
第二部 アトンは唯一の神である
第一章 太陽の子ファラオ
〈ヨセフの話〉が成り立つ事情
「ところで、どうなんだ? イスラエルの十部族なるものはヨーロッパではそれっきり、消息不明ということになっているのか?」
中村博士は、桃楼じいさんに問いかけながら熱いコーヒーをひと口すすった。本来ならば、博士のあしたの朝食のために、例になく用意した特別上等の、味も香りもわれながらほれぼれする一煎なのに、なんの反応もない。
「あの、砂糖お入れにならないんですか?」
「うん、ああ、これ、コーヒー?」
カップは、そのまま皿に返された。桃楼じいさんときては、コーヒーが出たことにさえも気づかず、いよいよ舌の廻りに油がのって、眠気ざましは、無用のおせっかいだったようだ。
「〈十部族の行方さがし〉ってやつはね、まあU・F・Oさわぎのようなものさ。どういうわけか、中世期以降、イギリス人にマニアが多いんだな。それからユダヤ人では、カバラ派の一部の連中。これはもう、マニアなんてものじゃない。何十年何百年と、生きかわり死にかわりして、無我夢中で研究してるんだから」
自分は無我夢中でないと思っているらしい。
「だから、〈十部族の行方さがし〉に関する文献は、それだけで図書館ができるほどあるというんだが、なかで、九世紀ごろ現われたエルダード物語というのが有名なんだね。エルダード・ハ・ダイっていうこの著者が、本人は、十部族の中のダン族出身だって言ってるんだが、大旅行家でね、『自分は失われた十部族の国を発見した』って、くわしい報告書を書いてるんだ。エチオピアの奥地で、彼らを見つけた、って。これが出版されたら、たちまちヨーロッパじゅうの大評判になった。
何ヵ国語にも翻訳された。今なら、すぐにみんなが現地へ押しかけるところだが、なにしろそのころは、イスラム教の勢力が強大な時代だから、キリスト教徒が、アジア、アフリカを旅行するのは難儀だった。そこで、そののちずっと、何世紀にもわたって、この話を『ほんとだ』『うそだ』と、さんざん論争したあげくに、結局、うやむやで、立ち消えになってしまった。しかし、その本には、
全部が全部つくりごとだとは断定できない問題が、どっさりあるものだから、いまだに事実かもしれないと思って研究している人もあるようなのだ」
「桃楼じいさんも、その一人ってわけか」
「まあ、そう言っても、いいな……なにしろエチオピアというのは、イスラエル十部族と、非常に縁のふかい国なんだね。あそこに彼らの子孫がいなければふしぎなくらいだ。一度行って調査したいって、若いころから夢みていたんだが、もう、この年になってはね……」
「その、年っていうのは禁句だよ。君と僕は同年なんだから……断念するのは早いよ、エチオピアに、アラングヮデイという湖があってね、五、六年前に一度、行ったんだ。これもクロレラ研究の続きでね、スピルリナっていう藻が、そこにいっぱい生えてるんだよ。その調査してるんだけど、また行くことになると思うんだ。エチオピアで未来の食糧の研究所をつくるっていう相談がきていてね、もし、そうなったら、いっしょに行こうよ」
「私も、つれていってくださいますか?」
「もちろんさ、田所くんには、クロレラのときのようにね、スピルリナのたべかた研究してもらいたいものだね……そういえば、このコーヒーおいしいね、なに?」
「ブルーマウンテン」
もうすっかりつめたくなって、おいしいわけがないのに……いや、そんなことより――エチオピアにいるかもしれないという、〈失われた十部族〉のひとびとは……
「実現できたら、うれしいなあ……しかしとにかく今は、ひとが残してくれた資料でたどることしかできないから……さしずめ、十部族の中の、代表的なエフライム族。そしてこのエフライム族の元祖ともいうべきヨセフという人物を、まず第一にさぐらなければならない」
「そのヨセフは、問題のエフライムの父親でしたね?」
「そのヨセフって、よく童話の本に出てくる、あれか? 兄弟たちにいじめられて、奴隷に売りとばされた、っていう……」
「そう、その人物。旧約聖書の創世記にある話はね、アブラハムの孫のヤコブに一二人の男の子がいた。ヨセフは下から二番目。彼と母親が同じなのは、末弟のベニヤミンだけ。父親のヤコブは、このヨセフとベニヤミンの二人を溺愛した。しかし、かえってそのために、ヨセフは兄たちにねたまれて、通りがかりの旅商人に、奴隷として売りとばされる。しかし、その後、ヨセフは偶然の機会にエジプト国王の絶大な信頼をうけて、国王につぐ地位にまで出世する。しかも最後には、パレスティナ地方に残っていた父親や、かつて自分を売りとばした兄弟たちまでひきとって、生涯安楽に暮らさせた……と、このへんまでは誰でも知ってる話だよね、旧約聖書なんか読んだことのない人でも。だが――ここでまず第一の問題になることはね、そんな外国人の奴隷が、国王につぐほどの高官に抜擢されるなんていうケースが、その当時、現実にありえたろうか、ということ……」
「その当時って、いつごろですか?」
「……大体、紀元前一四世紀から一三世紀にかけて……エジプトの歴史でいえば、いわゆる新王朝時代の、第一八王朝の末期ということになるが……もっとも、この第一八王朝の時代には、エジプトは巨大帝国になって、メソポタミアあたりまで版図をひろげていた。そして、無数の、異民族の小国家を属領として統轄していたから、当時のエジプトの気風は、かなり進歩的で、名もなき人物をいきなり高官に抜擢したというためしが、なかったとはいえない。――それにしても、ごく異例な事件にはちがいなかった。なぜかというと、その当時、政治の実権を握っていたのは、首府のテーベの守護神だったアモンという神に仕える神官の一門だったから、彼らの息がかからない人間が、外国人はおろかエジプト人であっても、国王につぐ地位である〈全国のつかさ〉になるなどということは、考えられない。ことにヨセフは、外国人の奴隷あがりだ。
そのうえごていねいに、創世記には、『彼は、オンの祭司の娘を妻にした』とある。ところでこの、オンの神殿というのは、元来、日本でいうなら伊勢の大神宮にあたる神殿なんだが、第一八王朝のころになると、首府のテーベにあったアモンの神殿の最高神官が、国王の次の、あるいは、もっとそれ以上の権力を持つようになってしまった。だが、そうなってからでも、やっぱりアモンの神官たちにとって、オンの祭司は目の上のこぶだったにちがいない。その、オンの祭司の娘を妻にしている外国人が、〈全国のつかさ〉になるとなれば、かならず大悶着が起きるはずだ」
「というと、どうなんだ? 旧約のヨセフの話は、フィクションだということになるか」
「ところが、その、ありえないはずのなりゆきが、生まれてもふしぎでない時間というのが、第一八王朝二六○年ほどの間で一度だけ、わずか十数年間あった。
……それが、エジプトの宗教を根本から強硬に改革しようとしたイクナトン王(BC一三七九?~一三六二)の時代だ」
「そのころのエジプトのファラオの存在というのは、どういう位置だった?」
「正確にいうとファラオば〈国王〉じゃなくて、〈大きな宮殿〉――日本なら大御所というような呼び名なんだな。そのくせファラオは天上の神に対する地上の神、まあ日本流にいえば〈あらひと神〉というところかな……とにかくファラオにとって、一ばん大事な役目というのは、天の神と地上の人民との仲介者となることなんだ。だから、ファラオの見る夢は神のお告げであって、その夢の解釈は、国家の安危を左右する問題だった。もちろんそのほかにも、政治一切の責任が、ファラォの身にかかっていた。――つまり、古代ニジプトのファラオは、後世のヨーロッパの専制君主とちがって、神に代わって人民の福祉をまもることが使命だった……」
「神といっても、エジプトには、いろいろの神様があったでしょう?」
