

第三部 「救世主」から「仏陀」への道
第一章 黙示録の秘密
桃楼じいさんの暗号解読
「……『そもそもおじいちゃんが、こんな長い暗号解読法の話をはじめたのは、イエスのいう〈永遠の命の奥義〉とはなにか、ということを、探求するためだったね……』」
私が、雪の夜の追懐(ついかい)にちょっと区切りをつけ、なんとなく縁側に出ていると、思いがけないソフイァの声だった。やっと聞きとれる低声で、ゆっくりゆっくり読んでいる。会話は、うますぎて気になるほどの日本語も、さすがに朗読となると、語調の伸縮がいかにも耳新しくて、なにか未知の文章をきく感じがする。
「……『ところが、それはモーセの五書の中に、暗号でかくされている、瞑想法らしい――という答えが、一応できた。しかし、これは、あくまでも仮設にすぎない。これからさきは、新約聖書に出てくるイエスの言葉や、イエスの弟子たちが書き残した文章の一句一句と照らしあわせて、はたしてそれがこの仮設を証明することになるかどうか、吟味してみないことには、問題は解決したとはいえないのだ。そこで、その証明のためには、まず第一に』……」
ソフィアはそっと本を閉じて顔をあげた。
「……この、〈黙示録の秘密〉の中では、〈おじいちゃん〉のお話が、証明まで行っておりません。ここから、急に、別の話題になってしまいましたから……」
「あとは、自分で考えろっていうんじゃないの?……」
いつの間にか曙生さんが、なにかカクテルらしきものをこしらえてきて、配りながら言った。
「昔から、そういうところあるものね、煙に巻くのが好きなんだ。やっとのことで、これが答えだったのか、と思うと、それがつぎの謎のはじまりっていう具合でね……だからソフィアに言ったのよ。直接、会って、なにか聞いてもダメだって。聞けば聞くほど、見えてたものまで見えなくなっちゃうんだから……」
「けれども、さきほどタデコロおばさまのお話のとき、エフライムに伝わっている――のではないか、という――秘密の教えと、この本に書いてあります〈永遠の生命のための奥義〉との間には、きっと関係がある、と、わたくし考えておりました……」
席にもどった曙生さんは、まるで、手にしたグラスの液体について語るようなしぐさで、自問自答する。
「……イエスは〈永遠の生命の奥義〉を、一部の弟子には教えたらしいけど、奥義の内容については、すくなくとも福音書には書いてない――というわけでしょう? けれども、そのイエスが、自分自身でくりかえして言ってる奥義の秘密の手がかりは、新約聖書の一ばん終わりにある〈ヨハネの黙示録〉の中にかくしてあるらしい……というのが、桃楼じいさんのアイデアよね。――そして、その黙示録に出てくる六六六(一三-18)という謎の数字の意味は、『モーセの五書に書いてある文章の中から神という主語が使ってある章、もしくは節だけを拾い出して、しかも終わりからはじめに向かって逆さまに読んで行け』と、指示している暗号文だ――と、桃楼じいさんは推理した……旧約聖書という本が、ほんとうに永遠の生命に入る修行を、教えるという意図で書かれていた、としたら、その秘密を解く鍵を、誰かが、〈ヨハネの黙示録〉の中に暗号で書き込んでおいた――っていわれてみれば、いかにもありそうな話じゃない?」
「その、いかにもありそうな、というのが不安なのよ。桃楼じいさんでも読みとれた謎ときの方法を、二千年もの間、世界じゅうの人が一度も問題にしなかった、なんていうこと、考えられる? その答えが、正しいんだったら……まあ、それでも、万一? っていう気が、私にもあったものだから、そんな本にしたわけだけど、やっぱり、誰からも、ほとんど相手にされなかった、というほうが早いわね」
「桃楼じいさんのおっしやりたいこと、もしかしたら、欧米人のほうが、わかる人、いるかもしれないな、もちろんわずかだろうけれど……。日本人は幸か不幸か宗教的不寛容の問題で欧米人のように深刻な苦労しないで来たものね。宗教的自由の裏側は無関心、ということ、たしかにあると思う……」
「そのことから、わたくし、思いました。もしも、わたくしの大叔父のアブラハムがこの本〈黙示録の秘密〉を読みましたならば、多分ショックうけますでしょう。何千年もの間、苦しみ、あったのですから。宗教の問題で。……けれども、それよりも、わたくし、もっと驚きました。さきほどの、タデコロおばさまのおはなし……この〈黙示録の秘密〉の本に書いてあります永遠の命を自分のものにする奥義と、イエスが、彼の弟子にだけ、多分、秘密に伝えた奥義とが、もしも同じものであるならば、そして、その奥義が、ヨセフやヨシュアによって、エフライムの子孫に伝えられてきました、エジプトの、イクナトンの信仰であった――といたしますと……」
「それに、わたしとしては、それだけじゃないわ。もしかしたら、それは田道間守ともかかわっているかもしれないっていうことになってきたんだもの。彼がもってきた〈幻の奥義書〉と。……どうしても最後まで聞きたいわ」
「そう……やむをえません。ソフィアさんと曙生さんのために、もうすこし辛抱して〈桃楼じいさんの大法螺説法〉を、拝聴することにしますか」
私はグラスを空にしてから席に帰った。彼女たちも、あの雪の夜の中村博士の忍耐を共感すべく、せいぜいくつろいだ姿をとると、大きく息を吸った。
「耳ある者は聞くがよい」
「もう、何度もしゃべったと思うけれども、旧約聖書――中でもモーセの五書の文章のかげには、〈永遠の命の奥義〉が、かくされていたんだ……」
桃楼じいさんの眼に、古代の預言者がご神託を伝えるふんいきを想像させるような、妖しい光が走る。こういう眼は、正常の人間のものだろうか……
『ただし、その暗号の秘密を解読したのは、このおいぼれたじいさんじゃない。――二千年前の、ナザレびとイエスだった。……もっとも、その前に、暗号の鍵は、洗者ヨハネが手に入れていたのかもしれない。しかし、かりに、かりにそうだとしても、おそらく彼自身は、その鍵で謎を解くことができなかったのだろう。そのかわり彼は、自分の前に現われたイエスという青年が、自分よりはるかにすぐれた霊性を持っていることを見抜いた。だから、洗者ヨハネは、自分が秘蔵していた暗号解読のための鍵言葉が書いてある文書を、イエスに譲った。しかし、いくら霊性に恵まれているイエスだって、そう無雑作に謎が解けたわけじゃない。荒野の中での四○日の断食と瞑想が必要だったのだ。おそらく、例の六六六という鍵言葉の手がかりを掴むまでには、一○日も二○日もかかったのではなかろうか……」
「おい、ちょっと待ってくれ、その六六六の鍵っていうのは、ヨハネの黙示録の中にある、あれか? いろんなところで話題になるけれども」
「そうだ、とも言えるし、そうじゃないとも言える」
「しかしいずれにしたって、ヨハネの黙示録は、イエスが死んでからあとで書かれたんだろう?」
「現在新約聖書の中に入っているものは、たしかにそうだ。だが、その原型は、どうやらイエスが生まれる前に書かれたものらしい……残念ながら、そのことを証明する古文書は、まだみつかっていない。しかし、カバラの学者の中には、ヨハネの黙示録を、くわしく分析してみて、この本のもとになるテキストは、キリスト教がはじまる以前に、ユダヤ教徒の手によって書かれたものに相違ない、と主張している人が、どっさりいるんだ。そればかりじゃない。ルーテルをはじめとする無数のプロテスタントの聖書研究家たちが、『ヨハネの黙示録は、キリスト教徒が書いたものではない』と断定して、新約聖書の正典として入れられていることに、今日でも強硬に抗議している。……だから、洗者ヨハネから譲られたかどうかはあやしいとしても、とにかくイエスが生まれる前から、あの、ヨハネの黙示録のオリジナルは存在していたらしい……」
「じゃあ、まあ、百歩ゆずって、ヨハネの黙示録の原典はイエス以前からあった、としても、それをイエスが読んだという証拠はあるのか?」
「そのことに関連する話なんだがね、どうも初期キリスト教会の歴史には、不可解なことがありすぎるんだよ」
桃楼じいさんは、そういってまたも、相手の質問とは、関連ないような話をはじめる。
「たとえば二世紀のなかばころに、マルキオンという人物が現われた。彼は、徹底的にパウロ一辺倒の教義を説いて、『信者は.パウロの書簡と、〈ルカによる福音書〉以外のものを読むべきではない』と主張した。また、それと同じころの、モンタニウスという人物は、これまたパウロの書簡や福音書の中で説かれている〈キリスト再臨〉が、目前に迫っている、といって、信者たちに、きわめて厳格な禁欲生活をすすめた。……もしも、彼らの考えかたや行動が、それ以外に逸脱したり過激にエスカレートすることがなかったら、あるいは、後日、聖人として讃えられたかもしれないが可哀そうにマルキオンもモンタニウスも、その当時の教会当局と正面衝突した結果、異端として破門された。……それにしても、いま、ここで問題にしなければならないのは、そのことの是非ではなくて、このマルキオンやモンタニウスの事件を契機として、教会が、信者を指導するうえで、どんな対策を講じたか? ということなのだ。もちろん、それは、いろいろの紆余曲折があってのうえだが、教会は、いわゆる新約聖書の正典(カノン)なるものを制定せざるをえなくなった。ところが、なぜか、その中には、かならずしもパウロの思想とは一致しない内容のものが、相当ふくまれることになった。
……このことは、ひょっとしたら、初期のキリスト教会には、パウロが主張する教義とは別の、イエスに関する秘密の伝承があった証拠といえるかもしれない。
……ことにその臆測を深めさせるのが、〈ヨハネの黙示録〉の問題なんだ。そもそも、マルキオンやモンタニウスのような、狂信的な騒動を重ねてひき起こさないために、厳選して制定されたはずの新約聖書の正典二七冊の中へ、後世、カトリック教会以外の、ほとんどすべてのキリスト教の教派が、眉をひそめて無視しようとすることになる〈ヨハネの黙示録〉を、敢然と加えたというのは、なぜだろうか? このことには、よほどの根拠がなければならないはずだ」
「そこで桃楼じいさんは、〈ヨハネの黙示録〉というのは、一般に言われてるような、世の終末やキリストの再臨を説く、いわゆる預言書ではなくて、旧約のモーセの五書のなかから、イエスの〈神の国の奥義〉をさがし出す手引書だと推定した――そういうことだろう」
「まさにそのとおりだ。……もし、そうでなかったら、パウロたちが『過去のもの』として否定している旧約聖書を、そっくり、神聖な正典として、認める理由があるだろうか」
「じゃあ、洗者ヨハネを通じてだな、暗号解読の鍵が組み込んであった〈黙示録〉の原典が――そうだ、一応〈原典黙示録〉とでも言っておくか――その、〈原典黙示録〉が――イエスの手に渡って、しかも彼が、その謎を解くことに成功した、としよう……さてそこで、イエスはその奥義を、弟子たちに教えたのか、教えなかったのか――もし教えたとしたら、どういうふうに伝えたのか……」
「おそらくは、彼は、奥義書を書いた巻物――つまり、いま仮りによぶ〈原典黙示録〉を、一人一人に、ただ読ませただけじゃないかと思うんだ」
「そんな想像が、どこからできるんでしょう?」
「理由の第一はね、福音書の文面では、直弟子たちはあきらかに、奥義を伝授されているはずだろう? だが、どうみても、彼らが、イエスの生存中に、本格的な断食も瞑想もやった気配がない。それどころか、イエスが永遠の生命と言っている言葉の意味も、あまりわかっていないようなのだ。その反面、この世の終わりとか、神の裁きというようなことを、だいぶ気にしていたようすから判断すると彼らがイエスから伝えられた奥義というのは、具体的な瞑想のやりかたが書いてあったのではなくて、彼らが見たのは、寓意物語(アレゴリー)ふうな、書きものだったのではないか、と思うんだ」
「なるほどな……禅の公案のごとぎものだったかもしれないね」
「読んでもわからない相手に、奥義を伝えるなんていうこと、考えられるでしょうか?」
「だからイエスは、奥義の伝授を種まきにたとえて、『道ばたや岩の上や、いばらの中に蒔いても芽は出ない。そのかわり、良い土地に蒔けば、百倍の実をむすぶ』といっている(マタイ一三-3~9、マルコ四-3~9、ルカ八-5~8)ここで、共観福音書のいずれをみても、イエスが、『耳ある者は聞くがよい』と、念を押しているのが印象的だ。しかも、この『耳ある者は聞くがいい』という言葉は、〈ヨハネ黙示録〉の中の教会への手紙でも、正確に七回くり返されているんだ(二-7~三-22)」
