐伯さんは、『Paps'はシリア語としてはPapa(パパ)とも書き、また、Ppa(パ)、またはPapasとも書くのであって、末尾のSは、実際において重要性がない』と言っている(景教の研究五九○頁)。ところがこのギリシア語のPaps' から変わったPapas'には、〈神父〉のほかに、ローマ法王とか、総大司教というような意味があるばかりでなく、〈管区の管区長〉として使われる場合もあるのだ。……
一方、『Paps' は中国語の〈法師〉だ』とする説を、もう少しひろげて解釈するならば、『Paps' 、は中国の法王である』と推測できないこともない……なぜかというと、この碑文のまん中あたりに、貞観九年に長安にやってきた阿羅本(オロホン)が、その後、〈鎮国大法主〉となった、と刻(ほ)ってある。これは、〈中国管区を統括する大管区長〉と同義語ではないだろうか。……というわけで、どちらの説から押していっても、 'paps d chinestan(パプス ド チネスタン)は、中国管区の管区長〉としか、考えられない。――そこで、改めて、このシリア文字の添え書きと、漢字の『大秦寺僧景浄述』とを、比較検討すると、だね」
そこで一段と声を高くした桃楼じいさんは、ちょっと体を動かして重心をとりなおす。
「最後の述という字が、ここではまったく訳されていないが、この碑文を、いつ誰が書いて刻ったかは、終わりのところに、シリア語で記述してあるのだから、とくにこの場所に訳語がでてこなくても、ふしぎではない。しかし、ここで、一ばん肝腎かなめの〈大秦寺〉という、固有名詞のシリア語訳はどうなっているか? ――これが、なんと、一言半句も触れてないんだよ」
「あの、……〈僧景浄〉が、中国管区の管区長なら、大秦寺は、〈景教の中国管区のカテドラル〉ということになりませんか?」
私が思いつきを口に出すと、桃楼じいさんはキッとこちらを向いて、まっすぐ私を指さした。
「それなんだ。景浄が中国管区の管区長なら、その景浄が、大秦寺僧の代表者である以上、大秦寺は中国管区の司教座があるカテドラル(中央大聖堂)でなければならないはずだ。……しかも、この、シリア語のChinestan( チネスタン)の語尾のスタンはアフガニスタンやパキスタンの場合と同じように国という意なのだから、『Chinという国』、つまり、あきらかに中国の国名を〈秦〉(Chin)とよんでいるんだ。……そればかりじゃない。この碑の終わりのほうでは中国の皇帝のことをMalke d China(中国の国王たち)と書いている。この場合のChinaのaは英語のtheにあたる接尾語だから、Chinestanにせよ、Chinaにせよ、その語幹が Chin(秦)であることは、絶対に、はずれていない」
「なるほど、それは、きみのいうとおりだと思うね。彼らが〈秦〉を中国の別名と、じゅうぶん承知していて、自分たちの教会を〈大秦寺〉とよんでいるんだから、それが〈景教の中国管区の中央大聖堂〉を意味するというのは、妥当だと思うよ」
「では、大秦寺の大は?」
私はまだ安心できなかった。
「そりゃぁ中国に対しての敬称だったかもしれないし、あるいは〈大司教座〉の意味かもしれない」
それにしても、〈大秦景教流行中国碑〉の大秦も、やっぱり中国だというのだろうか? わずか一○字たらずの中で、中国が二度くりかえされるなどということに、どうして納得できるだろう……私が不満をかくさないでいると、
「というのは冗談。さっきも言った通り、これは桃楼じいさんの大法螺だ。ゆめゆめ信用すべからず、だ」
「いや、こいつは、ただの大法螺じゃないな、まさにコペルニクス的大転回だよ。……だがね……」
博士は、まるで無責任なホメかたをしたあと、ちょっと口ごもった。