「そう、そこが大事なところだ。――『古代エジプトの宗教は多神教だった』って、誰でもいうね。なにしろ、どんな小さな部落にも、かならず祠(ほこら)があって、そこにはいく種類もの神様が祀ってある。それが太陽の神だったり鷹の神だったり、牛の神様だったりするのだから、現代の、ユダヤ教徒でも、キリスト教徒でも、イスラム教徒でも――とにかく自分たちが一神教であることを誇っている人びとの目には、滅茶苦茶な迷信宗教としか見えない。事実、そのころのエジプトの民衆にしたって、宗教といえば現世利益か極楽往生だったろうね。
……それならば神官たちもそうだったか、となると、これは問題だ」
「天文学や数学にしても、医学にしても、古代エジプトの神官というのは、非常に高度な科学的知識を持っていたらしいな」
「だから、古代エジプトの宗教を、低俗だったと考えることは、大変なまちがいの、もとになるんだよ。……たとえば、神様の名前にしても、古代エジプトの神学では、宇宙の全存在を包摂する唯一の〈完全なもの〉を、〈完全である〉(=TMN)という動詞から、アトム(あるいはアトン)、そして、ありとあらゆるものを存在せしめるものを、〈存在せしめる〉TSKHPR)という動詞から、
ケプリと呼んだ。しかし、古代エジプトの宗教家にとって、アトンもケプリも同じものだった。そればかりではなく、彼らは、そのアトンでありケプリであるものを、その輝きから連想してレエ(あるいはラー)=太陽とよんだ。それからまた、空中を自由にかけめぐることから連想して鷹とよんだり、その力強さから連想して牛とよんだ。だが、けっしてそれは別々のものじゃないんだ。
古代エジプトの宗教家にとって、それこそ知ってるかぎりの言葉の数だけ神々が存在するとしても、神は一体なんだ。それを、彼らは〈一体〉などといわずに、夫婦とか親子とか兄弟の神と呼んだ。だからある部落では夫婦である神々が、別の部落では親子になっていたり、兄弟だったりする。
あるいは親と子や男と女が逆になっていたりしても、一向におどろかない
……」
「名前がいくつあっても、いく人神様が並んでいても、ほんとうは一神というわけですか?」
「とは言っても、呼び名にも好きずきがあってね、古代エジプトの長い歴史の中で、最も人気があったのはレエ(太陽)だった。なぜかというと、紀元前四二○○年ごろに、レエを神とあがめる国王が全エジプトを統治して、首府をオンという町においた。――ほぼ現在のカイロのあるあたり。――それが、オンの神殿のはじまりで、レエ(太陽)とよばれる神が、全国的に崇拝されるようになった、そもそもの由来だ――というのが通説だが、一方では、エジプト人が特に太陽を重要視するようになったのは、そのころから、太陽暦が採用されたからだという説もある。……いずれにしても、レエという名が最も権威を持つことになるのは、第五王朝(BC二五六三~二四二三)からのことで、それからのファラオは、自分自身を〈レエの息子〉(太陽の子)と称するようになった。ただし、これを、単なる太陽崇拝と考えるとちがってしまうんだね、レエというのはアトン(完全)でもあり、ケプリ(存在)でもある神の、別名にすぎないのだから。
ところが、紀元前一四世紀前半ごろになって、それまでのエジプトの神学からは思いもよらないことが起こった。それが、あのイクナトンの出現だ。彼は極端に専制的なやり方で『今後、全エジプト国民の信仰対象は、アトンという名の神だけにする。そのほかの神々は、全部、抹殺しなければならない』という命令を出した」
実現しなかったイクナトンの夢
「ふーん……鳴くまで待とうっていう気になれないかねえ……ああいう豊かで雄大な自然の中で、何代も繁栄した王家に育ったのに」
「それが謎なんだ。彼を精神異常者だったと断定してる歴史家もある。とにかく、すべて意のままになる境遇に生まれて、極端な理想主義者だったことは、たしかだね。しかし理由はそれだけじゃない.ずっと根深いところに原因があるんだ。――そもそも、ファラオの第一使命が、神に代わって人民の福祉をはかることにあるからといって、国内にばかり目が向いていると、外敵に虚をつかれる。
そこで国防ということもファラオの重要な任務になったが、そのうち国防が外国侵攻に変わっていった。となれば、もう歯止めがきかない。とうとう歴代のファラオたちは、パレスティナやシリアどころか、メソポタミアの一部にまで攻めこんで、ついに大帝国エジプトは、南はナイル河の第四瀑布から北はユーフラテス河の岸まで拡がった」
「それがいわゆる第一八王朝だな」
「そう、しかし、その結果として、歴代のファラオの一生というものは、もっぱら外国侵略のための軍務に忙殺されることになる。そうなれば、本来の、ファラオの第一義である宗教的任務は、すべて専門の神官まかせにならざるをえない」
「宗教家の権力が増大する……か」
「それにしても、もしも、この第一八王朝の首府が、太陽神レエを主神として祀られているオンの町にあったら、オンの町の神官たちとファラオの中は、きっと
うまくいったろう。ファラオは〈太陽神レエの子〉なのだから。しかしながら、第一八王朝の初代のファラオは、ナイルの上流にあるテーベの出身だったから、
そこを新しい王国の首府とした。ところが、この町の識守護神は、昔からアモンとよばれる神だった」
「あら? 名前はアモンでもアトン神やレエ神と同じ名前なのではないんですか?」
「それはいい質問だ。アモンという神の名前は〈かくれている〉に通じる……
日本なら〈かくれ神〉だろう。しかしエジプトの場合、かくれているということは、ほんとうの姿は絶対に見せないが、ありとあらゆる神々の姿をかりて、いたる所に現われるという意味を、同時に持っている。当然、アモンがアトンやレエとなって現われることもあるはずだ。それどころじゃない――大昔からテーべの神は、ただのアモンではなく、〈アモン・レエ〉と呼ばれていたんだ」
「じゃあ、なぜ、アトンの名前だけにこだわったのでしょう」
「たしかに神としては、どうでもいいはずだ。森羅万象みんな一体なんだから。だが、ファラオとアモンの神官とは、別の人間だ。一身同体ではない――つまり、ここが問題なのだ。……元来エジプトでは、神に仕える大祭司がファラオだった。そしてファラオに仕える役人たち――たとえば地方長官は、その地方の政治をみると同時に、その地方の神に仕える祭司でもあった。ところがファラオが俗事に追われてくると、神官という特別の専門職が誕生して、やがてそれが世襲になった。
しかも第一八王朝の歴代のファラオが、戦争に勝って首府のテーベに凱旋するたびに、莫大な寄進をしたから、アモン神殿の財産はみるみる増えていって、エジプト全耕地の一二分の一を占有するまでになった。その結果、軍事以外の権力では、ファラオをしのいでアモン神殿の最高神官が、国の主導権を握ることになってしまった。さあ、こうなれば、いつか来るべき運命は、当然ファラオとアモン神殿の最高神官との、真正面の激突だ」
「なるほど、……それはあくまでファラオと神官との政権のけんかであって、『太陽神とテーベの守護神は、どっちが偉いか』なんていう問題じゃなかったわけだな」
「たしかに、ことの起こりはね、……だが、いったん争いがはじまったら、イクナトンのほうは、その状況判断そっちのけで、エジプトを神の王国にしたいという理想だけに走ってしまった。おそらく彼は自分がほんとうに神の召命をうけたと信じていたんだろうな。その証拠に、彼が勝手に自分で名乗った〈イクナトン〉は、『アトンの神をよろこばす者』なのだから。