「イエスの奥義と黙示録とは、ますます濃厚にひきあってくるな……」
「要するにイエスは、天国の楽しみをのぞんだり、地獄の責苦を怖れたりという損得ずくのヤツを相手にしていないのだ。……『わたしを主よ主よとよびながら、なぜわたしの言うことを行わないのか』(ルカ六-46、マタイ七-21)と言っているのも、まさに悲痛な本音だろう」
「言葉で祈るだけで実践しない〈敬虔な信者〉に手を焼いたか……師たる者の孤独を感じるな……しかし、それにしても、今日の世界じゅうのクリスチャンは、本当にそのイエスを神だと信じて礼拝しているのだろうか……」
中村博士は、素朴に問いかけて、しみじみと、老友の顔をみる。
第二章 すべてが一つに……
イエスは神か人か
「ユニテリアンというのがあるよね」
「ああ、キリスト教の中ではリベラルな宗派なんだろ?」
「『イエスは偉大なる教育者であり、高度な精神的指導者ではあったが、神ではなかった』と考えている……しかし、存在が知られているわりには、全世界のクリスチャンの中で、まったくの少数派なんだな」
「それだけ、イエスが神である必要は、ほとんど絶対的だということだろうか」
「ところがね、それほど信じてもいないくせに『神よ神よ』ととなえるのはやさしいが、真剣に考えぬいたうえでイエスを神として拝もうと思ったら、いろいろ困難が生じてくるというのも事実だ」
「しかし、ただ信ぜよ――こそ信仰の強さだっていうだろう」
「それはね、ユダヤ教徒や、イスラム教徒の場合は、神様が、ひとりっきりなのだからいいよ。しかしキリスト教となるとそうはいかない。なぜならば、旧約聖書では『ヤハウェという神が、唯一絶対の神である』ことを、徹底的に強調しているね。ところが、新約聖書には、ヤハウェという名の神は出て来ない。その代わり、イエスが父と呼んでいる神が存在する。では、ヤハウェと父は同じなのか、ちがうのか?……例のマルキオンは、まじめにここで悩んだのだ。パウロは『ヤハウェが制定した律法は、旧(ふる)きものとして一切無視して、キリストであるイエスだけを信仰しろ』と言っているのだから、もし、ヤハウェと父が同一だったら、〈父なる神〉の存在を無視しなければならない。もし〈父なる神〉を無視することになったら、その父なる神の子であるイエスの立場はどうなるのか?……そこで例のマルキオンは、ヤハウェという名の神は、父なる神より一段低い神だと解釈した。その結果『彼は複数の神を認めている』と非難された。
……しかも問題はそれだけじゃない。イエスを神として信仰するためには、父なる神とイエスの関係を、どう解釈したらいいのか? もし父なる神とイエスが別の存在だとすると、常識では、父は子よりも偉いんだから、『イエス・キリストを神として信仰せよ』という、パウロの教えと合わないことになる。そこでマルキオンは、イエス・キリストは父なる神の化身だと考えた。ところが、ここでまた面倒な問題にぶっつかった。イエス・キリストが、神の化身だったとなれば、人間の目には、イエスが十字架にかけられて死んだり、その後復活して昇天したかのごとく見えたが、実際は、単なる幻にすぎなかったのだ――と解釈しなければならなくなった。つまりイエスという人間は、実在しなかったことになってしまった……これが、いわゆるキリスト化身説で、マルキオンとしては、あくまでパウロの教えに忠実であろうとして、考えぬいた末に到達しえた結論なんだけれども、当時のキリスト教会から、異端として、破門されることになってしまった」
「むずかしいことになったな……しかし、自分じゃ気がつかないで、化身説で割り切ってるクリスチャンは、現代でも意外に多いんじゃないのかなあ」
「そこで今度は、キリスト養子説というのが出てくる。……〈神の化身〉が異端ならば、当然、神とイエスは別個の存在と考えなければならない。しかも、神は唯一絶対なのだから、イエスはただの人間だということになる。だが、そうなると、『ひたすらイエス・キリストの復活や再臨を信ぜよ』というパウロの教えと矛盾する。そこで『生まれた時はただの人間だったが、すべてを神に捧げきって十字架にかかって死んだ後に、神の養子となって復活して、神とひとしい力をさずけられたのだ』と解釈する。――もっとも、これには洗礼直後から養子になった――という考えかたもあるが――いずれにしても、イエスが神とひとしくなってから以後は、やっぱり神が二人できてしまうわけだ。となると、この、キリスト養子説も、多神教の一種として排撃されることになった」
「ヤハウェにしても、父なる神にしても、神があって、さらにキリストを神だといえば、神は複数だと思うのも、無理ないじゃないか?」
「それで苦しまぎれに出てきたのが、神の多面説だ。つまり、唯一の神が、あるときは父として現われ、またあるときは子として現われる、という解釈だね、神は最初、天地万物の創造者としてこの世に姿を現わし、その後モーセに律法をさずけたが、それから千数百年後に、今度は神の子であり、キリストである姿になって、世を救うために現われた。そして十字架にかけられたけれども、すぐ復活して、それから五○日たったペンテコステ(五旬節)の祭りの朝には、あらためて聖霊となって現われた――という解釈……」
「一人三役というわけだな? だいぶ苦しい理くつだね……」
「ところが、これもまた異端ときめつけられた。今度の理由は、『神そのものであるイエス・キリストが十字架にかかって死ぬのはおかしいというわけだ」
「揚げ足のとりあいできりがないじゃないか」
「だから言ったろう、キリスト教の世界では、『イエスは神だ』ということを、迂闊には主張できないのだって」
「結局、どうなるんだ?」
「そこで、教会の指導的地位にあった人々が、長年にわたって激論を闘わしたあげく、やっとたどりついたのが、いわゆる〈三位一体〉の教義だ。『父も神、子も神、聖霊も神、ただし、それは三つの神ではなくて、唯一つの神である』とね」
「それを、クリスチャンは、どういうふうに納得して、イエスを拝んでいるんだろう」
「この三位一体の教義、確立されたのは、一五○○年以上も前だけれども、いまだに、何のことかさっぱりわからない、というクリスチャンもすぐなくない。いや『わからない』だけじゃなくて、例のユニテリアンなどは、頭から『そんなことはありえない』と否定している」
「はた目には、そのほうが、すっきりしてるな」
「しかし、イエスの言葉に真剣に耳を傾けて、『創世記の中に秘められている、自己が宇宙と一体化して永遠の生命を得るための瞑想』をやって、つきぬけた人なら、『父と子と聖霊は一体だ』という実感が、ごく自然に湧いてくるはずだ。だって、イエスが万人に伝えたかった奥義は、まさしく『子が父と完全に一致するだけでなく、全宇宙のすべてのものが神と一つになること』(ヨハネ一
○-30、一六-15、一七-10、20、21、23参照)なのだから、そして、それは、何度もくりかえすけれども、ヨハネの黙示録にかくされてある鍵言葉にしたがって、モーセの五書の暗号文を解読していけば、明確にわかることなのだ。
……ところが、新約聖書をとびとびに読んで、終末だの、最後の審判だの、天国だの地獄だの、ということばかり気にしていると、『人間としてのイエスと神とのつながりに、どうけじめをつけたらいいのか』などという、愚にもつかない疑問が湧き出してくる。
……そのために、四世紀から五世紀へかけてのキリスト教の世界では、イエスを神であると断定する反面、『彼の人間性を、どう理解したらいいのか?』という問題で、あらためて激しい論争が、際限なく続くことになった。そして、その最終的なクライマックスが、例のネストリウス追放事件(四三一)だ」
「中国に伝わった景教は、そのネストリウスの残党だ、というのが定説なんだろう?」
「そもそもネストリウス派が、本当に異端かどうか? という点については、一五○○年も前から、いろいろの風説が取沙汰されているけれども、要するに、その時代の教区間の勢力争いの結果、強いていえば『イエスの人間性にこだわったネストリウス派』が、『イエスの神性を、より重視するグループ』に破れて、ローマ帝国領内のキリスト教会の世界にいられなくなったために、例のアラム語で押し通していたシリア教会の中に亡命してきた――というだけの話だ」
「だったら……きみのさっきの話じゃ、そのネストリウス派なるものが入ってくる前に、シリア教会には四○○年ちかい歴史があったはずだろう? サマリアでイエスの教えが、爆発的にひろまってからの……」(使徒行伝八-4以下)
「そこなんだよ。中国の、いわゆる〈大秦景教〉の内容を、それほどふかく調べもしないで、頭から景教をネストリウス派ときめつけるなんて、ナンセンスきわまる話だが、その景教とはなんぞや、を知るためには、まず、本来のシリア教の真髄を把えなければならないんだ」
桃楼じいさんの声が、フォルテッシモになって、すでに雪に厚くつつまれている草庵の中を旋回した。博士は、この老友が、たとえ月が西から昇るといっても、オレだけはそうだといってやろうという感じで、ニコニコしている。
見て、聞いて、触れた
「初期キリスト教会の歴史をはじめて書いた人は――福音書や使徒行伝は別として――カエサリア(パレスティナ)の司教エウセピウス(二六○~三四○)だといわれているけれども、彼の著書の中に、まことに奇怪な物語がでてくるんだ。
……というのは、イエスが活躍していた時代に、オスロエネという国が、当時のアラム語圏内にあって、そこにアブガル五世(BC四~五○)という王様がいた」
「オスロエネって、どのへんにあったんですか?」
私は地図を取り出してきて聞いた。
「シリア高原の北西部、今日のトルコとシリアの国境地帯にまたがる、せまい地域だ。その首府のエデッサは、現在ではトルコ領のウルファにあたる」
「トルコ領の……ウルファ……ああ、ありました」
「そのへんは、ローマ帝国とパルチア王国(安息国、のちのペルシア帝国)の間にはさまれているうえに、シルクロードの中継駅だったから、両大国の緩衝地帯として、紀元前二世紀から三五○年間ほど、小さいながらも独立国の体裁を保つことができたのだ。……そこのアブガル五世は、大体イエスと同年輩だったらしいが、ひどい難病で苦しんでいたところへ、イエスの噂を耳にした。そこでイエスに手紙を送って、『自分の領土内での布教を認めるから、エデッサにきて自分の病気を治してくれ』るように頼んだ。それに対してイエスは、『自分は行くわけにいかないが、弟子の一人を送ろう』という返事を書いた。……そういういきさつから、イエスの死後、十二使徒の一人のトマスは、師の遺言によって、例の〈七十二人の弟子〉(ルカ一○-1参照)の中から、アダイをえらんでアブガル王のところへ派遣した。そこでアダイは、エデッサに行ってまず王の病気を治してからオスロエネ国内に、イエスの教えを説いてまわった――というんだ……しかし、西欧のキリスト教研究家たちは、この伝説を、なぜか極力否定している。『そんなに早くから、イエスの教えが、使徒行伝に出てくる地域以外にまで伝わっているはずがない』といって。……しかしね、その首府のエデッサで、かなり早い時期から、アラム語によるイエスの教えがうけ入れられていたのは事実らしい。そこでは、アラム語による神学校や附属の医学校などが開かれていて、〈シリアのアテネ〉とうたわれていた。……それでシリア教会の伝承では、初代の創設者をトマス、二代をアダイ…と数えて、例のネストリウス事件後に、そのまきぞえをくったエデッサのシリア教会の人びとが、ローマ皇帝の圧力にたえかねて、ペルシア帝国内へ亡命して、正式に〈シリア教会〉の独立を宣言したときの総大司教(パトリアーク Patriarch)は、第二三代目にあたる、としている(四九六~四九八)」
「その初代トマスというのは、あれか? 『すべて証拠がないと信用しない
Doubting Thomas(ダウティング トマス)』のことか?」
「うん、そう、イエスが死んでから復活したという噂が広まって、猫も杓子も『イエスに出会った』と言い出した。そのとき一二使徒のトマスだけが、『わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』と言った(ヨハネ二○-24~25)……」