「……もし、そうなるとだな、そもそもの問題だった日本の大秦(うずまさ)寺との関係は、どうなるんだ? 大秦寺が、シリア教会の中国寺院という意味なら、日本の太秦(うずまさ)寺とは、むしろ無関係ということになるのか?」
「アッそうか、太秦寺がキリスト教と関係あるかないかの問題だった……すこし中国に深入りしすぎたかもしれない、じゃあ、こんどは、日本の側から少し考えなおしてみるか……」
今がいままで名探偵ホームズ気取りだったのが、急に凡庸なワトソン役にまわったような桃楼じいさんの頼りなさに、博士と私は顔を見合わせた。
飛鳥時代の渡来人
「京都の太秦寺は、推古天皇のとき(六○三)、聖徳太子の発願で建てられた、と伝えられているね」
「建てたのは、秦 河勝(はたの かわかつ)だろ……」
「うん、実際は、太子の死後に、翌年あたりに建てられたっていうのが、このごろの説としては、有力らしいな……ところが、〈大秦景教流行中国碑〉には、『長安の義寧坊に大秦寺が建ったのが、唐の太宗のとぎの、貞観三年(六三八)』と書いてある。だから、やっぱり中国の大秦寺は、日本の太秦寺より一五年ほどおくれて建ったことになる。つまり『太秦寺はキリスト教とは無関係である』という説は、そこから出るわけだ。……しかし中国大秦寺は、実はもっとずっと前からあったはずだということは、さっき言ったから、改めて問題にしないが、それはともかくとして、そのころ――飛鳥時代とよばれるころの日本は、あの絢爛たる天平文化の準備期だった。……そこで当然でてくる疑問は、推古天皇の即位(五九二)から奈良の大仏開眼(七五二)までの一六○年ほどのあいだに、――もちろん紆余曲折はいろいろあったにせよ、大和朝廷による日本全国統一と並行して、物心両面に、なぜあれほどの文化的大飛躍をなしえたか――の問題だ。たしかに、はじめは朝鮮半島から、後には階や唐から、学者や技術者が大ぜい招聘されたし、こちらからは無数の留学生が大陸に送られた記録が残っている。――その時代に大陸からきた宝物、あの正倉院御物などというものは、ほんとに大変なものだよね。それらが大きなカルチャーショックになったことは、もちろんだが、しかしだよ、それだけの人間と、宝物や物資が動くためには、莫大な費用が使われたはずだ。
ところが日本の歴史には、その問題が、まったく姿をあらわさないだろう? 遣唐使の費用はどのくらいかかったのか、朝鮮や中国ばかりでなく、インドやペ
ルシアから、どんな条件で、学者や技術者に来てもらったのか? あの、仏像や美術品や楽器なんかは、どれ一つとしても、おどろくべき高級品ばかりだ。その巨額の費用を、小さな後進国日本が、どうやって、まかなうことができたのか?
……疑問は、そのへんまでで答えをいってしまえばだね、この国の気候風土が、世界じゅうのどこよりも、養蚕に適していた……」
「ヨウサン? ああ、繭をつくる蚕か」
「そう。しかし日本に最初から蚕がいたわけじゃない。野性のものはいただろうが……例の、あれ、なんていったつけ?」
釈迦に説法していると思っていたら、桃楼じいさんは、急に聞き手に応援をもとめた。
「なんだ、ボンビックス・モリのことか?」
「うん、――といったような上等な品種は中国にしかいなかったようだ……」
「あら、じゃあ、天照大神が機織りしてた糸は、野性のまゆだったんでしょうか」