そこで彼がまず第一に着手したのが、新首都の建設で、アモンの神殿のあるテーベの都をすてて、ナイル河を五○キロ下った東岸の――いまのテル・エル・アマルナね、━━まったくの処女地だったあの場所に、アケト・アトン(アトンの地平線)の都をきめた。とにかくアモンの神官たちの勢力を一掃するためには、なにもかも新しくしなければ、と思ったんだろうな。偶像崇拝は一切禁止。もちろん唯一神であるアトンの偶像もつくらせない。礼拝の対象としては、日輪を象徴する一枚の金属の円板をかざることだけを許した。それも従来の、伽藍(がらん)の中の礼拝ではない。太陽の真下の、屋根なしの聖域での祭礼とした。それからアモンの神官追放。領地は没収して、ありとあらゆる記念碑から、アモンの名を削りとって、碑文の中の〈神点〉という字も、いちいち抹消させた」
「そんなやりかたで、民衆のほうはどうした?」
「それがね、一七年ほどのイクナトンの在位期間に、心からアトンを唯一の神として信仰した人というのは、ごくわずかだったらしいんだ。テル・エル・アマルナの、その当時の民家の跡から、イクナトンが禁じたはずの、偶像や、神様の名を書いたものが、続点と発見されているという事実から推して……」
「急激な改革は実をむすばないな、むすんだごとく見えても、低次元のものに変質している……」
「反対に、動機に邪(よこしま)なものがあっても、神聖として敬う伝統が続いている間に、完全に浄化されて神聖になりきるということもあるでしょう」
「結局、イクナトンは宗教改革だけじゃなくて、属領の統治まで、うまくいかなくなった。彼がアトン崇拝に熱中しすぎたのが原因か、平等博愛の理想が観念論に過ぎたからか、とにかく属領に叛乱が起きそうになっても弾圧なんかしない。なんにも手を打たないんだ。それでエジプトの威勢はだんだん落ちていった。イクナトン自身も、晩年にはいろいろ反省したらしくて、テーベの神官たちと和解しようと、努力した気配はあるのだが、すべて虻蜂とらずのまま死んだらしい」
「そういえば、あの黄金のマスクのツタンカーメンは、イクナトンの養子でしょう?」
「イクナトンに男の子がなくて、六人娘のうち三女と結婚したとき、ツタンカーメンは一二歳の少年だった。最初は〈アトンの生きた姿〉という意味の〈ツタンカートン〉という名だったが、イクナトンが死ぬと、早速テーベの神官が勢力をとり戻して、彼らの言いなりにならざるをえなくなった。それで名前は〈アモンの生きた姿〉のツタンカーメンと改めて、即位三年目に、もとの神の都テーベにひき返した。そして、わずか一八歳で、死んでしまった」
「ファラオといっても、彼の実権は皆無だったんだろう」
「なにしろ、イクナトンが死ぬとすぐ、エジプトの宗教は、もとに戻ってしまった。アモンをはじめ、神々の偶像は復活した。そしてイクナトンの名前は、ファラオの系図から除外された。それどころじゃない、彼が、自分のつくった都の名前をもじって〈アケトアトンの犯罪者〉とひやかされるようになったんだ」
「自分では、そんなに恨まれるとは思いもよらなかったんだろうな」
「いろいろやりすぎがあったのは確かだが、彼の理想の純粋さと、独創性は、歴史上、重要な存在として評価されてもいいと思うんだ。もしもあのとき、彼の宗教改革が実現していたら、古代エジプトの文化は大転換していただろうし、それからの世界史も、まったく違うものになっていたかもしれない」
「本心からイクナトンに共鳴した人間は、当時、一人もいなかったのかね」
「もしいたとすれば、以前から太陽神レエを主神として祀っていた人たちだろう――オンの神殿に仕える神官たちや、その周辺の民……」
「きみ、さっき言ったね、ヨセフが、オンの祭司の娘むこになったって……」
「そこなんだ、もし、ヨセフが、エジプトの〈全国のつかさ〉に抜擢されたということが事実とすれば、それはおそらく、イクナトンがファラオだった十数年間のできごとだろうという仮設は、ここに根拠があるんだ」
「やっと旧約に戻ってきたな」
博士はわらいながら私をかえりみて、気がついたように、コーヒーが少し残っているカップを口にもっていった。
世をしのぶケニびとたち
「イクナトンが王位についてすぐ、テーベの神官追放を断行したときね、エジプトの高官たちの大部分は、テーベの神官と結託していたんだから、新しい首都のアケトアトン(今のテル・エル・アマルナ)に移ると同時に、役人に大量の新規採用が必要だったはずだ。……ところで旧約聖書の創世記では、奴隷としてエジプトに連れてこられたヨセフが、思いもかけない立身出世することになったきっかけば、彼が、ファラオの〈夢解き〉をしたからだ――と言っている。ファラオの夢解きが非常に重要視されていた当時のエジプトであってみれば、この話も充分あることだし、それ以前は、問題の〈夢解き〉がテーベの神官の役目だったから、彼らをことごとく追放した直後に、イクナトンは、すぐれた智慧者ときけば、ヨセフのような立場の人間の言葉にも、まともに耳をかしたということは、充分考えられる。そのうえ、昔からアトン信仰の総本山だったオンの祭司の娘を、ファラオ自身が仲人になってヨセフの妻にさせたということは、いかに彼がヨセフを信頼していたかの、なによりの証拠ではないか。だから、そのヨセフが〈全国のつかさ〉に抜擢されても、すくなくとも表面上は誰も反対しなかったろう」
「その代わり、イクナトンが死んだあと、苦しい立場になったんじゃないのか?」
「おそらく、一ばん憎まれたのはヨセフだろうな……イクナトンに仕えていた宮廷の役人たちが、ある日突然、まだ新しいアケトアトンの都をすてて出ていったらしい、ということが、例のテル・エル・アマルナの発掘によってわかった。完成寸前というところで工事が突然うちきられている家が、いくつも出てきた
……」
「命からがら逃げた者がいた証拠か」
「おそらく、モーセがイスラエルの民を引率して、エジプト脱出する晩と、そっくりの状況だったんじゃないだろうか」(出エジプト記一二-34、37参照)
「ヨセフの一統は、都を逃げ出して、どこへ行った?」
「テーベから、できるだけ離れた所へ行かなければならないとなれば、当然、ナイル河を下って北へ北へと進む以外にない。その途中に、太陽神の総本山だったオンの町があるわけだが、テーベの神官が勢力をもり返した以上、そこも安全ではない。結局、スエズ地峡を通ってシナイ半島の砂漠に逃げるしかなかったろう
……」
「そこから砂漠の放浪生活がはじまるのか……しかし、そうなると、出エジプト記にある、イスラエル十二部族たちが強制労働させられた話や、モーセが彼らを助け出した話は、どうなるんだ?」
「うん、あれは、まったく別の事件だ。聖書には、ヨセフの時代から四○○年以上たってからのことのように書いてあるが、もし、出エジプト記の事件を、実際にあったこととするならば、イスラエルの民が強制労働で苦しめられたのは、ラメス二世(BC 一三○四 ? ~ 一二三七 ?)の時だった、という説がある。ラメスニ世というのは、イクナトンが死んでから一○○年ばかりあとの、エジプト
史上、最大の建築マニアだったそうだ。……そして、モーセにひきいられたイスラエルの民が、集団脱出したのは、おそらくラメス二世の息子のメルネプタ(BC 一二三六 ~ 一二二三 )の時だったろう、というのが、現代の聖書研究家たちの通説だ。たしかに、外国から無理やり連れてこられた奴隷や、くらしに困ってエジプトに流れてきたおおぜいの難民たちが、苛酷な労働をさせられていたことは、事実らしい。ただし、その人たちのなかに、いわゆるイスラエル十二部族の子孫たちが、ほんとうにいたかどうかは、はなはだ疑問だ。もっともエジプト側では、難民たちのことを、〈国境周辺の者〉とか、〈国境をこえて侵入してくる者〉とか、あるいは〈動きまわる者〉――つまり定職のない者、などの意味から、イブリ(あるいはハビル)とよんでいたらしいから、この〈イブリ〉が、イスラエル民族の別名であるヘブルびと(創世記一四-13参照)の語源だとすれば、『ラメスニ世のころに強制労働させられていたのは、へブルびとだった』という推測も成り立つ。