「だけど、そこへ復活したイエスが現われたんだろう? そして『見ずして信ずる者は幸いなり』といった……キリスト教の説教で、ただ信ぜよというときは、かならず出てくる話だな。……ぼくなんか、昔からダウティング・トマスだから、話だけで信ずるわけにはいかないがね……」
「じゃあ、いま、ここに、イエスという人物が現われて、『あなたの指をここにつけて、この傷あとをみなさい』と言ったら、君、その男を信ずるか?」
「おそらくは信じないね、そのことで、その人間が、偉大なる宗教者である証明にはならないからな」
「としたら、そんな薄弱な根拠を、それがあればイエスの復活を信ずるといったトマスを、ダウティング・トマスなんて、疑いぶかい人間の代表扱いするのは、おかしいと思わないか?」
「また、妙にからむようなことを言い出したな?……しかし福音書の筆者としては、その話を使って、きわめて単純に、『見ずして信ずる者は幸いなり』を強調したかったんじゃないのか?」
「しかし、〈ヨハネ〉の著者は、そんな単純な考えかたをしていた、とは思えないんだよ」
「なにか、別の意味が、あるっていうのか? この記事の裏に……」
「〈ヨハネの第一の手紙〉(--1)を読んでみよう。もちろん、この手紙を書いた人と、福音書や黙示録の著者は別人だろう。しかし、お互いに共通する語彙を豊富に使っているところをみると、いわば、〈ヨハネ派〉とでもよぶべきグループの一員だったと思うんだが……この手紙の劈頭(へきとう)に、初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について……』と書いてある。……このいのちの言とは、真理=ロゴス(ヨハネ福音書--1)であり、光であり、要するにイエスそのものを指しているのだが、では、そのイエスを、なぜ、『わしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく手でさわったもの』と、強調する必要があったのだろうか……」
「直接の弟子と間接的信者とのちがいを鮮明にする宣言、という感じも、うけるね」
「じつはね、そのすこし先に、『彼らは、わたしたちから出て行った』という言葉が、書いてあるんだ」
「なにかトラブルがあったのか」
「その時の状況が、一応この〈手紙〉にも書いてあるが、事実はどうも、そんななまやさしい問題ではなかったようだ」
「……というと?」
「この〈手紙〉が書かれたころ―― 一世紀の終わりから二世紀にかけてのころは、まだ例のマルキオンやモンタニウスは姿を現わしていなかったが、最後の審判だの、天国だの地獄だのと騒ぎたてる狂信者に圧倒されて、〈ヨハネ派〉は風前の灯だった――のではなかろうか? だからこそ、あの、〈ヨハネの黙示録〉のような、難解な謎の書をのこす必要があったのだ」
「あの……それでも結局、教会が、そのマルキオンやモンタニウスというような狂信者を排除して、少数意見だった〈ヨハネ〉のほうの関係文書も、正典として採用したんでしょう? 新約聖書の……そのことは、どういう意味になるんですか?」
「そこなんだよ。まえにも言ったと思うが、いわゆる正統教会の中に、はっきりした筋金が、一本通っている証拠だ――とおじいちゃんが確信するのは……ただし、それは、今日でもなお少数意見であって、いわゆる大衆からは、そんなものが存在することさえ問題にされてない状態だがね」
「となると、ヨハネの福音書に登場する例の〈疑いぶかいトマス〉が、『よく手でさわってみなければ』といったのは、イエスから直接伝授された奥義のことだったんだろうか?」
「そうだ。彼こそ〈ヨハネ派〉のチャンピオンなんだ。それだから、シリア教会では、そのトマスを、初代の創立者と仰いでいるのだ」
「そこで、トマスからシリア教会に伝わったイエスの奥義は、そのあと中国の景教を経由して、七世紀の日本に伝来したかもしれない――わけだな」
「ところが、その景教なるしろものが、どうにも一筋縄ではいかない、厄介きわまる曲者ときているんだ……」
第三章 大秦寺僧景浄
アブラクサスは365
「この大秦景教流行中国碑についての謎は、いろいろ残っているわけだが、まず、この碑文を書いた景浄という人物――洗礼名がアダムで副司教で、同時に、中国管区の管区長だったらしい……ところまでは、おさえてみたわけだが、一体、彼がどこの国の人間なのかについては、いろいろの説があるのだけれども、碑文の終わりのほうにシリア語で、これを構文したのは、タホリスタンの首府バルクからきた聖職者ミリスの子 イズブヂット である』ということが書いてある。景浄の名はアダムなのにイズブヂットであるというのは難点だが、洗礼名のほかに別名があってもおかしくはないから、これはパスするとしよう。……そこで、この碑文の第一行目の、『景浄述』という文字と符合する点から、あえて彼を、タホリスタン人、と仮定してみよう」
「タホリスタンというのも、やはり国の名前ですか?」
「いまのアフガニスタンの北部にあったオアシス国家だった。ヒンズークシ山脈のはずれにあって、シルクロードが、ここで中国とインドにわかれる重要地点だ。アレクサンダー大王が死んでから、シルクロードの沿道にできたギリシャ系国家の中では、東の端で、インドと中国にいちばん近い、バクトリアとも大夏とも、吐火羅(トカラ)ともよばれたところだ。そのころの中国人の中には、この辺一帯――インドの西北部までの、広い意味でのバクトリアを、大秦と思い込んでいた人もあったらしい。たとえば有名な『ミリンダ王の問い』というパーリ語の経典の中国語訳(〈那先比丘経〉なせんびくきょう)の中では、『ギリシャ系王国」という意味で〈大秦〉という文字が使われているんだ。―― 一方、日本書紀には、斎明天皇の三年(六五七)に都貨邏(吐火羅)の人間が、筑紫に漂着したことが書いてある。……とにかく、僧景浄の出身地が、タホリスタン(吐火羅)のバルク(薄羅)だとしたら、おそらく彼は、ただのシリア人ではなくて、中国人やインド人やペルシア人の血がまじった、複雑な文化の継承者だったろうと想像される」
「景浄すなわちアダムか、彼は自分で書けたんだな? 漢文の碑文を……」
「どうもそうらしい――というのはね、この碑が建った翌年(七八二)に、北インド生まれの般若三蔵という坊さんが中国にやってきた。彼はまず手始めに『大乗理趣六波羅密多経』という経典をサンスクリット本から中国語に翻訳したいと思ったが、まだ中国語が自由にならなくているところへ、大秦寺の景浄という波斯僧(ペルシァ人の聖職者)を紹介されたので、胡本(ペルシア語の本)の〈六波羅密多経〉をテキストにして、二人で中国語に訳した――ということが、ある中国人の坊さん(西明寺円照)が書いた本(貞元新釈教目録)に出てくるんだ」
「そのとおりならば、景浄はペルシア人ということになるね」
「ただし、そのころの中国人は、西域からきた外国人を、無差別に波斯人といっているから、かならずしもペルシア人とはかぎらないわけだが……しかし、ここで、より重大なことは、その当時の胡本、つまりペルシア語の仏教の経典が存在していた事実がはっきりしたこと、それと、景浄が、ともかくも、それを中国語に翻訳できる人物だったということ……そのほかにも、敦煌で発見された景教の中国語経典のなかに、彼が書いたと伝えられるものが二つほど―― 一つは一○行たらずの断片(宣言本経)だけれども、もう一つの〈志玄安楽経〉というのは、ほとんど完全に残っているんだ。……しかし、ちょっと気になるのは、景教碑にしても、志玄安楽経にしても、道教の影響が大きい感じが、誰の日にも否定できないこと――用語だけでなくて、思想そのものがね。――『ことによったら、中国人の道教の学者が、景浄のかわりに文章を書いたのではないか?』という説さえあるくらいなのだ。しかし、逆から見れば、景浄の思想そのものに道教との共通点が多かった――と解釈できないこともない」
「大体、排他的なはずのキリスト教徒としては、めずらしいことじゃないのか? そういう、他宗 教とのかかわりかたっていうのは……」
「問題は、それが、景浄個人の傾向だったのか、それとも中国の景教、つまり東方シリア教会の本質とかかわることなのか、ということだが……とにかく景教の、碑文と経典を念入りに調べると、あとからあとから奇妙なことが現われてくるんだね、……たとえば例の碑文と、それと一○行たらずの断片(宣言本経)だけれども、もう一つの〈志玄安楽経〉というのは、ほとんど完全に残っている
んだ。……しかし、ちょっと気になるのは、景教碑にしても、志玄安楽経にしても、道教の影響が大きい感じが、誰の日にも否定できないこと――用語だけでなくて、思想そのものがね。――『ことによったら、中国人の道教の学者が、景浄のかわりに文章を書いたのではないか?』という説さえ、あるくらいなのだ。しかし、逆から見れば、景浄の思想そのものに道教との共通点が多かった――と解釈できないこともない」
「大体、排他的なはずのキリスト教徒としては、めずらしいことじゃないのか? そういう、他宗教とのかかわりかたっていうのは……」
「問題は、それが、景浄個人の傾向だったのか、それとも中国の景教、つまり東方シリア教会の本質とかかわることなのか、ということだが……とにかく景教の、碑文と経典を念入りに調べると、あとからあとから奇妙なことが現われてくるんだね、……たとえば例の碑文と、それと一○行たらずの断片しか残っていない宣元本経の中にも、『三百六十五種』という不可解な言葉が出てくるのだが、それを、この〈景教の研究〉の著者の佐伯氏は、『バジリデスが説いたアブラクサスのことだろう』と推測している」
「バジリデスのアブラクサスってなんだ?」
「バジリデスは、二世紀なかばごろに、エジプトのアレキサンドリアで活躍した人物でね、ペテロの通訳だったグロシアスから、特別の秘伝を伝えられた、とも、あるいは例の裏切りのユダが死んでからのちに、一三番目の使徒としてえらばれたマッテヤ(使徒行伝一-26参照)から、イエスの奥義そのものを伝授された、ともいわれている」
「とすると、きみが言うところの『原典黙示録の謎解きができた人間』だ、という可能性もあるか?」
「うん、あるいはね……とにかく一世紀の後半から二世紀のはじめごろにかけて、いたるところで、『イエスが直弟子に伝えた奥義とは、神を知る霊的神秘体験の問題であって、単純に救世主を信仰さえすればいいというものではない』と唱える者が、どんどん出はじめたんだ」
「それ、いわゆる〈グノーシス〉ってよばれてる連中じゃないのか?」
「グノーシスっていうギリシャ語は、元来〈知識〉の意味なんだね、だから、初期のキリスト教会では、最も重要なカリキュラムになっていたのを、いわゆる非主流派が、『自分たちのほうに、そのグノーシスの真随がある』と強く言い出したから、正統派としてはやむをえず、グノーシスの代わりに、〈神学(テオロジー)〉の名称を使うことになった。その結果、やがてグノーシスは異端の代名詞のようになった……」
「当然、バジリデスも異端分子だな」
「彼は著書もかなり多かったし弟子もおおぜいいたらしいのだが、正統派が、それを根気よく絶滅して、著書も徹底的に抹殺した――今日では、バジリデスの教義を正確に掴むのは不可能になってしまった。しかし、なぜか、彼が弟子に教えたという呪文だけが、世に残っている、それが、問題のアブラクサス……」
「呪文とはね……なんの目的の?」
「バジリデスの一派が根絶やしになったあとも、アブラクサスの呪文だけは、ヨーロッパの庶民の間で迷信的に使われて、そういう名前の神様が信仰されたり、病気なおしのおまもりになったり、あげくは、今日、手品師が、『アブラカタプラ!』って唱えるね、あれもアブラクサスが訛ったものだといわれている。……しかし、元来は、パジリデスの奥義の暗号だっていうんだ」
「また暗号か」
「All the world is a Cipher (オール ザ ワールド イズ ア サイファ) だ」
「まったく、きみの手にかかると、『世の中すべて秘密暗号文』になっちゃうんだな」
「ABRAKSAS ね、これをギリシャ文字で数字の置きかえをやると、A=1、
B=2、R=100、Ks=60、S=200、だから、合計は三六五になる」
「なるほど、それが景教碑の三百六十五種と符合するというのか」
「かならずしも研究家の定説になっているわけじゃないが、しかし、いまはまだ、それ以上合理的な解釈は、発見されていないようだ」