「いったい天照大神の時代をいつにおいているの? 伝説と歴史を混同しては、こまるな。……とはいっても、中国人が紀元前、何千年もの大昔から絹織物をはじめた、というのも、伝説にはちがいないだろうがね。それはそれとして、唐の時代(七世紀のはじめ)ともなれば、おそらく中国史上最大量の絹が、ササン朝ペルシアを経由してコンスタンチノープル(東ローマ帝国の首府)へと流れ込んだことだろう。当時のヨーロッパでは、絹の価格が、同じ目方の黄金と同等だったというのだから、唐王朝が絶頂の繁栄を誇っていたことも、推して知るべしだ。ことに二代目の太宗皇・帝(在位六二六~六四九)の時代は、後世に〈貞観の治〉と讃えられるほど、中国全土が平和で、庶民の生活水準が飛躍的に高くなって、長安は世界一の都になっている。そして、その原因の筆頭は、まったく絹貿易のおかげだった。もちろん青銅器とか、ヒスイ、漆器なんかの特産品も輸出されてはいたが、そういうものの利潤は、絹とはくらべものにならなかった。しかし、そうなってくると、こんどは中国の国内で作られる絹は、量も質もヨーロッパの需要に追いつけなくなってくる。そこで、中国側の絹貿易関係の役人や輸出業者だけでなく、例のシリア系商人たちまでが、知恵をしぼって、中国の各地に養蚕や機織りを、奨励指導してまわった――と想像できる。国じゅうを叱咤激励して『絹をつくれ絹をつくれ』……」
「なるほど、それでも足りなくて、日本にも下請けさせたか……」
「いまの日本の商社が、発展途上国なんかで、どんどんやっているように、ですか?」
「その、絹ブームのおかげで、三世紀の卑弥乎の時代には、まだまだ未開国の状態だった日本が、五世紀のはじめごろから急激な高度成長を見せる――日本国じゅうに桑が植えられて、すべての女性が蚕を飼って機(はた)を織った。ときには皇后や女官までが積極的にたずさわった。日本国じゅうが、製糸工場 織物工場になった――というのは、少為オーバーだとしても、ほとんどの女性が夜も昼もなく絹のために働いた。……この現象は、明治になってもう一度、再現されるんだ。ヨーロッパの文明にくらべて、まったく〈未開〉のアジアの果ての小国が、わずか数十年の間に大帝国ロシアと互角に戦うほどの近代国家に成長したのは、ほかならぬ絹が、莫大な外貨を稼いだからだ。日本が、世界随一の絹の生産国だったればこそ、あの明治の急成長がありえた……」
「でも、そのかげに、女工哀史がありました……」
「それはそうだ。しかも、飛鳥時代から天平にかけての、日本の農村女性たちのみじめさは、とても、明治大正の製糸工場の程度ではなかったのだ。……ところで、この絹をつくらせるために、いったい、いつ誰が、指導者として中国から渡ってきたか? だ」
桃楼じいさんは、勝手に自分でうなずいて、空の湯呑をとりあげた。
「そこで、だ。これから先は、またまた妄想憶測として聞いてくれてかまわないんだが、もし、その中国から日本に派遣された指導者の一群が、例の、〈景教徒でシリアの貿易商人〉だったら、どうなる? なにしろ何百年もの間、幾代もつづいて貿易商をやってきたシリア人の中には、中国に永住して中国人と混血していた者も多かったろう。中国の風俗習慣はすっかり身についているし、シリア語は達者だし、絹の製産は蚕の飼いかたから機織り染色のすべてにくわしい。しかも国際貿易の全般については熟知している。そういう連中が、集団で渡来してきて、日本全国いたる所に桑を植えさせて養蚕絹織物を指導してまわって、製品を中央に集荷する。それを船積みして中国へ送り出す――そういう仕事を一貫してするのには、何百人というチームワークが必要だ。それがもし〈景教徒のシリア人〉だったとすれば、少なくとも集荷所の周辺には、シリア人の居留地がうま
れる――とすれば、そこに、当然 景教徒の教会が建てられる――さあ、その教会にだよ、中国にいたとき自分たちが前から名づけていたのと同じ名の〈大秦寺〉――つまり景教の中国管区の寺――という額をかけたとしたら……?」
さっきは冗談といった〈大秦=中国説〉を、桃楼じいさんはまたもや堂々ともち出した。