それはともかくとして、このイブリとよばれて動物同様の扱いをうけていた人びとの中から、苦しさのあまり、あるいはなにかのはずみで、エジプト人に危害を加えたために、処罰されるのを怖れた者が、砂漠へのがれる例が頻繁にあったろうということも、充分想像できる。しかし、砂漠で、ひとりで生きることは、非常に困難だ。だからといって、大集団でいきなりとびこんでいって定住することは、さらに不可能だ。そんなオアシスがあれば、かならず先住者がいるはずだ。先住者はかぎられた水と食糧を、大量の外来者によって消費されるのを、黙認するはずがない。――となると、エジプトから逃亡してきたイブリ(放浪者)たちを、心よく迎えてくれた砂漠の先住者は、きわめて稀な存在だった……ということになる」
「たとえばlエジプト人を殺して砂漠に逃げたモーセを助けてくれたミデアンの祭司 エテロのような人たち……」
私はかつて、なにかに思いあたりそうな感じを、ぼんやりと懐いた記憶がある出エジプト記第二章(15~22)のページを思い出したままに言ってみた。
「それを言って欲しかったね……」
桃楼じいさんは、私に向けて大きく手をふった。
「〈ミデアンの祭司エテロ〉という人物は、すなわち〈ケニびと〉だ(士師記一-16、四-11参照)。
ケニびととは? というと、これが、弟殺しの罪で地上を放浪する運命になったカインの末裔だから(創世記四章参照)、彼らは定住するオアシスを持っていない。考古学者の説だが、わずかの羊の群をつれて、部落から部落へと放浪しながら、本業は、移動する鍛冶屋だったというんだ。これが聖書の記述となると、カインの末裔は、一般社会で非常にきらわれていて、『見つけたら殺してし
まえ』といわれていたのを、ヤハウェという名の神だけが彼らをかばって、『誰でもカインを殺す者は、七倍の復讐をうけるだろう』と約束してくれた━━とある(創世紀四章)。つまり、後日、イスラエルの民が唯一の神として信仰することになる〈YHWH〉という名前の神は、もともと、このケニびとの神様だったのだ。それだけじゃない━━モーセに燔祭や犠牲の供えかたを教えたのも、ケニびとの祭司エテロだった(出エジプト記一八-12参照)……ところが、ここに問題があるんだ。
聖書には、このヤハウェという神が、はじめてモーセの前に現われたときに、『わたしはあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記 三-6)と言っているね、となると、ケニびとと、イスラエルの民との関係はどうなるのだろう? 創世記(四-17以下)に出てくる系図では、ケニびとは、アブラハムたちの先祖ではないことになっている。そこで、こ
れまでの聖書研究家は、カインの末裔をかばう約束をしたYHWHという神と、モーセーの前に現われたYHWHという神との関係を、どう説明するかに、当惑することになる。……しかしね、もしも、弟殺しなるがゆえに出会ったら殺せといわれたケニびとなるものが、実は、ヨセフの子孫だったとしたら、どうなる。――例のアケトアトンの犯罪者〉――つまり、イクナトンの残党として、おたずねものになっていた人びとこそ、ケニびとだ、ということになったら……」
「なるほど! こいつは面白くなってきた……モーセの時代に強制労働で苦しんでいた連中が、たまりかねて脱走していった場所が、ヨセフの子孫たちが根を下ろしていたところだった……これは筋が通ってくるな……しかし、待ってくれよ……そうなるとだな、旧約聖書に出てくるヤハウェという、あの正体不明の神様は、イクナトンが崇拝した太陽神アトンだった、ということになりそうじゃないか」
「じゃあ、ここを見てくれないか」
桃楼じいさんは、旧約聖書をとりあげて、申命記六章の四節を出して示した。
「『イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない』とあるだろう、これは、ユダヤ教徒にとっては、これ以上のものがない一ばん大切な祈りなのだ。しかもユダヤ教徒は、YHWHという神の名を、絶対に口に出して呼ばないことになっているから、YHWHを声に出して呼ぶときは、アドナイ(主)と発言する。ところで、唯一の神といっているくせに、エロヒム(神)もアドナイ(主)も、複数形が使ってあるのだが、これはユダヤ教徒にいわせれば、複数形の意味で使っているのではなくて、きわめて尊い存在に対しては、単数であっても複数形にしてよぶ習慣があるからで、もし敬称ぬきにすれば、アドナイ(主)はアドン、エロヒム(神)はエロアとなるわけだ。……さあ、そこで、驚天動地の大椿説の開幕だ――ことわっておくが、これは桃楼じいさんの大法螺じゃないよ、五○年ほどまえに、かのフロイドが言い出したことだ」
「フロイドって、まさか、あの精神分析のフロイドじゃないだろう?」
「まさに、そのフロイド先生だ。今の学者は、もっぱらフロイトといって、フロイドは無学なヤツの誤りだっていうけれども、この桃楼じいさんは、終始一貫フロイドで通しているんだ……その理由は、まあ、いまはふれないでおくけれども……とにかく、そのフロイドがね、この『アドン(=アドナイ、YHWH)は唯一の神 エロア)である』という祈りは、元来は、『太陽神アトンは、唯一の神』という言葉で、イクナトンの時にはじまった祈りだ――と言っているんだ」
「いくらなんでも、それはすこし、こじつけがすぎる感じだな」
「と、いわれて、さすがのフロイドも、ほとんど誰からも相手にされずじまいだった。なにしろ、そういう仮設をたてただけで、彼自身、それ以上、説明はしていないんだし……『自分には、とても証明はできないけれども、自分の勘ではそうだ』と言っているだけで」
「しかし、すくなくとも自分で証明ができたと思わなけりゃ、その著作は書かないだろう……」
「ところが、その証明は、じつは、フロイドならぬわが中村博士の手の中にあるんだ」
第二章 〈砂漠の先見者〉はヨシュア
「わたしは有って有るもの」
「おい、あんまりおどかすなよ、ヤハウェの謎のかぎが、僕の手の中だって? 僕の手の中はいま、田所くんが水ついでくれたときこぼれたのを、拭きとって、まるめた紙が入ってるぞ……」
どうも、ほんとうに失礼いたしました。それにしても、老人二人のこんにゃく問答、本気なのか、はぐらかし合っているのか……
「なるほど、まるめる、ね、そのまるめるから、なにか思い出してもらおうか」
「なんだ、こんどは連想ゲームか?」
「エジプトの宗教とつきあうのには、連想ゲーム的センスが必要なんだ」
「そういうの、田所くんのほうがうまいだろ? なにが思いつく?」
「第一ヒントが中村先生で、第二ヒントがまるめるなら、……昆虫記?」
九○パーセントは、あてずっぽうで言った。
「そう! その昆虫記のスカラベが、このなぞの鍵……」
桃楼じいさんが、ゆっくりと三つ四つ拍手した。私がむかし読んだファーブルの昆虫記は、〈中村浩訳〉だった。スカラベの訳語が、この本では〈玉ころがし〉となっていて、それがじつは、この虫に〈糞ころがし〉の和名がついているのを、つくづく哀れに思った中村博士が、このときばかりは、『生物の名を正しくおぼえよう』と唱導する日ごろの姿勢にもかかわらず、あえて例外をおかして、みずからこの虫に贈った名だ――と知ったとき、私は感銘をうけたものだった。それ以来ファーブル、玉ころがし、中村先生――は、ひと組のイメージとなって、私の心の中に納まっている。
「なんだ、スカラベか、そういえばあの虫は、古代エジプトで神聖な存在だったんだよね、宝石に彫っておまもりにしたり。今でも指輪なんかにしてるの、よくあるよ」