「それで? その三六五が意味しているものは、何なんだ?」
「いわゆるグノーシス派の考えかたからするとね、この世のすべての存在のはじめ――それを神とよんだり父とよんだりするわけだが、――『われわれは、そこから生まれてきた分身であって、全存在は兄弟であるのに、それを忘れて、小さな自己にとらわれた欲望や対立に悩まされている。われわれは、父なる神の故郷へ帰って、神と一体になる幸せを、とり戻さなければならない。それには、本来一つであるものが、分裂して争いあうことになってしまった現在までの筋道を、なぜ、なぜと、克明に辿りなおしてみなければならない』――という考えは、すべてのグノーシス派に共通するけれども、その分裂の過程にどんなものが、どんな順序で……となると、流派によって解釈がちがってくる。その中で、バジリデスは『原初の絶対的存在である神から、一段一段と遠ざかる層が厚くなって、ついには三六五番目の、最も知恵の乏しい世界にある現在の自己にまで離れてきて
しまった』――という仮設を立てたらしい。といっても、彼自身の著書が残っていないのだから、当時の対立者たちの誹謗的な記録から割り出した、後世の推論にすぎない。したがって、景浄の〈三百六十五種〉が、バジリデスのアブラクサスだったとしても、それが、はたして東方シリア教会の教義と、どう結びつくかの研究は、これから、まだまだ紆余曲折を経ていきそうだ」
「グノーシスって、どこか仏教的な感じもするな」
「じつはね、ヨーロッパの学者の中には、『バジリデスのアブラクサスの思想は、仏教からヒントを得た、と考えられる』といっている人が、あるくらいなんだ。たとえば、お墓や塔婆の五輪ね、あれは地水火風空を現わしたもので、宇宙の原理を五つの属性で示しているのだが、サンスクリットで発音すると、アバラハキャ、中国風の書きかただと、阿縛羅詞怯(アバラカキヤ)となるんだ」
「なるほど、アブラクサスに似てるか」
「そのほかにも、いろんな説があるのだが、いずれも臆測(おくそく)の域を出ていないんだ」
「それにしても、東方シリア教会の教義やイエスの奥義というのは、どうやら仏教にまでかかわってきそうじゃないか」
バルラームとヨサファットの物語
「なにしろね、紀元一世紀の終わりごろからエジプトのアレクサンドリアには、すでにインド人の居留地があったといわれている。というのは、一世紀のなかば以降は、アラビア海の季節風が、夏と冬では逆に吹くというのがわかったから、アレクサンドリアとインドの海上貿易が、飛躍的に伸びてきた。当然宗教、哲学の交流が、思想、人物ともにあったと推測する歴史学者もあるわけだ」
「あれだけの貿易が興隆した時代に、相互の影響は、当然あっただろうな」
「そのことと、いくぶん関係があるんだが、キリスト教の歴史のなかに、じつに意外な事件があるんだよ……むかしむかしインドのある国にキリスト教が大きらいな王様がいた。ところがヨサファットという名の王子が誕生した日に、星占い者が現われて、『この王子の名声は、この世でなく、天国で賞讃されるだろう』と予言した。王様は心配の余り、王子が王宮の外へは一歩も出られないようにして、歓楽のかぎりをつくさせたのだが、王子は、偶然の機会に病人や.死者を見てしまって、この世が、いかに苦難に満ちた、はかないものであるか、と煩悶(はんもん)する。そこへ、バルラームというキリスト教の隠者がたずねてきて、王子にイエスの教えを伝えて、洗礼をさずけてしまう。国王は、王子の心を変えさせるためにあらゆる手をつくすが、すべて失敗して、結局、自身もキリスト教に帰依する。国王が死ぬと王子は一応あとをつぐが、すぐ退位して荒野に隠棲するバルラームをたずねて、あらためて弟子入りして、生涯そこで一緒にくらす。この二人が死んだ跡に建てられた寺院は、この国一ばんの聖地として讃えられ、数かずの奇蹟が起こった、と、いまなお伝えられている……」
「釈迦の生涯に似てるな」
「この話ね、そもそもこのバルラームというのは、サンスクリットで世尊(天の恵みを持つ、神聖な、尊敬すべき)の意味の Bhagavat(バガヴアット)が訛ったものだし、ヨサファットは菩薩(さとりを求める者)Bodisattva が訛ったものらしいんだよ」
「洗礼をさずけたキリスト教の隠者の名が世尊で、王子の名が菩薩か……一体どこの国でできた話なんだ?」
「それが問題なんだよ。とにかく、この話は、一三世紀のなかばごろには、ヨーロッパのキリスト教の世界では、すでに疑う余地のない実話として、通用していたらしいんだ。その証拠には、その当時、イタリアのジェノヴァのヤコブス大司教が書いた『聖人伝集』に、この話がのっている。もっとも、この本にある〈聖人〉なるものの全員が、今日、正式に教会から認められているわけではないが、とにかくそれ以来、ローマンカトリックの世界では、この〈バルラームとヨサファットの両聖人〉の祝日は、一一月二七日ということになっているし、グリークカトリックでは、ヨサファットが単独に、八月二六日に祝われる習慣が、ずっと長いことつづいていたのだ」
「いた? いまはないのか」
「それがね、一九世紀の後半に入ってから『これはまぎれもない、仏伝の焼き直しだ』という説をとなえる学者が現われて、大さわぎになった。そこで研究家たちが、『一体、どこから、こんな間違いが出てきたのか?』と、起源を探究しはじめた。その結果、ラテン語の〈聖人伝集〉のもとになった〈ギリシャ語のバルラームとヨサファットの物語〉は、 二世紀ごろに、ギリシャのアトス山で書かれたもので、その前をたどると、九世紀以前にはアラビア語で書いてあった。そして、さらにその前は、ペルシア語、厳密にいうとパルチア王国やササン朝ペルシア帝国時代の古語をアラム(シリア)文字で書いたパフラヴィ語で書かれたものだったらしい……というところまでわかってきた……」
「ちょっと待ってくれ、きみさっき、『景浄の時代に、ペルシア語で書いた仏教の経典があった』と言ったね、それは、そのパフラヴィ語か?」
「もちろん、そうだ。元来、古代のぺルシア語とインドのサンスクリットとは、単語も発音も文法も、まったく同じと言っていいほど、似てるんだが、それを書きあらわす文字が、全然ちがうんだ。――サンスクリットは非常に正確な表音文字だが、一方、パフラヴィ語なるものは、古代ペルシア語の文章の一語一語を、わざわざアラム語(シリア語)の文字になおして書き綴って、しかもそれをペルシア語で読む――というやりかただった。つまり表音文字としてでなく、表意文字としてね」
「シリア語だって元来は、表音文字だろう? それを表意文字として、とは、どういうことだ?」
「たとえば古代ペルシア語のhač(英語のfrom)をパフラヴィ語では、わざわざアラム語のMNと書くんだ。本来、アラム語ではそれ(MN)をminと発音するのだが、古代ペルシアの知識人は、『hač』と、ぺルシア語に翻訳しながら読むわけだ」
「なんだか日本語を漢字で書いていた表記方法に似ているな……それもとくに、古事記や万葉の……」
「うん、古事記の著者が、『ついにさけびなきてしににき』という日本語を、わざわざ『遂叫哭死也』と書いたようにね、もっとも、たいてい漢字自体が、表意文字だけれど。……とにかく、操作が非常に面倒だから、このパフラヴィ語をもっぱら使ったのは、ゾロアスター教の聖職者や、高級官僚のインテリたちだ。しかし、東方シリア教会の聖職者も、エデッサからペルシァ帝国内に亡命してきた当初、聖書などの翻訳は、パフラヴィ語で綴っている。それと同時に仏教の経典も、かなり早い時期から、パフラヴィ語で書かれていたらしいんだ」
「そうすると、パフラヴィ語の仏伝をよんで、それをキリスト者の聖人伝に翻案してさらにそれをシリア文字を使ったパフラヴィ語で書きあげた人物……それはもちろんキリスト教徒、となれば、これは、もう、東方シリア教会の聖職者にしぼられてきそうだな」
「それも、九世紀には、すでにアラビア語に訳されているのだから、大体八世紀以前の、ということになる」
「景教中国碑が建ったのが、八世紀末だったな? そうすると、菩薩と仏陀をキリスト教の聖人に仕立てなおした張本人は、かの景浄だったかもしれないな」
「現に景浄が書いたと伝えられている、中国語の景教の経典では、イエスのことを、必ず〈世尊〉といっているんだ。だから例の物語の著者が、景浄だったかもしれないということは、充分にありうるのだが、かりにそれが景浄でなかったとすると、キリスト教以外の宗教と、かなり自由に接触して、相互に啓発しあっていた人物が、景教では、むしろ景浄ひとりにかぎらない、ということが、証明されると思うんだ」
「その話を聞いて、思い出したことがあるよ!」
博士の上体が、グイと前へのり出した。
『それは偶然の一致です』
「さっきの、いろは歌のつづきなんだがね……」
「とがなくて死す、ですか」
「いや、それよりも、そのいろは歌のもとの、仏教そのものが、キリスト教と関係があるっていう話だよ。さっきも言ったけれど、ぼくが学生のころ、牧野富太郎先生のお供をして植物採集旅行してたときね、植物名の由来を研究してる老僧がいて、その着眼が鋭いんだよね。その点が牧野先生も面白いと思ったらしいんだ。ところがこの坊さん、興がのってくると仏教の話になっちゃってね、そうなると、こっちは全然興味がないんだ。たまに面白そうなところだけとびとびに憶(おぼ)えていたんだが、法華経だったよ、たしかに。なんでも、聖書とそっくりの文句が書いてあるっていうんだ。しかも、その老僧の親友だった男が、その問題をあくまで追究しようとして、本山からだか師匠からだか破門されたらしいんだな。結局、苦労したために若死したとも言っていたよ」
「その、そっくりの文句というのは、法華経の、従地涌出品のことじゃないのか?」
「そうなると、もうまるっきり憶えてないんだ。しかし法華経だったことはたしかだ。そのころでも、法華経っていう名前は知ってたから」
「それが従地涌出品の話だとしたらね、釈迦が、法華経の教えについてくわしく説明したあげくに、弟子たちに向かって『自分の死後、この教えを、ひろく全宇宙にひろめてくれ』という。それをきいて、よその仏国土――地球以外の世界という想定だね――からきたおおぜいの菩薩たちが、『もしお許しがあれば、自分たちが、この裟婆世界で法華経を宣布しましょう』という。すると釈迦は『自分の死後、この地球上で宣教する者は、前々から用意してある』と答える。そのとたんに、今までに一度も見かけたことのない無数の菩薩たちが、地下からぞくぞくと現われてくる。釈迦はその菩薩たちを指さして、『彼らこそ、この地球上の人びとに法華経の真髄を伝えるために大昔から特別に私が育ててきた者たちである』と紹介する。それまで、自分たちだけが仏弟子だと思っていた連中が、ビックリして釈迦にたずねる。『この菩薩たちは、どう見てもお釈迦様がお生まれになるずっと前から、修行を重ねてきたとしか思えないような風格の人たちばかりなのに、この世でお教えをはじめられてから四○年ほどしかたっていないお釈迦様が、こんな菩薩たちをお弟子だといわれるのは、まるで二五歳の青年が、一○○歳の老人をわが子だというようなものではありませんか……』とね、……そこで釈迦は、『私は四○年前に悟りを開いて仏陀になったのではない。じつ
は、数えきれない年月の以前から、仏陀なのだ』と答える。ここが、如来寿量品といって、従地涌出品の菩薩の質問にすぐつづいている章で、『法華経のクライマックス』といわれる部分なのだ。……ところが、これとよく似た話が、ヨハネ福音書(八-57)に出てくるんだよ……」
「……『もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう』とイエスがいう。それを聞いたユダヤ人たちが、『自分の教えを守る者は永遠の命を得られるなどと高言するあなたは、われわれの先祖のアブラハムよりも、えらいつもりなのか』とつめよる。するとイエスは、『あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見てよろこんだ』と答える。そこでユダヤ人たちはいよいよあきれて『あなたはまだ五○歳にもならないのにアブラハムを見たのか』と潮笑すると、イエスは平然として、『アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのだ』と宣言した――と、福音書には書いてある(ヨハネ八-51以下)。……この、『自分はこの世の初めから存在するのだ』というのは、イエスの、父なる神と一体であるという実体験であって、自分の言動は、父なる神の言動と同じなのだ。このことが理解できる者は永遠の命を得られるが、父と子が親子であると同時に完全に一身同体だということの意味がわからない者は、永遠の命を得ることができないのだ……と、ユダヤ人の群集に向かって、イエスはくどくどと説明しているんだ(ヨハネ福音書八章参照)。