「なぜ、日本管区としないんだ?」
「教会の管区は、一国ごとにつくるとはかぎらないんだ。小さな国をいくつもまとめて、一管区の中にいれることはいくらでもある……」
「なるほど。それで京都のうずまさに、〈日本の大秦寺(たいしんじ)〉が建ったというわけか」
「という偏見的仮説が、はたして成り立つかどうか、こんどは太秦寺の角度からアタックしなければならない」
「もっとも、この太秦寺というのは通称で、正式には広隆寺だが、最初は蜂岡寺とも言ったらしい」
「あそこの弥勒菩薩だったな、国宝第一号、……それに秋の、牛祭り、あれ有名なんだろ?」
「世にもふしぎな祭りでね、摩多羅(マタラ)神という神様の」
「マタラ神か、いずれよそから来た神様だろうね、そのうえキリスト教と関係ありそうだとなれば、宗教の博物館だね」
「いや、実は冗談じゃないんだ。たしかに太秦寺は、むしろ世界の宗教にとってのガラパゴス島だ「じゃあ桃楼じいさんは、宗教史のダーウィンか? だがちょっと待ってくれ、きみの話だと、うずまさ寺は、シリア人がたてた景教の中国管区の寺だということになるが、あの寺をたてた秦 河勝という人物は、秦始皇帝の子孫じゃなかったのか?」
「始皇帝から八世ぐらいか、言い伝えでは……とにかく、融通王という名の人物が、応神天皇のとき〈百二十の県(あがた)の民〉をひきつれて、百済から帰化してきたことになっているけれども、こまかく言えば、そのほかにもいろいろ言い伝えがあるんだね、仲哀天皇のときにこの融通王の父の功満王が一度きてる。その時の用件は多分、日本に集団移住する下相談だったんじゃないか? それから応神天皇の一四年(二八三)に、その子の融通王が単身で来て、『百二十の県の人民をつれて帰化したいのだが、途中で新羅の国の人びとに阻まれて困っている。なんとかしてもらいたい』というわけだ。それで翌々年、武内宿弥の子の平群都久宿弥(へぐりのつくねのすくね)ともう一人を派遣して、全員無事にひきとってきた――ということになっている。要するに、応神天皇の御代に、それもごく晩年に、秦の始皇帝の子孫と称する融通王なる人物が、かなり大勢の仲間をひきいて日本に移住してきたものらしい。
だが、次の代の仁徳天皇のときになると、その〈秦ひと〉を使役して、摂津河内(大阪府下)に、いくつも池や堀江を掘ったり、港や堤防をつくったことが古事記に書いてある。しかし、なんといっても、この秦ひとたちの業績の第一は、諸国に分散して行って、各地に養蚕と絹織物をおこしたことだった。仁徳天皇とお后が、蚕の変態する一生を非常にめずらしがって見に出かけたことも古事記にあるね。つまり、そのころはまだ養蚕が、近畿地方でもめずらしかったにちがいない。それが、仁徳天皇から五代あとの――といっても、この間は、日本書紀の記録でさえも六○年もたっていないのに、雄略天皇(在位四五六~四七九)のときになると、諸国に分散していた秦ひとたちの仕事が、もうすでに、大きな成果をみせていたことが、はっきりしている。なぜなら、雄略天皇の第一五年(四七一)に、秦 酒公(はたのさかぎみ)という人物が、諸国から集まった絹織物を、うずたかく積みあげて朝廷に献上した話が書いてあるところに『そのとき〈畠豆麻佐(うずまさ)〉という姓をたまわった』とある」
「そうすると、うずまさは、地名より姓のほうが先についたのか」
「しかし、この話、すこしあやしいんだな、なぜならば、彼らの子孫は、その後もずっと〈はた〉と名乗っていて〈うずまさ〉とは言ってないんだから。じゃあ、なぜ、そんな記事が、日本書紀にのっているのか、というと、その当時の人びとが、なぜ、太秦寺(たいしんじ)という字を、うずまさ寺と読むのか? という疑問を持っていたから、あえてこんな理由を考えて、きまりをつけておく必要があった――とも臆測できる。……なにしろ、日本書紀が書かれたころの日本は、もう完全な独立国なのだから、『太秦寺とは〈中国管区の寺〉という意味だ』ということを、日本人に理解させるのは面倒だったろう」