「動物の糞をまるめて、巣穴へころがしていって、その中に卵を生みつけるんですね? あの虫が、どうして神聖なんですか?」
「そこが、エジプト人の、連想ゲーム的感覚なんだよ。さっきも言ったとおり、太陽神レエの別名だが、――完全なものを意味するアトンとか、存在を意味するケプリ――このケプリの語源は、’Khprの存在するという動詞から来てる、というわけだが、一方、それとは、まったく関係なしに、このスカラベの名前が、古代エジプトでは、ケペレルとかケペリだった。これを子音だけで綴ると、これがまたKhpr。そこで、エジプトの象形文字では、〈太陽神〉と書くときには、このスカラベの絵を描くことになった。まさに、これはあて字なんだが、おかげでこんどは逆に、スカラベそのものが神聖なる太陽神のみ使い━━ということになった……」
「すっかり僕のお株とられたね」
博士の、教え子の答えが上首尾だったときの教師のような笑顔が、パイプに持っていくマッチの炎に映える。
「それで? スカラベとヤハウェとは、どこで、どう結びつくんだ?……」
「YHWHを、今日われわれは、ヤハウェとよんでるね、だがこれは、便宜上の発音で、本当のよびかたは、誰も知らないんだ。ユダヤ教徒は、自分たちの唯一神をあらわす〈聖なる四字(テトラグラム)〉を、そのまま声に出して呼んだりしなかった。大昔は、年に一回、〈贖罪の日(ヨムキプル〉に、大祭司だけが、神殿の奥で声を出して称えることが、ゆるされていた。ところが、紀元七○年に、エルサレムがローマ軍に破壊されてから、正式な読みかたが、わからなくなってしまった。しかし創世記(四-26) に『この時、人びとは主(YHWH)の名をよびはじめた』とあるところからみると、カインの末裔たちやケニびとの間では、『神の名を口に出して称えてはならなとというタブーはなかった――といわなければならない。それからまた出エジプト記(三-14)では、神がモーセに向かって『わたしは有って有る者(エヘイエ・アシエル・エヘイエ)』あるいは『わたしは有る』と名乗っている。これから考えて、YHWHは、〈ある〉という意味をあらわす動詞HYHからきた名だ――というのが、多くのユダヤ教神学者のいうところなんだね……。そこで、かのケプリ――太陽神の別名の、語源の問題だが、これもまた、存在する、生まれる、成立する、創造する――という意味の動詞KHPRなのだ。……となると、エジプト語でケプリとよばれる神と、へブライ語のHYHがなまってYHWHとなった神とは、同じ神なのではないだろうか? すくなくとも、その当時ヨセフの一家は、エジプト語とヘブライ語を、まぜこぜに使っていたにちがいないと思う。――その彼らにとって、この二つの神のよび名は、発音はちがってもまったく同じ意味として併用されていたんじゃないか? まあたとえばクリスチャンが、〈キリスト〉といったり〈メシア〉といったりするときの意識には、ほとんどちがいがないようにね……さあそうなると、ユダヤ教のYHWHは、すなわちエジプトのケプリという名の神であり、同時にそれは、太陽神レエでもあり、そしてさらに、〈完全なるもの〉を意味する唯一の神アトンとも一体でなければならない……」
「う-ん、そうか……そうなると、『アドナイ(主)は唯一の神である』という祈りの本来の言葉は『アトン(太陽神レエ)は唯一の神である』だった、というフロイド説は、かならずしもナンセンスだとは言えなくなるな」
「そこでもう一ぺん、イクナトンが死んだ直後に話を戻すけれども、ヨセフと彼の一族郎党は、テーベの神官たちの迫害をおそれてシナイ半島の荒野にのがれた。おそらくは点々と放浪しながら、宗教的協同体の生活を続けていたんだろうと思う……。ところが一○○年ほどたって、エジプトでは強制労働がはじまった。例の建築好きのラメスニ世のとき。それで大量の逃亡者が、砂漠の彼らを頼って避難してきた。――おそらく、そのころのイブリ(放浪者)たちは、かならずしも固執する信仰をもっていなかったろうから、ヨセフの子孫たちが崇めている神を、〈唯一の神〉として素直にうけいれたにちがいない。しかし、砂漠の暮らしとは言っても、エジプト本土から、そう離れたわけではないのだから、その〈唯一の神〉の名が、テーべの神官の目の敵であるアトンだとは、うっかり洩らせない。しかもへブライ語でHYHといえば、それがエジプト語のケプリであることが知れてしまう……」
「それで、神の名を口に出して呼ばないことになったか……」
「だが、そうこうするうち、続々とやってくる逃亡者がふえる一方で、不毛の砂漠での生活圏は飽和状態になった。そこでやむをえず、ヨルダンの川を渡ってパレスティナ地方へ侵入せざるをえなかったんじゃないかと思う」
「それにしても、ちょっと気になるね、イクナトンは戦争は好まなかったんだろ? もしヨセフの子孫たちが、そのイクナトンの遺志をつぐつもりなら、なぜ、他人の土地へ侵略して行ったんだろう? 旧約聖書に、ものすごい残虐な攻めこみかたをしたって書いてあったな」
「その疑問は明快に解けるんだ。イスラエル十二部族がヨルダンを渡ってカナンの地にはいったという旧約の中の記事が事実だとすれば、それは、さっきも言ったラメスニ世の息子のメルネプタの時代からあとのことだろうというのが、歴史家の推測として多いわけだ。なぜかというと、現在残っている、メルネプタが建てた記念碑――紀元前一二二○年代といわれる――その中に、彼のひきいる軍隊がパレスティナ地方を徹底的に攻略した結果、『イスラエルは荒廃して、子孫も絶えた』と書いてある。だから、もし十二部族が、それ以前にカナンの地に入っていたら、彼らは、絶滅までとはいかないにしても、大打撃はうけたはずだから、ヨシュア記以降のイスラエルの歴史に、それらしい記録が出てこなければならないはずだろう。ところが旧約聖書には、その当時、いわゆるペリシテびとをはじめとする周囲の小民族と戦った話は、くり返し出てくるが、エジプト軍が攻めてきたことは、一言半句書いてない。そこで、もし、十二部族がカナンの地に入ったのが、いわゆる『イスラエルは荒廃し、子孫も絶えた』という事件の、直後だったと仮定すれば、彼らがほとんどなんの抵抗もうけずに、文字どおり無人の境を占領するという具合だったんじゃないかと思うんだ。
「エリコの町をみな殺しにしたというのはほんとのことじゃないんですか?」
旧約の中の、いくつもの残虐物語が、一つ一つ理由のあるウソだということになるなら、聖書というものに、どれほどか親しみがもてるだろう……
「だが、その代わり、ここにもまた、別の疑問が起こってくるんだ。━━というのは、いま言ったメルネプタの記念碑に〈イスラエル〉という名前が出てくること。聖書ではイスラエルというのはヨセフの父の、ヤコブの別名だね、そのヤコブに一二人の息子があって、その子孫が、いわゆる〈イスラエルの十二部族〉になったというんだが、もし、それが事実なら、その十二部族が、カナンの地に入る前に、メルネプタが、〈イスラエル〉という地方を攻略した――とすれば、これはどういうことになるか?……だ」
「イスラエルという地名は、昔からあった――ヤコブの別名も、これにちなんでつけられた――と解釈できないこともないが、どうやらヤコブが神様と相撲とって勝ったから、イスラエルと名乗れといわれて改名した、という話自体がうさんくさいね……」
「そうなると、ヤコブに一二人の息子があったということも、一応、疑ってみなければならなくなる」
「また話が錯綜しそうだな」
博士があきらめたように苦笑する。
モーセ伝説の原型