そこで、もう一度、福音書と法華経を比較してみるとだね、福音書では、『アブラハムの生まれる前からわたしはいるのである』と言っているだけだが、法華経では、『我、仏を得てよりこのかた、経たるところの諸(もろもろ)の劫数(こうしゅ)、無量百千万億載阿僧祗(さいあそうぎ 無量の年月)なり。常に法を説いて無数億の衆生を教化して仏道に入らしむ』(妙法蓮華経如来寿量品)と言っている。ところが釈迦の弟子たちにしてもユダヤ人たちにしても、現在、生き身の釈迦、生き身のイエスを目の前にして、その意味が、どうにも理解できなかった。ユダヤ人たちは『あなたはまだ五○歳にもならないのに……』と言うし、釈迦の弟子たちは『たとえば少壮の人、年始めて二十五なる云々』という。
……これは、たまたま表現が似ているだけじゃないんだ。両方を細かに調べていけばいくほど、言わんとしていることが、まったく同じだ、とわかってくる」
「はっきり重なりすぎるのが、かえって問題にするのをタブーにさせるんだな
……しかし、その意志は、どんなところから出てくるものであるのか、だ……」
「この問題では、この桃楼じいさんにもすぐなからず強烈な思い出があるんだ。もう、五、六○年前だけれども、その当時、法華経の研究では学僧の中でも指折りの大家で、――君も、きっと知っている名前のはずだが、やっぱり誰というのは憚(はばか)っておくよ――その大先生とたまたま個人的に会う機会があった。――そのとき、 なにげなく日ごろの疑問を聞いてみたんだ。『法華経のなかに、福音書の文章と酷似しているところがありますが……』って。ところが、その先生、それまでじつに機嫌よく応待してくれていたのだが、その瞬間、ほとんど顔色が変わってね、ものすごい早口でどなったんだ。『それは偶然の一致です!』って……あの剣幕には驚いたよ。こっちは、わけがわからないままで恐縮しきって、それでもなんとか話題を換えることができたんだが……あとになって考えても、どうにもふしぎなんだ。だってそうだろう? 『似たところがありますね』と言っただけで、従地涌出品とも如来寿量品とも言ったわけじゃない、ヨハネと言ったわけでもないのに、どうして『それは偶然の一致です』と断定できるんだ?」
「そんなことがあったとしても、それは偶然の一致でしょう……という意味だったんじゃないんですか?」
「そうとしたら、なにも顔色を変えて、声をふるわせて、そんなセリフを、言う必要があると思うか?」
「さすが、もと演出家は、観察がちがうね、だが、たしかに、なにかあるな
……」
「そうだろう? 『それは偶然』という以上、それがなんであるのかを、大先生は知っていたはずだ。しかも、偶然の一致にすぎない、と確信しているなら、にっこり笑ってその説明をしてくれればいいわけだ。なにも、いきなりどなることはない」
「そういえば、法華経の問題で破門された坊さんがあった、という話をぼくが聞いたのも、きみが偶然の一致ですってどなられたのも、大体同じころになるわけだな……」
「あら、それこそ偶然の一致でしょう」
「そうは言えないね、二人ともおなじ年で、そのとき、その問題に強い印象を持ったればこそ、それから何十年後の今夜、期せずしてその話題が、ここに出ているのだから。……それにしても中村君は専門の生物学に没頭していたから、そのあと長年、忘れていたけれども、こちらは、宗教とは何ぞや、が、いつときも頭を離れなかったものだから、ずっと印象が強烈なままだった。……それからというもの、よし、それなら、自分で調べてみよう! と決心してね、とりあえず法華経と、ヨハネによる福音書だけでなく、ついでにマタイ、マルコ、ルカの共観福音書もいっしょに、克明にくらべはじめた、というわけなんだ。――そうしたら、どうだ、とうてい、偶然の一致なんていって澄ましてはいられない問題が、続々と顔を見せてきたではないか……」
第四章 インドに渡ったトマス
聖書と仏典は双子か
「『はじめに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった』という名文句――誰でも知ってるヨハネ福音書の書き出しだが。この〈言〉――
ギリシャ語のロゴスね、これは、いろいろの意味あいで、新約のいろんな所にでてくるけれども(使徒行伝一一-22噂、一五-6問題、一八-23決算、ペテロ第一、三-15弁解等々)、なぜかここでは、とくに、〈この世のはじめから神と一身同体であるイエス〉を指している。そのうえ、この〈言〉は、〈光〉という別名を持っているんだ(--4、八-12、一二-35以下、参照)。――そしてこの〈光〉、すなわちイエスについての証しをするために登場する人物が、例の洗者ヨハネ……ところが面白いことに、法華経の場合も、釈迦の眉間(みけん)から一条の光明が発射して、全世界を照らすところから、物語がはじまる。しかし、それが、なにを意味しているのかが、わからなくて、凡人たちが不思議がっていると、そこへ、洗者ヨハネと同じ役目の文殊菩薩が現われて、『この光明は、これから釈迦が最高の真理を万人に説きあかす前兆なのだ』と解説する。……つまりヨハネによる福音書も法華経も、救世主の出現を暗示する場面が発端になっている。それなら、クライマックスは? となれば〈ヨハネ福音書〉は、最後の晩さんで、イエスが、あの長い別れの説教をするところ(一三章~一七章)と言っていいだろう。――ところが法華経は、これまた釈迦が、この世を去るにあたって、最後に伝える奥義だということになっている(序品、見宝塔品)。しかも福音書では、イエスがいよいよ最後の説教をはじめようという直前に、いきなり、あの裏切り者といわれるユダが、席を立って行ってしまうし(ヨハネ一三-30)法華経のほうも、釈迦の説法がはじまる間ぎわに、『増上慢の弟子』五千人がなんの断りもなく突然立ちあがって出て行く(方便品、ヨハネ第一の手紙二-19も参照)。……それはさておき、どの福音書にも、『イエスは、直弟子には天国の奥義を伝えたが、一般大衆には譬えでしか語らなかった』ということが、例外なく出てくる(マタイ一六、マルコ四、ルカ八‐9、ヨハネ一六-25)。ところが法華経では――釈迦が弟子たちに向かって、過去四五年間、真実の奥義を語らなかった理由として、彼らの理解力が熟していなかったから、あらゆる譬え話によって説かなければならなかったのだ、ということを懇切に説明する(方便品)。
では、イエスの奥義とは、なになのか。――イエス(子)と、神(父)とが、一つであるように、この世のすべてのものが神と一つになること(ヨハネ一七-11、21、22、23)だと言っているし、一方、法華経では、釈迦が、『われ、もと誓願を立て、一切の衆生をして我の如く等しくして、異ることなからしめんと欲せり』(方便品)と説いている」
「〈ヨハネ〉と〈法華経〉は、二卵性双生児という観があるね」
「そうかと思うとね、共観福音書の中にだって、法華経とそっくりの物語が出てくる。たとえば、マタイによる福音書(二○-1〜16)の葡萄園の労働者の話。――朝はやく仕事をもらった人は一日じゅう働かされた。ところが、ひるごろからの者は、それから半日だけ、そして夕方になって雇われた者は、ほんの少ししか働かなかったのに、経営者は賃金をみな同じに払った。そこで、朝から汗だくで働いた者は、一時間しか働かなかった者が、自分と同じ賃金をもらったことに、不平を言った。しかし経営者の答えは『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ』……イエスは、この譬え話を弟子たちにして、さらに『あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう』とつけ足した……と福音書にはある」
「葡萄園の経営者はもちろん〈神様〉だろうが、『あとの者は先になり云々』は、わかるようでわかりにくいな」
「親鴬の『善入なおもて往生す いわんや悪人をや』と同じようなことでしょうか?」
「この話は、現代の教会でも、説教する人によって解釈がいろいろあるようだけれども、法華経の譬諭品を一緒に読むと、じつによくわかるんだ。……ある大金持の家が火事になった。その家の中には、彼の子供たちが遊んでいて出て来ない。そこで、その金持は、子供たちに向かって、『家の外に、牛の車、山羊の車、鹿の車が並べてある、早い者勝ちで好きなのを取れ』と叫ぶ。子供たち
は先を争ってとび出してくる。そのとき、金持が、どの子にどの車を与えたか、――彼の与えたのは到着順に関係なしに、全員に、最上等の牛の車だった……この物語に対して、釈迦が、弟子たちに解説したのは『仏教の奥義は、すべてのものが仏陀になる、これ一つだ。しかし我欲(エゴ)の世界に住んでいる一般の大衆にいきなりそんな大理想を示したら、ビックリして誰もよりつかない。そこでまず、誰にも納得できる低次元の目標(鹿車、山羊車=極楽、悟りなど)を示して、一歩一歩導いてきた。だが、わたしの教えの窮極の目標は、全存在と一体化する、言いかえれば、自分自身が、この世のはじめから仏陀であったという自覚に到達すること、これこそが、全人類の〈父〉である〈私〉が、すべての〈わが子〉に教えたい奥義である……というわけだ」
「働く時間は、最初から問題外だった。雇用契約は、全員に最高の賃金を与えんがための手段だった――それならわかるね」
「……ついでにもう一つ挙げると、これも〈マタイ〉の中の(五-45~48)、いわゆる〈山上の垂訓〉の一節だ――『天の父は悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる
……だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』という有名な言葉があるね、ところが、法華経の薬草諭品には、『われは……貴賎・上下と、持戒と毀戒と、威儀具足せると具足せざると、正見・邪見と、利根・鈍根とに等しく法雨を降らして、しかも懈倦(けけん)なし』とある。この章で、鳩摩羅什(タマラジュウ)が訳した〈妙法蓮華経〉の漢文には、雨を降らせることだけしか書いてないが、サンスクリットの原典には、このすぐあとに、『如来は人びとの指導にあたっては、あたかも太陽と月の光が、すべての世間を照らして、善行の者にも悪行の者にも、また上にいる者にも下にいる者にも、また芳香を放つ者と悪臭を放つ者とを問わず、いかなる所でも一様に光を照らしてむらがないのと同じである』という一節がつづいているんだ。……しかもね、法華経の場合の太陽や雨は、あらゆるものに対して公平であるというだけでなくて、そのエネルギーは無限で、それを利用する者の能力次第では、どんなに大きくも活用することができること、そして同じように、真理も、求める人間のほうに、熱烈な探求心があればあるほど、無限に深遠な姿を現わすものだ――と言っているんだ」
「似てるというより、福音書の内容が、いままでより、ずっと深みを持ってくる感じだ」
「この程度の類似を、一いち取り出していたら、きりがないんだ。……ひとまず、さっきの〈ヨハネ〉に戻って、最後の晩さんのイエスの説教を聞いてみよう……『今わたしは、わたしを遣わされたかたのところへ行こうとしている。
……わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主は来ないであろう……』(一六-5~7、⦅22~24参照⦆)これは、イエスの死後に、聖霊が降ることを預言している言葉だと、一般に理解されているわけだが、それにしても、『わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ』とは、どういうことか? どこまでも弟子たちと一緒にいてくれることより、行ってしまうことが、なぜいいのか?