「面白くなってきたな、もし秦ひとなるものが、シリア人の子孫だとすれば、彼らは日本でも、太秦寺(たいしんじ)の由来を説明するのに、骨を折ったんだな……目にみえるね」
無邪気によろこんでいるように見える博士は、あるいは、自分より遥かに老いの深い同年の友を、全力投球でいたわっているのかもしれない。
「そういわれると、また調子にのって、無限にこじつけたくなるわけだが……とにかく、この小さな国史年表ひとつ見たって、雄略天皇の時代には、『后妃二蚕事ヲ勧メシム』(第六年=四六二)、『諸国二桑ヲ植エシム』(第一六年Ⅱ四七二)、『呉ヨリ機織リノエ女来ダル』(第一四年Ⅱ四七○)と、こういった〈秦ひと〉に関係のありそうな記事が、やたらと目につく。しかし、これ――第一六年(四 い象くら うちくら おおくら七三)、斉蔵 内蔵 大蔵の三蔵を設置する――これこそ最重要の事件だ。……蘇我満智が、今日の大蔵大臣にあたるこの総管理職につく。これが後日、蘇我一門の巨大な財力を築くはじまりになるわけだが、この出納権を握ったのが、秦 酒公だ。それ以来、彼の直系は、代々、朝廷の財政にかかわる。――本拠を太秦において、奥州から九州のはてまで、日本全国に養蚕をやらせた。じつに綿密なネットワークでね。なにしろ雄略天皇の時代、〈秦ひと〉の数は、一万八六七○人、居留地が九二郡(ごおり)あったというんだから……朝早々に、築港や運河をつくる土木工事をやらされているように書いてある古事記の記事は、実は、絹を大女的に中国に積み出すための、準備行為だったのかもしれないだろう……
すこし大げさにいうならば、五世紀から八世紀へかけての、日本における秦氏の存在は、一八世紀以後のヨーロッパにおける、ロスチャイルド家――といったものだった……」
「それほど大規模な仕事が、手ぎわよくやれたのは、彼らがよほどすぐれた技術集団だったということだな、そのうえに宗教的団結か……」
「もしも、もしもですね、秦氏の一門がシリア人だったとして、しかも太秦寺が景教の寺院だったとしたら、当時の秦ひとたちは、どんな景教徒、つまりシリア教会に属するキリスト教徒だった、ということですか?」
「まあ、そういうことだ」
「でもその景教は、キリスト教の主流から異端として追放されたネストリウス派のことではないのですか?」
「もし、景教の教義が、ネストリウス派とそっくり同じだったとすれば、そういわなければならないだろう。しかし、この桃楼じいさんには、どうしても、そうは思えない」
「きみ、さっき言ったね、『本来のシリア教会は、アラム語で、イエスやイエスの直弟子たちの教義を正確に伝承してることに誇りを持っている宗派だった』って」
「そうなんだ。そこが非常に重要な点なんだ。シリア教会は、途中から不意に流れこんできたネストリウス派の影響も、たしかに一時的には相当うけたに相違ないのだが、かりにそういうことがあったにしても、もともとのシリア教会の信者たちの大部分が、それ以前から一貫してもってきた信念と誇りには、なんの変化もなかったはずだ。――『自分たちこそイエスの教義の真髄を、正確に伝承してきた者だ』という信念には、ね。その証拠には、それまでずっと、ギリシャ語でキリスト教を理解してきたネストリウス派が、主流派に追われてシリア教会の世界に逃げ込んでくると、彼らはなぜか突然、いままで使っていたギリシャ語をやめて、シリア語(アラム語)一本に転向してるのだ。この事実を、どう思う?