「じゃあ、結論から先にいうよ。要するにイスラエルの十二部族が、一二人の兄弟の子孫だというのは、後世のこしらえごとにすぎないんだ。実際の話は、ヨセフを先祖とする部族だけが、つまりヨセフの息子であるエフライム、マナセの二部族だけが、いわゆるイスラエルとよばれた地方に移り住むようになってから、その後しだいしだいに周囲の部族たちにヤハウェ信仰が、つまり太陽神アトンの信仰がひろまった結果、同じ信仰を持つ者同士が、宗教的連盟をむすんだ。――それが、いわゆるイスラエル十二部族だった。ただし、それも、最初から十二部族だったわけじゃない。したがって、十二部族が団結して、同時にカナンの地に入ってきた、というのも、事実ではないらしい。――その証拠にだね、十二部族がカナンの地に入って、領土をわけあったいきさつをくわしくのべているヨシュア記の主役は、ヨセフの子のエフライムを元祖とするエフライム族出身の、ヨシ
ュアだけで、この物語の舞台になっているところは、ほとんどが、後のエフライム族の領土か、ヨセフの弟のベニヤミンを元祖とするベンヤミン族に関係する土地ばかりといっていいくらいだ。そのうえ、あの契約の櫃――イスラエル十二部族にとって最も神聖視されていた契約の櫃だが、あれは後になってユダ族出身のダビデが、自分の領土内のエルサレムに移すまでは、ほんのわずかの例外をのぞいては、終始一貫、エフライム族の領土内に安置されてあったのだ。……つまりね、あの有名な出エジプト記からヨシュア記にかけての、いわゆるイスラエル民族の建国物語は、おもにヨセフの子孫たちの伝承だった――ということになるわけだ」
「……しかし、それなら、あの偉大なるモーセという預言者の存在は、どうなるんだ? 彼は、エフライムやヨセフの子孫ではなかったんじゃないのか?」
「モーセと彼の兄貴のアロンという人物は、レビ族の出身で、ヤコブの妻のうち姉のレアの子が元祖だということになっているが、へブライ語で〈レビ〉は加わ
るという意味だというから、これはレビ族が、出エジプトの時に、『神に仕える者として別格にされた』のではなくて、逆に、あとから十二部族に加わったのだ
ということを、暗示しているのかもしれない。現に民数記の記述は、レビ族が脱けたためにヨセフ族がエフライムとマナセの二部族にわかれて十二部族の数をそろえたといういきさつの説明が、いかにも取ってつけたような感じがする」(一-47以下参照)
「しかし、レビ族が、もともと十二部族の仲間でなかったとしても、モーセやアロンが、レビ族から出ていエフライム族といっしょにエジプトからやってきた、ということは、動かせないんじゃないのか?」
「聖書研究家は、たいていそう言っている。それ以外に、つじつまのあわせようがないんだ。だがね、それは、モーセとアロンの兄弟が、歴史上に実在した人物だった場合の話だ」
「まさかきみは、ほんとうはモーセなんていなかった、などというつもりじゃないんだろうな」
「モーセは実在したのか、架空の人物か? を議論するまえに、彼の兄貴のアロンが実在したのかどうかを調べてみよう。……結論をまずいうと、大部分の聖書研究家が、いわゆる〈モーセの五書〉(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に出てくる、アロンに関する記述の九○パーセントは、ユダ族の捕囚後に創作されたものだといっている。その証拠というのは無数にあるから、
いまいちいちとりあげるまでもないけれども……まあアロンという人物が実在しなかったとするのは、無理でもなんでもないのだ。
そこで、いよいよモーセの問題だがね。――彼がシナイ山で神から十戒をさずけられるあたり(出エジプト記二○章)から以降の大部分の記事は、これまたソロモンの死後に、少しずつ成文化されていったものだ、ということは、多くの聖書研究家によって明らかになっている。……それなら、モーセの生いたちは? といえば、例の、パピルスで編んだ籠に入れられて、ナイル河の岸の、葦の中におかれたのを、ファラオの王女が通りかかって拾いあげた話は、メソポタミア地方の歴史で最も有名なサルゴン(BC二三五○~二三○○)という王様の生いたちを焼き直したものであることは、疑う余地がない」
「じゃあモーセという人物の存在も、すべてを事実無根だとするのか?」
「ところが、モーセというのは、古代エジプト語で〈子供〉という意味だ。たとえば〈トトという神の子〉というときは〈トトメス〉となる。そこで、例のイクナトンはファラオで、ファラオは〈太陽の子〉なのだから、レエ(またはラー)のモーセ、つまりラムセスとよばれてもいいわけだ」
「それなら、そのラー・モーセを略して、ただモーセとよぶことも、ありそうだな」
「よび名といえば、イクナトンは、彼自身を〈最大の先見者〉とよんでいたらしいんだ。これは元来、例の太陽神の総本山オンの神殿の大祭司につける称号であって、オンの神殿の一般の祭司が〈先見者〉、高級祭司は〈先見者の長〉、そして最高の大祭司が〈最大の先見者〉とよばれることになっていた。……ところで、サムエル記――創世記からはじまって、旧約の九番目だ――ここを読んでみると(上九-9)『昔、イスラエルでは、……今の預言者は、先見者と言われていたのである』……ここでは、預言者サムエルのことを説明しているのだが、一方、モーセのことは、申命記の最後のところ(三四-10)に、『イスラエルには、こののち、モーセのような預言者は起こらなかった』と書いてある。しかし、サムエル記の記述からもわかるように、モーセのことを預言者とよび出したのは後世(サムエル時代以後)のことで、本来は、〈最大の先見者〉だったに相違ない。
「イクナトンが〈モーセ〉でもあり〈最大の先見者〉でもあるとすると、二人は同一人物の可能性あり、か」
「そこで、もう一つ臆測を重ねると〈モーセの五書〉に、砂漠生活の間、エフライム族出身のヨシュアだけが、つねにモーセと行動を共にしていた、唯一人の人物だった――と記述されていることは、ヨシュアこそがく先見者の長〉であり、イクナトン(=モーセ) の正統な後継者だったことを、物語っているのではないだろうか」
「それがもし正解だとすると、モーセの五書のヒーローは、大予言者モーセではなくてエフライムから出たヨシュァだった、ということに、なってきそうじゃないか」
「だからこそ、その後も長い間エフライム族の人びとは、自分たちこそイスラエル十二部族のリーダーだと自認していたわけだ。それにもかかわらず、出エジプト記では『祭司の職は永久の定めによって、彼ら(アロンとその子孫たち)に帰するであろう』(二九-9)というようなことをくり返している。しかし、これは、バロニア捕囚後に、アロンの子孫と称するザドク一家の祭司たちが創作したフィクションにすぎない。その証拠には、モーセ以後の最大の預言者といわれるサムエルは、レビ族出身でもアロンの子孫でもなくて、エフライム族の出身なのだ(サムエル 上 一-1)。したがって、その預言者サムエルが、ベニヤミン族のサウルを十二部族全体の統率者として選んだときには、ベニヤミン族とエフライム族は非常に親しい間柄だったから、まあまあ我慢したのだが、間もなくサウルの一家が亡びて、ユダ族出身のダビデがイスラエルの王となることを宣言した。しかもダビデは、レビ族出身の祭司たちと結託して、『祭司の職はアロンの末にかぎる』という永久の定めがあるとか、『その祭司が油をそそいだ者(メシア=キリスト)は、絶対に神聖にしておかすべからざる者である』ということを、ひろく一般に根づよく植え込んだ。エフライム族たちは、胸中はなはだ面白くなかったが、ダビデと、その息子のソロモンの政治的手腕には、まったく歯が立たなかったから、やむをえず家臣として従わざるをえなかった。しかし、ソロモンが死ぬとすぐ、エフライム族を筆頭とする十部族が、ベニヤミン族だけを残して、ユダ族と決裂することになってしまった……と旧約に書いてある」