――それから、もし、イエス自身が、再び戻ってくるとしたら、それは、いつのことなのか?……当然、わいてくるいくつもの疑問を、法華経では、あらかじめ予想して、はっきり答えているんだ(如来寿量品)。――昔、非常にすぐれた医者がいた。彼の子供たちが、誤って毒をのんだので、医師はすぐに起死回生の妙薬を調合して与えたが、子供たちの中に、薬をのもうとしないのがいる。『名医である父親がそばにいる以上、薬なんか服まなくたって大丈夫だ』と思いこんで、油断しているというわけだ。そこで父親は一計を案じて、遠国へ出かけ、『父は旅先で死んだ』と伝えさせる。子供たちは、そのショックで忽然とめざめて、すぐに父の置いて行った薬をのんだために幸うじて命をとりとめる。その報告をきいた父親は、これでよしと、帰ってきた――つまり、仏陀は常住不滅であるからといって、気をゆるしているなまけ者を覚めさせるために〈人間釈迦〉は死ななければならないが、釈迦がのこした教えに従って修行して、奥義に至った者の前には、〈仏陀としての釈迦〉が、光り輝く姿を現わす……」
「これは、偶然の一致と思えというほうがムリのようだぞ……しかし、ほんとうに、この二つの古典が関連があるというのなら、法華経と福音書は、どっちが先に出来て、いつ、どうやって、一方に影響を与えたんだろうね」
マラバルのクリスチャン
「中国語訳の法華経は『如是我聞――かくのごとくわれききき』――という言葉からはじまる。ここで我と言っているのは、いつも釈迦の側近にいた阿難(アーナンダ)で、彼が直接、見、聞きしたことを、釈迦の死後、記憶がうすれない間に、くわしく書きとめたのが、この法華経だ――というのが、近年までの、一般的な通念だった。現在でも、そう思っている人が、かなりいるかもしれない。そうなると――釈迦が死んだのが紀元前四八五年――あるいは三八三年、この両説があるわけだが、とにかく、『法華経は、福音書より、四、五百年も前からあった』ということになる。ところが、徳川時代に富永仲基(なかもと)の〈大乗非仏説〉なるものが現われた。彼は大阪の商家生まれの町儒者だったが、『法華経をはじめとする、いわゆる大乗仏教関係の経典は、すべて後世の人の創作によるものであって、釈迦の説法を書きとめたものではない』と断定して、〈出定後語〉という本を書いた。しかし彼はその翌年、三十歳そこそこの若さで病死した。その当時の仏教嫌いの、たとえば本居宣長とか平田篤胤などは、彼の説を大歓迎したらしいが、仏教関係者は、まったく歯牙にかけなかった。しかし、明治に入ってからは、少しずつ、富永仲基説が正しかったことを、証明する人が出はじめた」
「ヨーロッパの聖書批判学が出はじめたのも、そのころではありませんか」
「それが、だ、ジャン・アストリックという老人医者が、『旧約聖書には納得のいかないところがある』ということを、匿名で、おそるおそる本にしたのが、一七五三年、日本で〈出定後語〉が出版されてから八年後だし、そのアストリックに刺激されて、ドイツのウェルハウゼンが、『旧約聖書のモーセの五書は、神が語ったのではない』と主張して、『聖書批判学のダーウィン』といわれたのはそのあと、さらに百数十年たってからのことなのだ。しかも、いまや二十世紀も終わらんとする今日でも、『聖書の言葉は、すべて神の言葉である」と主張する、いわゆるファンダメンタリストは、欧米世界では、まず、圧倒的多数を占めている現状だ」
「日本の仏教界は、現在は、大乗非仏説肯定か?」
「そもそも大乗仏教なるものが、仏教の中の一派として台頭してきたのは、紀元前一世紀だとも、あるいは紀元後一世紀だともいわれているが、ともかくそのころに、それまでの仏教とははなはだしく変わった教義を説く教団が、忽然として現われた――ということはいまや否定できないんだよ」
「突然というのは、面白いね」
「大乗の経典は大体、般若経系のものが一ばん早くて、それから維摩経、法華経、華厳経などが現われて、少しおくれてから無量寿経や阿弥陀経などが、まとめあげられた――といわれている。成立した時期が一ばん古い般若経などは、紀元前一世紀までさかのぼる――という意見が、もっとも有力のようだ。……しかしね、いわゆる初期の大乗経典の中には、紀元五○年ごろから書きはじめられた――と推定されるものが、意外に多い……」
「……その時代になにか両期的なことが起こったのか?」
「そこで例の、福音書との関係が問題になる……」
「ということは、誰か、紀元五○年ごろか、それより前に、キリスト教をインドに持ってきた人間が、いるんだな?」
「ここで、もう一度、シリア教会の開祖といわれている、十二使徒の一人のトマスに登場してもらわなければならない。彼は〈ヨハネによる福音書〉の終わりにちかいところで、(二○-24~29)〈疑いぶかいトマス〉として書かれているのが最後で、それ以降は、新約聖書のどこにも姿を現わさない。ところが、シリア教会には、〈トマス行伝〉という文書が伝わっていて、トマスが、イエスの死後、インドに渡って伝導して殉教したことが、くわしく物語られている。そのあらすじは、イエスの死後、使徒たちが集まって、くじびきで各自の伝導さきをきめた。トマスは、インド方面をうけもつことになる。たまたまそこへ、グンダファルというインドの王様から、『宮殿を建てる技師を探してきてくれ』と頼まれたという、貿易商人が現われる。その機会を利用して、トマスは大胆にも、建築家になりすまして、グンダファル王の国へ出かけて行く。王様は西の国からはるばるやってきたトマスを信用して、莫大な費用を前渡しする。ところがトマスは、それをことごとく王様の名で貧しい者に分配してしまった。王様はあとでそれを知って激怒して、トマスを死刑にしようとしたとぎ、急病で死んだ王様の弟が、息を吹きかえしたと思うと、意外な話をした。『自分が天国へ行ったら素晴らしい宮殿があったので、そこに住みたいと望んだところ、これはグンダファル王が建てた宮殿だから、ほかの者を住まわせるわけにいかない』と断られた、というんだ。その話を聞いて翻然(ほんぜん)と悟った王様は、心からトマスに帰依したので、その国はすべてイエスの教えに従うようになった。そこでトマスは、さらにインド全土に布教しようと旅をつづけ、最後にマツダイという王の国で殉教した……大体、こんな話なのだが、欧米のキリスト教関係者は、今日でもほとんどが、『これは非キリスト教徒(たとえばグノーシス派の人間か、マニ教徒など)がつくりあげたフィクションであって、その時期にインドでキリスト教が布教された事実はありえない』と断言する。
……ところがね、パキスタン北部のペシャワール地方で発見された碑文や、いろんなところから出てきた貨幣などからわかったことは、紀元一九年ごろから四五年ごろにかけて、インドの北西部のタキシラを首府として、ガンダーラや、アフガニスタンのカブールあたりに君臨していたパルティア系の王様の名が、ゴンドファレスで、貨幣などに彫られているインド名はグトファラだった「イエスが死んだのは、何年だった?」
「いろいろ説があるが、二八年か二九年ということになっているね、大体」
「トマスのインド布教が、イエスの死の直後とすれば、そのゴンドファレスと時間は合うんだな?」
「しかし、『虚構の物語をこしらえあげる場合に、歴史上の実在人物を登場させるのは常套手段で、そんなことはトマスが本当にインドで布教した証拠にはなら
ない』というのが、〈トマス行伝〉を否定する側の言い分だ」
「聖書の伝説をすべて事実とするクリスチャンが、もし同じ立場でいうのなら、その実証主義は少々矛盾だな」
「ところがね、一方では、終始一貫、トマスのインド布教を事実だと主張している人たちが、今日でもインドにおおぜい、いるんだよ……
インド西南のはずれにマラバル海岸というところがあるね、あの、ケララ州 ――住民の二五パーセントがクリスチャンで、これはインド全体のクリスチャン
の三分の一にあたるそうだ。といっても、ここの多くは、カトリックでもない、プロテスタントでもない、といえばすぐ、それとお察しの、いわゆるシリア教会。……現在では西方シリア教会と結びついているけれども、本来は西だの東だのという区別があったわけではない。彼らとしては、『自分たちは、そんな区別よりはるか以前の、イエスが死んだ直後からの、トマスの直系だ』と確信しているわけだ。それで『聖トマスの教会』と自称しているのを、なぜかヨーロッパのキリスト教関係者は、もっぱら潮笑的な意味で〈マラバルのクリスチャン〉とよぶ」
「マラバル海岸に、トマスの足あとは、あるんだろう?」
「『トマスはマラバル海岸に、七つの教会を建てた』と言ってるんだ。そして現在、彼らの教会の本部があるコッタヤムは、その中の一つだ、と」
「トマスの殉教も、そこか?」
「いや、そのころのマラバル海岸には、かなり大きなディァスポラ(ユダヤ人の居留民地)があったはずだから、むしろトマスは大歓迎されたのではないか、と思う。なぜかというと、その当時、マラバル海岸にコショウや綿布を買い付けるアレクサンドリアの貿易商が、殺到していたから、その中には、ユダヤ人ばかりではなく、例のサマリアびとも、相当にいたはずだ。なにしろ一時は、ローマの守備兵さえ駐屯していたことがあるくらいだから、ギリシャ語やアラム語も流通していたようだ――となれば、トマスがこの地方で、短時日の間に大ぜいの信者を誕生させて、その子孫がいまも残っているlという可能性は、考えられないことではない……」
「トマスは、マラバル地方で伝導に成功して、さらに移動したのか」
「いわゆるマラバルのクリスチャンの伝承では、トマスはそれから、インド大陸の南端を迂回して、東のベンガル湾に出て、今日のマドラス市の南部にあるミラブルという所まで行った。そこの王様に殺されたのが、紀元五三年ということになっている。そこに現在でも、トマスゆかりのサントメという地名や、殉教した山だという〈聖トマス山〉というのもあって、〈聖トマスの教会〉にとっての、大切な聖地になっている」
「それでも、トマスの存在は、否定されるんだな?」
「〈マラバルのクリスチャン〉をにせものだという人たちの言い分というのは、『彼らの祖先はインドのカースト制度で賎民とされている人びとの一部だった。ところが、一四九八年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが、喜望峰を廻ってマラバル海岸のカリカットという港についてから以後に、周囲の高級カーストからの迫害をのがれるために、キリスト教徒に改宗したのだが、その後、勝手にトマスの直系などと言い出して、正統の教会から離れて行ったものにすぎない』というわけだ。しかし、当時のポルトガル人の記録によると、彼らが、はじめてマラバル海岸についたとき、『そこに、ローマ法王の存在を知らず、そのうえ、紀元四五一年に開かれたカルケドンの公会議のことも知らないクリスチャンがいて、シリア語(アラム語)で、キリスト教の儀式をおこなっていたことが、本国に報告されている。ところで、この四五一年のカルケドンの公会議というのは、例のネストリウスが異端の宣告をうけたエフェソスの公会議(四三一)から二○年後のことで、この会議でネストリウス派とは正反対の立場にあったキリスト単位説(キリストの神性を人間性に優先させる説)までも否定されたために、この決議に憤慨した、いわゆる西方シリア教会が、味方のコプト教会やアルメニア教会とともに、正統派から分離するきっかけになった、有名な公会議なのだ」
「四五一年の公会議さえも知らないということは、そのマラバルのクリスチャンのパイオニアが、四五一年より前に、インドに渡っていた一つの証拠になるんだな?」
「そこで今度はあらためて、『四五一年の公会議を知らないクリスチャンならば、四三一年に追放されたネストリウスの残党に相違ない――とすれば、マラバルのクリスチャンの先祖は正統なキリスト教徒とはみとめられない』ということになった。……じつはね、『東方シリア教会は(その中に、もちろん景教もふくめて)ネストリウス派の残党だ』と断言される理由の一つは、そこにもあるのだが……。しかし、この断定のしかたにも無理がある。なぜなら、なるほどネストリウスが追放されたのは四三一年だが、ネストリウス事件のまきぞえを食った東方シリア教会の人たちが、ローマ帝国の領土から外へ亡命したのは、最終的には四八九年で、一方、ペルシア帝国内で東方シリア教会が独立したのは、四九六年から四九八年にかけてのことだ。……したがって、もし彼らがネストリゥス派の残党だったとしても、ローマ法王の存在も、カルケドンの会議も知らない、などということは、ありえない。……ということは、この〈マラバルのクリスチャン〉の先祖は、ネストリゥス事件よりずっと前から、インドにいた、と考えなければならない。そのうえに、『四世紀の後半に、トマスの遺骨を、インドから移して、例のオスロエネの首府のエデッサに葬った』という言い伝えが、エデッサにあるんだ。となると、東方シリア教会の独立より一○○年も前に、エデッサのクリスチャン、つまり初期シリア教会の人びとは、インドにおけるトマスの伝導を信じていたことになる。……それもそのはずで、かの〈トマスの行伝〉なるものが、シリア地方のどこか――多分エデッサで、まとめられたのはおそくとも三世紀なかば以前と言われているのだ……」
「なにがなんでも、トマスの伝導は事実無根だとしたい理由は、なになんだ?」