……大ていの歴史家は、そんなことはまるで無視して、いわゆるシリア教会が、それ以来、ネストリウス派の教義に塗り変えられてしまったかのごとく、断定してるけれども、このじいさんに、それは納得できない」
「つまりきみは、いわゆるシリア教会には、なにか特別の伝承がある、って言いたいんだな? それは、イエスや直弟子から、直接伝わっている教えだと、考えているのか?」
「たしかに、ギリシャ語のキリスト教徒とはちがうなにかがあったらしい。だからこそ彼らは、徹底的にアラム語にこだわりつづけたんだよ。アラム語は、シリア語だ」
「だが待てよ、……シリア教会の連中が、それほどにシリア語にこだわることの裏には、たしかになにかの理由がありそうだが、それよりも、さっきから、きみがその問題にひどくこだわっていることのほうが、さらに日(いわ)くありげにきこえるぞ」
桃楼じいさんを、見るでもなく見ないでもなくそういうと、博士は、パイプからたちのぼる煙に目を移した。『どうだ! オレは知己だろう』といわんばかりの幼な友だちの問いかけに、桃楼じいさんはニヤリとして応ずると、またも、さっきからの〈景教の研究〉を、わざとらしいおもおもしさで開いた。
「うん、その理由の説明のためには、もう一度、〈大秦〉という国名の問題に戻らなければならないのだがね、まあ、ここを見てくれないか」
桃楼じいさんの示す指を追って、私ものり出す。

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幻 の 拂 菻 国
さあ、ここに抜粋してある中国の歴史記事を比較してみたいんだ。ほら……〈史記〉や〈前漢書〉には、ただ黎軒という名がでてくるだけだが、〈後漢書〉や〈三国志〉からあとの記録になると、『大秦国一名黎軒』というように、大秦国が正式の呼び名になっている」
桃楼じいさんの竹帯のようなマユ毛がぐっと上がって、下から目玉がギロリと光った。
「ところがだよ、〈旧唐書〉(くとうじょ 唐滅亡から宋朝開始までの五代時代に書かれた唐の歴史害)になると、急に『拂菻国一名大秦』と変わる。そして新唐書(宋時代に書かれた唐の歴史)には、『拂菻は、いにしえの大秦なり』と、わざわざことわっている。しかも、この拂菻というよびかたは、それから、かなり
あとまで長くつづく。つまり、唐の時代を境に、中国人は大秦国を拂菻とよぶようになったんだ」
「拂菻て、どういう意味なんだ?」
博士の忍耐に対してつくづく尊敬の念がわいてくる。桃楼じいさんの、わざわざ筋みちを煩瑣にしているような話しぶりは、どんな相手だってジリジリしてくるのに……
「その答えは、またまた景教碑だがね、碑面の横にある聖職者たちの名前と肩書き――これ、『僧拂菻』とあるね、例によってその上にあるシリア文字をみると『フリム・カシサ(=フリム聖職者)と書き添えてあるだろう。このフリムは、元来、エフライムをつめたものなのだ」
「エフライム? なんだか聞いたことがあるな」
「ほら、旧約聖書に出てくるイスラエル十二部族の中の一つさ」
「ああ、ザ・ロスト・テン・トライブス(失われた十部族)か……その消えたなかの一部族だな?」
「そう。その一部族……」
「しかし、イスラエル十部族というのは、紀元前八世紀ごろ、亡びたんだろう? アッシリアだったか、にやられて。それきり失われたんじゃないのか?」
「そうなんだ。そのとおりなんだ」
「それが、なぜ紀元後七世紀になって……千三百年もしてから、突然、中国の歴史にあらわれるんだ?」
「たしかに、そこが景教、つまりシリア教会の歴史に関係する最大のミステリーなのだ。……実はね……」
「例の大秦寺が、長安に建ったのが、貞観一二年だね、その五年後の貞観一七年、唐の朝廷に拂菻王波多力が使いをよこしたという記録がある。どうもこの沸蒜王の使いが長安に来たということが、『拂菻国一名大秦』とか、『拂菻はいにしえの大秦なり』ということになった、そもそもの原因らしいのだ。……そこで、この〈拂菻王波多力〉とは、いったい何者か……まず波多力の語源だが、ど