「メシアを油塗られた者として絶対視していたのは、結局ユダ王国関係者だけだったんだな?」
「でも、そのとき、なぜ、ベニヤミン族はユダ族のほうに残ったのですか? エフライム族と親しかったはずなのに」
「ベニヤミン族をひきいていたサウル一家と、彼らをたすけていた実力者の大部分が、ダビデの策謀によって絶滅されたことと、ベニヤミン族の領地だけが、ユダ族の領地に隣接していたから、とうてい反旗をひるがえすことができなかったんだよ」
「それにしても、もしエフライム族をリーダーとするイスラエル王国が、自分たちを正統だと主張するのなら、なぜ唯一神ヤハウェを捨てて偶像崇拝をはじめたんでしょう」
「イスラエル王国の信仰が、はたして本当に異教的な偶像崇拝だったかどうか、ユダ族の側で書いた独断的な歴史書だけから見て断定することはできない……」
「そういう判断は、どこからできるんですか?」
エジプトで生まれた申命記
「……列王紀(下)の第二二章と、歴代志(下)の第三四章を読めば、それがわかる。ユダ王国のヨシヤの時代(BC六二一)に、エルサレムの神殿の中から、今まで誰も知らなかった〈律法の書〉(あるいは〈契約の書〉とも書いてある)なるものが出てきて大さわぎになった話が、くわしく書いてある。ヨシヤ王はそのとき、非常に驚いて、ユダのすべての人びとを神殿に集めて、あらためて問題の律法の書を読みきかせた。そして神に向かって『主に従って歩み、心をつくし精神をつくし、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされている契約の言葉を行います』と誓った。……それで『民は皆、その契約に加わった』とある」
「よほど、まじめな王様だったらしいな……」
「それにしても、これから先の所に、ヨシヤが国内にあるすべての異教的なものを、ことごとく取り払った話が、くわしく書かれてあるが、今、ここで問題にしなければならないのは、当時のユダ王国の人たちが、今日のモーセの五書に出てくるような厳しい掟を、そのときまで、まったく知らなかったらしい、ということなんだよ」
「ヨシヤのとき見つかった〈律法の書〉というのが、モーセの五書の中の申命記ですね」
「『多分そうだろう』と、ほとんどの聖書研究家が言っている」
「見つかったのがヨシヤ王のときだとしたら一体、いつ誰が書いたんだ?」
「さあ、そこが大問題なんだが……一八世紀の中ごろまで、モーセの五書は、モーセが書いたもの、と思われていたのが、だんだん聖書批判学なんかが現われてきて、五書は、最終的には、ユダ族の捕囚以後(紀元前六世紀以後)にまとめあげられた――ということが、はっきりしてきた。しかし、その中でも、申命記だけは、少し性格が変わっていて、いつ誰が書いたか、についての意見が、かなり、まちまちなんだな」
「ヨシヤと側近の人たちが、こっそりつくりあげておいて、神殿の奥から偶然発見したように、芝居をしたという説もあるでしょう?」
「それは一応考えられる。しかし、もし、ヨシヤのときに、神殿の奥で発見された〈律法の書〉が、今日の申命記だったとすれば、あれだけの量とあれほどに詳細な内容を、短期間にまとめあげるには、なんらかのよりどころがあった、と考えなければならない――とすれば、その底本はなんだったか? となってくると、ふたたび、かのフロイドが提起した問題が思い出されるわけだ。――『イスラエルよ聞け、われわれの神、主は、唯一の主である』(申命記六-4)……もしも、フロイドが主張したように、このアドナイ(主)=YHWHが、じつはアトン(太陽神レエだったとなると、申命記という書は、一九世紀以降の聖書批判学者たちの推定とは逆に、紀元前一四世紀のイクナトンの時代にまで、その〈原典〉のありかをさかのぼらなければならなくなる。もちろんこんなことは、すべての聖書研究家が否定するにちがいない。それにしても、申命記が、『ほかの神々に仕えてはいけない。それらの像も名前も全部こわして削りとらなければならない』と、くり返しくり返し命じていることは、いまだに研究者たちを困惑させている問題なのだ。もともと唯一神を崇めて趣いる民に向かって、なぜこんな戒めを、しつこくしなければならないのか、とね。しかし、フロイドの仮設にしたがうなら、この疑問は氷解する。〈唯一の神ならざる神々〉――アモンの神殿の神官たちと、全力をあげて闘ったイクナトンならば、この対立意識は当然だった。ことに、『また刻んだ神女の像を切り倒して、その名をその所から消し去らなければならない』(一二-3)などというのは、イクナトンの時の状況にそっくりじゃないか。……それからまた申命記には奴隷をいたわらなければならないことがくり返されているが、『あなたがかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が、あなたをあがない出されたことを記憶しなければならない』――こういう言葉が、もし、イクナトンが若き日のヨセフに語ったものだったとしたら、どうだろう……そう思って 気をつけはじめると、申命記の全文を、いちいち問題にしなければならないという気になってくる。……いずれにしても、ヨシヤの時に発見されたものが、〈いわゆる申命記〉であって、その申命記には、それ以前に書かれた、なんらかの底本があったとすれば、それはイクナトンからヨセフヘ、そしてヨシヤからエフライム族の子孫たちに伝わったものだったかもしれない――という仮設を、一応たてて見ずにはいられないんだ。……となると、ヨシヤ時代より前のユダ王国側が、唯一の神ヤハウェに忠実であるのは自分たちだけであって、イスラエル王国は終始、異教的な偶像を拝んでいた、と一方的に非難するのは、当たらないといわなければならない。それなら、そのヨシヤ以後はどうかとなると、この〈律法の書〉を原動力として、国の総力をあげてかかった戦争が失敗に終わって、ヨシヤ自身が戦死するし、この書が発見された年から三五年ばかりでユダ王国は完全に滅亡してしまった。そして、その後のユダヤ人にとって重大な意味を持つ、かのバビロニア捕囚の時代がはじまる……つまりね、『ユダ族lというよりは、むしろエルサレムの神殿に仕える祭司こそ、ヤハウェ信仰の唯一の正統派であって、彼らにそむくものは、すべて異教である』と、強烈に言いはじめるのは、そのときからなのだ」
「しかし、なぜ、そう急に変わったんだろうね」
「理由はいろいろあるだろうが、なんといっても申命記の影響は大きかったと思うな。なにしろ申命記という書物には、すべての人間に対して、というより、鳥獣や樹木にさえも思いやりのある博愛主義が説かれている反面、ヤハウェに従わない者には、残虐のかぎりの報復を宣告しているんだ。
――『見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に、祝福と、のろいとを置く、もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福をうけるであろう。
もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった神々に従うならば、のろいを受けるであろう(申命記一一-26~28)』といったような、神の祝福と呪いが、重ねあわせて説かれている」
「その両面ともイクナトンの思想だというわけか? それとも元来は博愛主義だったのをヨシヤ王以後のユダ王国系の人間が、従わなければただではすまさないぞ、というのを、書き入れたんだろうかね」
「そこが非常に断定しにくいところだが、とにかくユダヤ人が〈神にそむいた罪〉を意識するようになったのは、ユダ王国が滅亡して捕囚時代に入ってからのことだろうな」