「ネストリウス以前に、トマスを開祖とするシリア教会なるものが存在していたとなると、ヨーロッパに伝わるパウロ系のキリスト教の教義以外に、ひょっとしたらイエス直伝の、別の教えがあったかもしれないことになる。だが、もし、そんなことになったら、もっぱらパウロの書簡を尺度として組み立てられてきた従来のキリスト教の基本概念に、なんらかの修正を加える必要がおこらないともかぎらない。しかしそれは、伝統的な保守派にとっては、到底たえられないことだ」
「じゃあ百歩ゆずって、〈マラバルのクリスチャン〉はネストリウスの残党だとして、そのうえ、彼らは、六世紀以後にインドへ渡ってきたものならば、法華経が、福音書と瓜二つという問題は、どうなる?」
「その場合はへたをすると、『キリスト教は、大乗仏教の影響をうけている』ということを、キリスト教自身、認める羽目になりかねない……」
「いずれにせよ、簡単に結論を出せる問題ではなさそうだな、それにしても、もしトマスがインドへ出かけたのが紀元五○年以前だったとしたら、そのころパウロの書簡や福音書が、もうできていただろうかね」
シルクロードの豪商たち
「その問題は急所だ。トマスがインドに来たのが事実だったとしても、『だから法華経の原型が福音書だ』ということにはならない」
「もしかしたらトマスより後の人が、――卜マスの弟子である何びとかが――、一世紀の終わりか、二世紀のはじめごろに、福音書を持ってインドへきたということはないでしょうか」
「たしかに一つの仮設ではあるが、それでは少しおそすぎるんだ。法華経はともかくとして、般若経の一部や維摩経などは、一世紀の終わりには、すでにあったらしい。しかも、イエスの思想に似ているのは、法華経だけではない。般若経も維摩経も、その真髄は、イエスが秘かに説いている奥義と、まったく同一だ」
「となると、新約聖書がさきか、大乗経典がさきかの問題じゃないな?……それ以前に、共通のなにかがあったと考えなければならないわけだろう」
「あの、グノーシス派は?」
「それも、後日、小さく枝わかれした一つにすぎない」
「……そうか! なるほど。……すべて桃楼じいさんがいう〈幻の奥義書〉につながるんだ……エジプトからの……」
「イクナトンからヨシュアを通じてエフライム族に伝わったものを、さらに預言者のホセアやエレミヤやイザヤたちが大切に護(まも)ってきた、なにかがあった……と、大乗経典を読んでいると、なんとなく見えてくる」
「しかし、もし、その〈源流〉が、インドにも流れこんできたとした場合、それを、それまでにあった仏教の世界のシチュエーションになぞらえて新しい仏教のテキストとして作りかえたわけだろう――そんな仕事は、誰がしたのかね、トマスだということは、ありうるか?」
「いや、トマスはおそらく、夢にも、そんなことは思わなかったろう。なぜなら、万一彼にそんな意図があったのなら、例のマラバル海岸に、大乗仏教発祥の地としての、痕跡が、残っていなければならないはずだ」
「その代わり、ガンダーラ地方が、仏教美術の発祥地になっているでしょう? 最初にトマスに帰依した王様だという、グンダファルにゆかりの……」
「うん、……おそらくガンダーラ地方は、仏教美術だけでなく、大乗経典の誕生にとっても、因縁浅からぬ土地であるに相違ない」
「となると、ぼう大な大乗経典を、短期間に創作した大天才がいたのか? ガンダーラ地方の住人、覆面の大宗教家が……なにしろ仏教の中に大乗が忽然と現われたんだろう?」
「その謎を解く鍵の一つとして、大乗経典の用語の問題がある。大乗仏教とは対立の立場にある南方仏教が主張しているところでは、釈迦は弟子たちに、自分の教えを、バラモン(祭司階級)たちが使っているサンスクリットで伝えることを禁じた、というんだ。だから南方仏教の経典は、すべて、一地方の俗語であるパーリ語で綴られてある。ただし、実際に釈迦が使った言葉というのは、パーリ語とはすこしちがう、マガタ語だったといわれるんだが、なぜか、紀元一世紀ごろの南方仏教徒は、パーリ語が正統だと考えていたようだ。……それはともかく、不思議なことに、大乗経典はすべて、釈迦が禁じたというサンスクリットで書かれてあって、パーリ語が使ってある例がない。これはいったい、なにを意味しているのだろうか?」
「釈迦の直系であることを誇る、いわゆる上座部仏教に対して、批判的なバラモンが書いたんじゃないのか?」
「ところがね、初期の大乗経典で使われている用語には、一種独特の癖や訛りがあって、あの当時の生粋のインドの教養人が書いたサンスクリットとは、あきらかにちがうんだ」
「じゃあ大乗仏教の経典を書いたのは、インド人じゃないっていうことか?」
「そこでまたもや、途方もない臆測だが……」
「仮設の飛躍は大発見の一大条件だ」
「その臆測はね……『大乗経典の用語は、最初、サンスクリットではなかった』ということだ」
『それは、アラム語だった』なんていうんじゃないだろうね」
「たとえば、中国、日本で一ばん親しまれている『妙法蓮華経』……これは、五世紀はじめに鳩摩羅什(クマラジユウ)が訳したものだが、そのテキストは、彼の祖国のクッチャの文字で書かれていたもので、サンスクリットではなかった、という言い伝えがあるんだ(添品妙法蓮華経の序文参照)。……考えてみる
と、これはちょっと気になる話だ。鳩摩羅什の母親は、クッチャ国(シルクロードのオアシス国家の一つ)の国王の妹だったが、父親はインド人で、鳩摩羅什自身、インドに留学して仏教を勉強したんだから、サンスクリットで書かれた法華経の存在を、知らないはずはないのに、なぜ、サンスクリット本を、中国語訳のテキストに使わなかったか?……」
「羅什が妙法蓮華経を訳す以前から、シルクロードの沿線では、サンスクリット以外の言語(たとえば問題のクッチャ語)による大乗経典が流布していたんじゃないのか?」
「そこなんだ、問題は。――ただし、そのとき彼が使ったテキストが、はたして、クッチャ国独特の国語だったかどうかは疑問だ。なにしろ羅什が使った原典なるものは、現物が残っていないのだから、強いことは言えないが、さっき言ったパルティア(安息国のちのペルシア)の知識人たちが使っていた、パフラヴィ語か、もしくは、その変形だったのではないだろうか?」
「そのパフラヴィ語というのは、大秦寺の景浄が、仏教の経典(六波羅密多経)を訳すときに使ったテキストというのが、そうだったな?」
「そう、元来は、パルティアの外交文書や、ゾロアスター教の教典にもっぱら使われていたのが、その後、シリア系の貿易商たちが、だんだんシルクロードの国々にひろめて行ったものらしい……」
「文字はアラム語――つまりシリア語で、読むときはパルティア語――つまり古代ペルシア語という面倒なやつだったな」
「そこで、もう一度、トマスの問題に戻るとね、かりにトマスが、イエスの教えの奥義に関する文献を持ってきたとすると、おそらくその大部分は、アラム語だったろう。しかし、万一、その中にギリシャ語なり、へブライ語なりの文献があったとしても、彼がそれをアラム語に翻訳した場合、もし、そこに、パフラヴィ語ができる人がいたら、その文章を、そのままで、スラスラとパルティア語(古代ペルシア語)で読めるわけだ――ちょうど、日本人が、中国語をまるで知らなくても、いわゆる漢文を、スラスラと日本語として読めるようにね。……しかも、そのパルティア語を、いわゆる梵字で書きとれば、今度は簡単にサンスクリットの文章にもなってしまう。なにしろパルティア語とサンスクリットとは、書きあらわす文字こそ、まったく違うが、声を出して読むかぎりでは、単語も文法もほとんど同じなのだから。ただし、ほんの少し発音の計りはあるけれども
……」
「トマスをインドに聘(よ)んだゴンドファレス王は、パルティア系だっていってたな?――とすれば、彼のまわりの知識人たちは、みんな、パフラヴィ語、使っていただろうね、。……もし大乗経典が、ゴンドファレスのガンダーラ地方にはじまった、ということになれば、用語がパフラヴィ語だった可能性もあるわけだ。……しかもそれを改めて梵字に書き直したために、少々変なサンスクリットの大乗経典が誕生した……という想定か」
「そこで焦点をさらにしぼって、当時のインドで最も進歩的で自由な精神の持ち主――世界の宗教が、本質的には一つだという確信があって、そのうえ、パフラヴィ語はもちろん、アラム語もサンスクリットも達者に使えるコスモポリタンは誰だろうか.lそれ婆ラモンでもなければクシャトリア(軍人王侯階級)でもない、おそらくはヴァイシャ(平民階級)出身の商人、その中の、とくにシルクロードで活躍していた貿易商人だったはずだ――そのころ彼らが、どのくらい実力があったかは、法華経(信解品)にでてくる大金持の物語の中で、その豪壮な邸宅を見た貧乏人が、このあるじは国王か大臣かと驚いたり、その金持の死期が近づいたとき、国王や大臣までが、枕もとに集まってくる、という描写からも想像できる。それから〈維摩経〉の主人公のヴィマラキルティーは、ガンジス河の中流にあるヴァイシャリーという自由都市に住む大金持だが、もちろん彼も貿易商だったに相違ない。しかも彼、ただの金持ではなくて、釈迦が、『この世で最大の求道者(菩薩)』とよぶほどの悟りの境地に達していて、釈迦の高弟であるいわゆる宗教の専門家たちを、片っ端から、徹底的にやりこめて発奮をうながす――といっても、このヴィマラキルティーは、多分、架空の人物だね。しかし、そのモデルとなった人物は(つまりこの世のあらゆる富や歓楽には飽き果てて、真理を求めることだけに全力を傾けていた)このような、大貿易商人というのは、実在していたのかもしれない。……その証拠は、この維摩経より少し前にまとめられたといわれている八千頌般若(はっせんじゅはんにゃ)経というお経の主要人物は、一応、釈迦とその弟子たち、ということになっているけれども、もちろん、それはフィクションで、その説教の最後にでてくる物語では、この世で最も深遠な〈智慧の完成〉(般若波羅密多)の奥義を彫った黄金の板が、七つの封印をほどこした宝石づくめの櫃の中に納められて、遠い東のはての、金色燦然たる都市に住むダルモードガダという〈在家の菩薩〉の邸宅の、中央に安置されている――と書いてある。どうやら、この在家の菩薩も、シルクロードの大貿易商を、想定しているような気がするんだ」
「あら?〈エレミヤが、ネボ山にかくした契約の櫃〉と、ヨハネの黙示録に出てくる〈七つの封印をした巻物〉が、いっしょになっているような話ですね」
「そればかりじゃない。トマスをインドに連れてきたのも、貿易商人だったろう、これも、なにかを暗示している感じだ。問題の男は、貿易船の船長だったかもしれないが、その背後に、とびきり進歩的な思想を持った、大財閥の巨頭がいたかもしれない。……たとえば維摩経や般若経に登場するような」
「それじゃ、もしかしたら、エフライム族に伝わる幻の奥義書が、その人たちの手に渡っていた、なんていうことだって、なぎにしもあらず……でしょうか」
ナグ・ハマディの発掘
「いま言った八千頌般若経ね、これは大乗経典のうちでも、最も初期のものの一つといわれているのだが、その中で釈迦が、奇妙なことを言っているんだ――『自分の死後、五百年たつと、いま、わたしの説いているこの教え(般若経の教え)が、インドの南の方から伝わりはじめて、やがて東の方にひろまり、さらに北の地方へ流布するだろう』という予言だ。実際には、この般若経は釈迦が死んで五○○年にあたるころ書かれたのだが……そしてこの流布のルーツについても異本ごとにちがっているが、『南に始まって最後は北方へ』という点は、すべて一致している。そこから、従来の仏教学者の中には、『大乗仏教は、南インドのアンドラ王国あたりで発生したのではないか』という説もある。この説にもかなり根拠があるのだが、もしも、この八千頌般若経の記述が、〈般若経の原典がインドに伝来したコース〉を、逆に予言の形で暗示していると考えてみたら、どうだろう」
「〈お釈迦さまの説法〉が外来したと、あからさまに言えないから――ですか?」
「その当時の、エジプトからきた貿易商たちは、アラビア海を横切ってマラバル海岸につくと、今度はインド大陸に沿って北上してインダス河に入って東へさかのぼる。それが、さらに中流からガンダーラ地方へ北上する……これはこじつけすぎると思うかもしれないが、もし、大乗仏典の原典が、はるか西の国から海をわたってインドに運ばれたものだとすれば、八千頌般若経の最後で、『この世でもっとも深遠な奥義(知恵の完成――般若波羅密多)の経典は、今や世界の東のはての、黄金の都の大貿易商の邸内に秘蔵されてある』と、ことさらに強調しているのが、無意味ではなくなってくる……」
「と、なるとだね、般若経にしても維摩経にしても、それから法華経にしても、それらはあるぼう大な教典の一部分を、それぞれ抜粋して翻案したにすぎないものであって、本来の奥義書の最も本質的な部分――つまり奥義中の奥義だな――は、まだ、どこかにそっくりしまわれている、という解釈だって、できそうだ。桃楼じいさん流に推理すれば」