うも、ギリシア語のパトリアケス(Patriaches)らしい。そうとすれば元来は、大種族の、族長かあるいは先祖の意味になる。ギリシャ語の旧約聖書では、アダムからノアまでをさすこともあるし、アブラハムやイサクやヤコブのことだったり、十二部族の族長をいうこともある。しかしこれが、キリスト教の時代になると、いわゆる司教の意味に使われはじめる。ことに主流派と快をわかった、キリスト教のいろいろの分派が、それぞれの最高の首長をパトリアケスとよぶようになった。
――だから、ここに出てくる波多力も、おそらく個人の名前ではなくて、ある宗派の首長のことらしく思えるのだ。……となると、すぐ連想するのは、セレウキアに本山がある景教の首長なのだが、しかし、もしそうだとすると、景教の首長が、唐の朝廷に使いを出すのに、大秦寺を通さないはずがないから、「拂菻王波多力」などという名乗りかたはしないだろうし、それに、景教流行中国碑に、この記録が、のっていない、ということも変だ」
「それで? 波多力が景教のトップではないとすれば、どうなるんだ?」
「説明ぬきで、さきに独断の結論をいうけれども、これは、キリスト教の、同じシリア教会ではあっても、本山がペルシア帝国のセレウキアにあった〈東方シリア教会〉ではなく、その当時すでにイスラム教徒に占領されていたアンティオキアに本山のあった〈西方シリア教会〉の首長から派遣された使節だったらしい。東方シリア教会が中国で大きな成果をあげているのをきいて、おくればせながら布教の足がかりを作ろうとしたのではないかと思うんだ……。
しかし、その説明をいますると、話がまた横へいってしまうから、あとまわしにしよう。とにかく複雑ないきさつがあって、この両派は同じくシリア教会でありながら、五世紀なかばから東西に分裂してしまって、それきり今日まできているのだが、にもかかわらず、ここに、まったく奇怪なことがあるんだよ」
「今夜は、どんな奇怪にも驚かないことにしよう」
「不思議の第一は、なぜ西方シリア教会のパトリアケス(首長)が、中国の朝廷に対して『拂菻王』と名乗ったか、ということ――王というのは、首長という意味を、中国側で誤訳したのかもしれないが、それにしても、なぜ、拂菻、つまりエフライムの首長と名乗ったのか? それがどうもはっきりしない。だが、ここで問題は、もっと複雑になるんだ。この〈拂菻〉という名を、西方シリア教会だけでなくて景教、つまり東方シリア教会の側でも頻繁に使っている証拠があるんだというのは、まず第一に、敦煌の洞窟から出た古い文献の中に〈尊経〉という中国語で書いた景教のエフライム経典があった。その中に〈遙拂菻(エフライム)経〉という名があるのをみても、拂菻(フリム)は、遙拂菻を略したものだ――と、はっきりしている。もっとも、〈遙拂菻経〉の場合のエフライムは人名だが、やはり敦煌から出た〈一神論〉とか〈序聡・迷詩所(エス・ミシホ)経〉(イエス・メシヤ経)というような経典にも、拂菻という字が、くりかえし出てくることだ。しかも、その場合の拂菻(エフライム)は地名で、しかも、まちがいなく、シリア地方をさしている。その証拠には『拂菻国 烏梨師釵(エルサレム)城』といった具合に、あきらかにユダヤ地方までふくんでいることさえもあるのだから」
「とすると、さっきの拂菻王波多力は、シリア地方のパトリアケス、つまりシリア教会の首長――じゃないのか?」
「たしかにそうだ。だがそうなると、さらに第三の疑問がうまれる――『東西のシリア教会の関係者が、なぜ、口をそろえてシリア地方をエフライムとよぶか?』……」
「その当時、シリア地方をエフライムと呼んだ例はほかにはないのか?」
「厳密にいうと、十二部族が仲よく共存共栄していた時代(紀元前一三世紀~前九三六)エフライム族の領地だったところは、例のサマリア地方とよばれる区域の南半分ほどが、そうだった。もっとも、ソロモン王の死後、十部族がユダ王国から分裂して、いわゆるイスラエル王国をつくってからは、その別名としてエフライムというよびかたをしている場合が、旧約聖書に時どきあるが、シリア全土(今日のシリア、レバノン、イスラエル)を、エフライムとよぶ例は、すくなくとも聖書には、まったくないといってもいい」
「とすると、もちろんユダヤ教徒は自分たちをエフライムとよぶはずがないな
……エフライムは彼らにとって仇敵だものな……」
「ギリシャ語系のキリスト教徒が、自分たちをイスラエルとよんでいる例はたびたびあるが、エフライムと自称することは、まずありえないと思う」
「じゃあ〈エフライム〉は、失われた十部族に関係あるもの以外は、使うはずがない、ということに、なるじゃないか」
「にもかかわらず、東西シリア教会が、そろって自分たちの祖国を、公然と『エフライム』と言っているということは……」
桃楼じいさんは、獲ものをうまく巣にさそいこんだクモという感じで、一瞬、不気味な笑みをもらした。
* *
「(!)」
ソフィアがなにか小さく叫んだ。鎌倉の古寺の離れは、庭がようやく、半(かた)日蔭にくまどられ、蜩(ひぐらし)の音が、三人のしばしの沈黙をきわだたせる。やがて曙生さんの声。
「やっぱり出てきた」
「……やっぱり……でてきました」
ソフィアがくりかえした。
「あのとき、丹沢山のあの先生、言ってたわね、『この本の桃楼じいさんていう人、エフライムの行方について、なにか掴んでいることがありますよ』って。ジャーナリストの勘だった……」
「はい……」
「それにしても、自分たちの〈パトリアケス〉(族長)を、『エフライムの王』とよぶ人たち……」
「そのように言う人は、彼たち以外におりますでしょうか?……〈失われた十部族〉の人びとの子どもたち以外に……」
しばらくして、立原女史は、ショートカットの髪をはげしくかき立てて、天井を見あげた。
「いま、ちょっと思ったんだけど……田道間守がもってきた奥義書ね、あれは、アラム語、ということはシリア語ね、そのアラム語で書いてあったんじゃないのかしら。だからこそ平郡真鳥は、神代文字だから誰にも解読できないということになっていた文献を、日本語に翻訳することができた。……だって、彼のお父さんの平群都久が、新羅で抑留されていた秦ひとたちを、助けに行ったんでしょう
……秦ひとたちにとって、都久は大恩人だったんだから、平群家のたのみはなんでも、いやとはいわない。……平群真鳥が大臣になったのは、雄略天皇のときからだけれど、もうそのころは、秦ひとたちも、日本語は自由だったはずだから、シリア語の〈奥義書〉を翻訳するのなんか、おやすいご用でしょう……」
「けれども……」
ソフィアが異論をはさむ。
「秦ひとたちが、もとはシリア人で、それからまた景教の信者だった、としますならば、平群真鳥のために翻訳しましたふしぎな書きものは、秦ひとが、自分たちが持っていた経典でありましたかもしれませんでしょう? 田道間守が持ってきた奥義書ではなくて……」
「それと、もう一つ、『長安の大秦寺が、はたして景教の中国管区のカテドラルだったか?』ということも、問題として残るでしょう? やっぱり……」
私もソフィアにつり込まれた感じで本音をいった。
「桃楼じいさんのその仮説がまちがっていたとして、やはりこれまでの通説どおり、大秦が中国のことではなかった、となっても、ローマ帝国でもなくて、シリア地方のことだというのは、たしかのようね。でも、大秦寺を建てた人たち、つまりシリア教会の人たちにとってその大秦というのが遙拂菻=エフライムなのだとすると、こんどは大秦寺が拂菻寺=エフライム寺ということになるでしょう?――となれば、景教徒は、ただのシリア人ではなくて、〈失われた十部族〉を代表するエフライム族の子孫だということになるし、そうなれば、日本に渡ってきた秦ひとたちも、やっぱり〈失われた十部族〉の末えいだということになるんじゃないの?」
「……もし、それならば、平群真鳥のときに日本語に翻訳されましたものも、ふつうの旧約聖書や新訳聖書ではなかったことが、考えられましょうか? ……景教の信者は、なにか、とくべつの――ふつうのクリスチャニティとはちがうバイブルを持っていたと、いうことが……」
私の方に目を移してそう言ったソフィアの視線は、私に尋ねているというより、彼女の瞳から出る光の反射に、みずから問いかけていた。
それは、あの雪の夜、桃楼じいさんが、イスラエル十部族の行方について語ったときの思い出に、私を、ふたたび帰って行かせた。