「そのことだけれども、いわゆる初期の大乗経典が、次々と世に現われはじめたころ、最初は、一般からあまり相手にされなかったらしい。なにしろ、それまでの上座部仏教の教義とはあまりにも異質である理論を、いかにもS・F的な構想で展開するのだから、その当時の大衆の耳には、ただの幻想物語としか聞こえなかったかもしれない。ところが、二世紀のなかばすぎてから――三世紀とする説もあるが――南インドに、ナーガールジュナ(龍樹)という、まさに空前絶後の偉大なる仏教学者が現われて、大乗経典、とくに般若の思想に関する、鋭い、しかも精級をきわめた解説書を著した。じつは、中国やチベット、朝鮮、日本が、大乗仏教を信ずるようになったのは、この、ナーガールジュナのすぐれた註釈を通して、深遠な教理を理解できたおかげだといっても、言いすぎでないはずだ。それにしても、ナーガールジュナは、一体どうやって、そのような、並はずれた能力を身につけたのか? となると、ふしぎなことに、それが、まったく謎なのだ。ヒマラヤの山中で、仙人から大乗教義の奥義をさずかった、とか、竜宮へ行って、七つの宝蔵の中の櫃に封じこめられてあった奥義書を発見した、とか、伝説はいろいろあっても、とりとめのないものばかりだ。そこで、『ナーガールジュナこそ、大乗経典の原作者ではないか?』と想像する人さえある。しかしナーガールジュナは、どう見積っても二世紀半ばより前の人物ではないこと、そして彼の書いた論文の用語は、いずれも正確な標準サンスクリットで、いわゆる初期大乗経典に特有の癖がないという点からも、彼が、般若経や維摩経の作者だということは、ありえないだろう。しかし、さっき君が言ったように、まだ世に現われていなかった大乗仏典の根源というべき奥義が、どこかにかくされてあったのを、ナーガールジュナが、さがしあてた、ということは、充分、ありうることだね」
「竜宮へ行った、というのは、アレクサンドリアあたりか……」
「もちろん、そう考えられないこともない。ただし、ほとんどの仏教学者が、『とんでもない見当ちがいだ』といって憤慨するだろうけれども」
「『同一根源であるはずがない』……か?」
「大乗仏教の中心になっている思想は空だ。『なにものにも執着せず』『いかなる固定観念にもとらわれず』……ところで、この思想を、どこまでも拡大していくと『菩提(さとり)も煩悩(まよい)も仏も魔も、善も悪も一つであって区別はない』ということになる。そして最後には、『ありとあらゆる存在に仏性(仏となる可能性)がある』ことになる。それにしても、この思想を、大乗経典の うた しょうまんぎよう ねはんぎよう中ではっきりと謳(うた)いあげたのは、三世紀から四世紀にかけて現われた如来蔵経や、勝鬘経(しょうまんぎょう)や涅槃経(ねはんぎょう)だったわけだが、しかし、ここまでくると、『これはまったく仏教独特の境地で、西欧の宗教にも哲学にも、そんな思想はない』と、大ていの仏教学者が断言する」
「東は東、西は西……だな」
「じつはね、この桃楼じいさんも、若いころは、ほんとうにそうだと思いこんでいたよね……ところが三○年ほど前、うん、第二次大戦が終わった年の暮れに、エジプトで、とんでもないものが出てきた。――ナイル河のほとりの、ナグ・ハマディという町に近い、山沿いの崖で、一人のアラブ人の農夫が、素焼きの壷を掘りあてた。――一メートルばかりの。その中から、一三冊のパピルス本に書かれた、五二編の、コプト語の古文書が出てきた。しかし、それが公開されて、一般人が読めるようになったのは、ごく最近のことなんだ。――その中に、〈トマスによる福音書〉というのがある。それを、はじめて見たとき、われをわすれてアッ! と叫んでしまった。……」
「ホウ…桃楼じいさんでも驚くことがあるんだな」
「そのわけは……ああ、その前に、さっき言った『すべての衆生に成仏の可能性がある』という考えかたね、これを、はじめて具体的に説いたものとして有名な、如来蔵経のことを話す必要があるな……この経典は、『ある夏の暑い日に、釈迦がおおぜいの弟子たちと一緒にいたとき、目の前に無数の蓮の花が咲いて、その一つ一つに仏が一体ずつ鎮座している光景が現われた――ところが、よく見ると、蓮の花の花弁が枯れかけて、黒ずんで悪臭を発してさえいる。にもかかわらず、その花の上の、おのおのの仏の姿は、光り輝いているんだ。それを見て一人の菩薩が、その光景の意味するところをたずねると、釈迦は、『この世の、いかなる醜いものにも仏性はあるのだ』と答えて、『一粒の木の実にも、一枚のぼろ布にも、ごみ捨て場にも、大小便にも、仏性が宿っている』――という意味のことを、くり返して説ききかせる……」
「なるほど……その、ごみ箱の中の塵芥(ちりあくた)も仏だという哲学を証明するためだったんだな? きみが華麗なる劇場生活の将来を捨てて、終戦後のバタヤ部落に住み込んだのも……」
「……ところが、だ、例のエジプトのナグ・ハマディで発見された〈トマスによる福音書〉を読んでみたら、なんと、如来蔵経の中で、釈迦が説いているのとそっくりのことを、イエスが、トマスに語っている」
「あのトマスだな? さっきからの話の」
「まちがいなく、そのトマスだ。……だから、〈トマスによる福音書〉は、『これは、隠された言葉である。これを、生けるイエスが語った。そして、デドモ、ユダ、トマスが書きしるした』という言葉ではじまっている。この、デドモというのは、ギリシャ語で双子のという意味で、トマスもアラム語の双子だ。
それにしても、なぜ〈双子〉ということに、それほどこだわるのだろうか?
……じつは、例の〈トマス行伝〉(第四)に、『キリストの双子』という言葉が出てくる。つまり、シリア教会の伝承ではイエスとトマスは双生児だったことになっているわけだ」
「トマスが、正統派から異端とかグノーシスとかいって排斥されたっていうのは、一つはそんなところに理由があるんじゃないのか?」
「しかし〈トマスによる福音書〉を貫いている〈イエスの教理(隠された言葉)〉は、『神(父)とイエス(子)が一つであるように、この世のありとあらゆるものが一つである』したがって『この世のすべてのものが神の子で、イエスと双子だ』(ヨハネ一七-21、22、23参照)ということになる。……しかし、ほんとうは、すべてのものが双子どころかイエスと一身同体なのだ。だから〈トマスによる福音書〉が書いている『……イエスが言った。〈わたしは、彼らのすべての上にある光である。わたしはすべてである。すべてはわたしから出た。そして、すべては、わたしに達した。……木を割りなさい。わたしはそこにいる。石を持ちあげなさい。そうすれば、あなたがたは、わたしをそこに見出すであろう〉』」
「なるほど……釈迦と同じことを言っているのか……〈ごみ捨て場〉だの〈大小便〉という言葉は 出て来ないにしても、言わんとしてることは同じだ……」
「でも、ほんとうに、それはイエスの言葉なんでしょうか」
「それは、なんともいえない。元来、四つの福音書にある言葉だって、『本当にイエスの言葉だ』とは、誰にも証明できないのだから。……しかし、この『わたしは光である……木を割りなさい……石を……わたしはそこにいる』という言葉と、ヨハネによる福音書(八-12)の、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』とか、ルカによる福音書(一七-21)の『神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』というのが、まったく共通の思想の上に芽生えたものであることは、たしかだろうね」
「それこそ同じ源から、だな」
「一言でいえば、『本来の自己を思い出せ』だ……」
神の知恵を求めよ
「例のトマス伝に、それをもっとも具体的に語っている寓話がある。その主人公は、東洋のある国の若い王子で、エジプトの海にいる巨大な龍がもっているという、秘宝の真珠を手に入れるために出かけていく。だが、龍の棲家の近くで機会をねらっているうちに、その国の世俗の風習に染まりすぎて、自分が王子であったことも、龍の秘宝を手に入れる目的もわすれてしまう。国王は本国にいてそのことを知り、『本来の自己を思い出せ』と手紙を書き送る。それでわれに返った王子は、めでたく本懐の宝を手に入れて父の国へ帰った……シリア語の原典では、とくにこの物語の部分が、見事な韻文で書かれていて、〈真珠の歌〉として文学的評価も高いそうだ。しかし、キリスト教の神学的立場からは、『グノーシス的異端思想』と非難されて片づけられている。ところが法華経には、これとよく似た、というよりは、おそらく同根から生まれた、としか考えら一れないような寓話が、くり返しあらわれる。たとえば信解品(しんげほん)に出てくる〈父と子の再会の話〉ね、ある大金持と幼いひとり息子が、なにかの原因で生き別れになって、何十年かの月日が流れた。息子は乞食同様の身となって流浪の末、ある日、偶然に父の邸の前を通りかかる。父は、ひと目で、それがわが子であるとさとって名乗ろうとするが、自分を生来の貧乏人だと思っている息子は、おそれて逃げ出してしまう。やむをえず父は、その息子を、便所掃除の人夫として雇い入れる。年月がたつうち、息子は、その邸の中で少しずつ地位が上がって、やがて父の全財産を管理する仕事も、立派にこなせるようになる。そこで、この金持は、はじめて自分が父であることをうちあけて、その大身代を全部、息子にゆずり渡す……」
「われわれは、もともと神の子なんだから、それを思い出せ、というんだな」
「似てるのは、それだけじゃない.法華経の五百弟子受記品には、こんな話もある。――ある貧しい男が、親友の家で馳走の酒に酔って眠ってしまう。親友は急用で外出しなければならなくなったので、高価な宝石を、熟睡している友だちの着物の内側に縫い込んで出て行く。あとで目がさめた男は、それに気づかないままで出発して、その後も、長いさすらいの旅をつづける。しかし、後日、ふたたび親友に会ったとぎ『お前の着物には、宝石が縫い込んであるのだぞ』といわれて、はじめて自分が、莫大な富の持主であったことに気づいた、という物語
……」
「……『本来の自己を思い出せ』なんていう思想は、なんとなく古風なようにも聞こえるが、考えてみると、実は非常に新しいんだな……DNAのしくみを、どこまでもたどって、現在二○○万種にわかれている地球上の生物の、最初の生命の〈誕生前夜〉の秘密をつきとめようとする、生命科学のテーマでもあるし、現代の天文学が、『一五○億年前には、宇宙の全物質が、一点に凝縮していた』というところまできているのと同じじゃないか」
「科学と宗教は、まったく相容れないもののようにいう人がよくあるけれども、すくなくとも、イエスは、そんな考えかたをしていなかったはずだ。……『求めよ、そうすれば与えられるであろう。……門を叩け、そうすればあけてもらえるであろう』(マタイ七-7・8、ルカ一ー-9・10)というのは、『一心に神に祈れば、なんでも希望が叶う』ではないんだ。これは旧約聖書の箴言(八-34・35)にある、『日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである』という言葉をさしているのであって、ここに出てくる〈わたし〉とは〈知恵〉なのだ。それは、この世のはじめから存在する〈神の知恵〉(八-22~31参照)だ。ギリシャ流なら、グノーシス、インド流ならハンニャの智慧だ。宇宙万有の真理なんだ。……面白いことに、法華経(方便品)では、『仏は、ただ一大事のためにのみ世に出現する。それは、仏知見(仏の知恵)を衆生に悟らせることだ』と、宣言している」
「元来、本当の宗教っていうのは、グループのエゴに都合のいいドグマを押しつけることじゃないはずだものな――一人ひとりが、真理探求に全能力を傾ける――それを助長するのが社会の指導者の役目だろう」
「人類が、このことに目覚めはじめたのはいつごろからだろうか? それは、イクナトンの時代なんていうものじゃない、すくなくとも、五、六千年前、いや、もっとずっと前からごく一部の人間は気づいていたはずだ。……だのに、二十世紀の今日になっても、宗教を、あくまでもネガティヴの方向に引っ張ってゆこうとする勢力が、世界的に強大なのはなぜだろうか」
「きみが幻の奥義書をさがす執念が、少し理解できてきたよ……きみが知りたいのは、奥義書そのもののありか、というより、『なにが奥義書を世に出させないのか?』なんだ……」
「しかし、そのからくりを見破るには、やっぱり、克明に、幻の奥義書の行方を追う以外にないだろう。イクナトンのつかの間の都だったテル・エル・アマルナからはじまって、カイロの町の下に埋まっているオンの神殿=ヘリオポリス
……」
「パレスティナ地方には、エフライム族の遺跡が無数にある……ヨルダン川の向こうには、エレミセ か, 彼が契約の櫃をかくした神の山――ネボ山だったな、――がある……それに十部族の行方さがしなら、エチオピアにも行かなければならないだろう?……」
「ヨハネが黙示録を書いたエーゲ海のパトモス島にも行きたいと言ってらしたでしょう?」
「小アジアには、ヨハネのグループが、福音書や書簡を書いたということになっているエフェソスや、トマスの墓があるエデッサ(今日のトルコ領のウルファ)がある」
「しかし、トマスの足跡となると、インド全体をさぐる必要があるんじゃないのか」
「まず第一にガンダーラ地方。ことに、ゴンドファレス王の都があったタキシラ。それに、〈維摩経〉のヴィマラキールティがいたガンジス河の中流にあるヴァイシャリー、ナーガールジュナが住んでいた南インドのクリシュナ河畔……」
「マラバルのクリスチャンのいるところ……」
「ケララ州のコッタャムという海に近い町。そこに〈聖トマス教会〉の本部がある。それからトマスが殉教した山があるマドラス……調べたいところは限りなくあるね……しかし、そういう所のすべてを後まわしにしても、第一ばんに、徹底的にさがさなければならない大切な国がある……」
「大秦寺があった中国か?」
「……日本……」
「日本のどこ?」
「それはわからない。しかし、問題の幻の奥義書は、まちがいなく日本に伝わっている……」
「田道間守が持ってきたからか?」
「「それも一つの仮設だが、とにかく、古事記全体の組み立てから、その暗示がにじみ出ているんだ……」
「きみが最初に言った、古事記そのものが謎だ、というのは、それなのか……」