「モーセの五書が、いわゆる、厳正なる律法の書としてのスタイルを調えたのも、その時代ということになるのか……」
「たしかに、捕囚時代から、その作業は、はじまっただろう……そして、本当に完成するのは、捕囚が終わって一○○年ほど後のことらしい。だが、その裏面には深刻ないきさつが、かくれているんだ。――バビロニアがペルシア帝国に征服されて、紀元前五三八年に、それまで六○年間バビロニアに捕囚されていたユダ族の人びとが、ペルシアのキュロス王から、故国に帰るゆるしをもらうね、そして、エルサレムの神殿の復旧も許可される。ところが帰国してみると、エルサレムとその周辺には、捕囚期間中もずっと本国に残留していた庶民たち――旧ユダヤ王国やイスラエル王国の下層庶民たちと、アッシリア帝国時代に強制的に移住させられてきていた異民族たち(列王紀(下)一七-24参照)が、いたるところに住みついていて、もと所有していた放牧地や家屋敷を返してくれない。バビロニアからひきあげてきた人びとは途方にくれた。とうてい神殿の再建どころの状況じゃない。ところが一○○年ばかりたって、紀元前四四四年(一説では三九七年ごろ)〈モーセの律法に精通した学者〉である祭司エズラが、神の律法を携えてバビロニアからやってきたことによって、事態が急転することになった。というのは、そのときのペルシア国王がエルサレムへ帰るエズラに対して、『神の律法に照らしてすべてのユダヤ教の信者を裁き、その教えを守らない者を投獄し、財産を没収し、追放し、あるいは死刑にする権利』を与えたからだ(エズラ記七章参照)」
「そのエズラが持ってきた神の律法というのが、モーセの五書だったわけか」
「完全にではないが、ほとんど同じものだったろう」
「その、神の律法が、残留組と引揚げ組との利権衝突の事態を急転させたんだな?」
「それは見事に効を奏した。最大のきめ手は、レビ記(二五-8以下)にある〈ヨベルの年〉の制度だったろう。つまり『五○年に一回まわってくるヨべルの年には、すでに売り渡した土地でも、ユダヤの旧地主は、無条件でそれをとり返すことができる』という神の徒だ」(二五-28、31)
「……捕囚時代が約六○年で、しかもそのあと一○○年たっていたのなら、エズラが帰ってきたときは、その間すくなくとも二回はきている計算になるな」
「当然、すべての土地も建物も、捕囚以前の持主の手にかえさなければならないわけだ。しかも、それは、大昔からの神の掟なのだから、もし、それに従わないものがあったら、財産を没収し、追放し、死刑にしてもいいというのでは、誰ひとり異議をとなえようがない」
「残留組の完全な敗けだな」
「モーセの五書をよく読めば、ヤハウェを信仰する者に都合がよくて、異教徒は徹底的に排撃しろ、ということになっている」
「そうなると、きみ、さっき言ったことは?――そもそも旧イスラエル王国の十部族は、はたして異教を信じていたのかどうか、って」
「そこなんだよ。ユダ族の側では、『主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった』
(列王紀 下 一七-18)と断言しているのに対して、旧イスラエル王国内に住んでいた人びとは、――この人たちが、のちのサマリアびとになるわけだが――エズラが持ってきたモーセの五書は、にせものだ』と反駁して、その論争は、延々、今日にまでおよんでいるんだ……」
桃楼じいさんは、ふっと小さく息を吐くと、かすかに首をかたむけて、博士を見やった。
第三章 サマリアびとの嘆き
ほんとうの名はタエブ
「それにしても、ぼくは〈失われた十部族(ザ ロスト テン トライブズ)〉ときくたびに気になるんだが、新約聖書に〈サマリアびと〉っていうのが、何度もでてくるね、あれはどうなんだ? 君の話聞いてると、旧イスラエル王国時代からの居残り組だったんじゃないかって気がしてきたけれどね……」
「うん、その仮定は、重大なポイントなんだ。そのことを、はっきりさせないうちは、十部族の行方さがしをしたって意味がない。……そこで、まず第一ばんに、ユダヤ人は、サマリアびとを〈クタ〉とよぶ習慣がある、ということ……」
「クタ? それどういう意味?」
「イスラエル王国が、アッシリア帝国によって滅ぼされたときのことが、〈列王紀〉にあるだろう……『かくてアッシリアの王は、バビロン、クタ、アワ、ハマテおよびセパルワイムから、人々をつれてきて、これをイスラエルの人びとの代わりに、サマリアの町まちにおらせたので、その人びとはサマリアを領有してその町に住んだ』(列王紀(下)一七-24)」
「その、クタから連れてこられたというのは、どういう人たちだったんですか
?」
「エチオピアを古くはクタといったんだ」
「ああ、きみが、エチオピアが十部族に縁がふかいって言ったのは、それか
……」
「要するに、ユダ族の側では、イスラエル王国が滅亡したとき、十部族のひとり残らずが、アッシリアに連れていかれて、そのあとにエチオピア人が移住してきたのだから、十部族の子孫なんか、残っているはずがない、という主張だ」
「サマリアびとの側では、認めないだろう?」
「認めるどころじゃない。――自分たちこそ、イスラエル十部族の正統な子孫で、純粋なモーセの教えを伝えているのはサマリアびとだけだ、と、今日でもなお主張している。だが、それだけではなくて、〈サマリアびと〉という呼びかたについても、問題があるんだ。
……そもそもサマリアというのは、列王紀((上)一六-24)によると、イスラエル王国に内紛があったとき、それを平定して新しく即位した王が、セメルという人のもっていた山を買い取って、そこに町をたてたから、そのセメルにちなんでサマリアとよぶことになった、と書いてある。しかも、そのサマリアという町は、そのとき以来、イスラエル王国の首府になったのだが、その後、イスラエル王国は、アッシリア帝国に亡ぼされて存在しなくなったので、旧イスラエル王国の地域をサマリアとよぶことになった――というのが、ユダ王国側の解釈だ。ところが、サマリアびとの側では、サマリアの語源は、〈シャーマール〉だというんだ。――〈守る〉とか、〈大切にする〉というような意味だそうだ。つまり〈サマリアびと〉とは、〈モーセの律法を正しく守る人〉という意味だ――と主張しているわけだ」
「客観的には、どっちに歩があるんだ?」
「両方の主張が、あまりにくいちがっているから、歴史家も手を焼いているようだ。……さっきも言ったとおり、捕囚直後から一○○年くらいの間は、どちらかというと、サマリアびとの側が、ひきあげてきたユダ族たちを苦しめる立場にあったようだが、エズラが、例の〈モーセの律法書〉を持ってきてからは、すくなくともエルサレムや、その周辺に住むサマリアびとは、容赦なく〈異教徒〉というレッテルを貼られて、徹底的に虐待されることになったらしい。……ユダヤ人とサマリアびととは結婚できないし、日常の交際にも、いろいろむずかしい禁忌(タブー)ができた……」
「まるで、アンタッチャブル、ていう感じじゃないんですか? ユダヤ人が、サマリアびとの汲んだ井戸水をのむことさえ問題なんでしょう? ヨハネの福音書に、ありましたね」
「ああ、例の〈ヤコブの井戸〉の話だね、……イエスが通りかかってサマリアの女に水をのませてくれと言った――あの話は、実に意味深長なんだ。――あの井戸のあったところが、大昔のシケムなんだよ。ヨハネ福音書では、スカルとなっているがね」(ヨハネ四-5)
「なぜ、シケムでなくてスカルなんですか」
「そんなことは、福音書の著者に聞いてくれ。あるいは井戸のあったところだけがスカルで、シケムは、もっと広い範囲の地域を含めた地名だったかもしれない……ほら、十二部族の長老たちが、エフライムの族長のヨシュアを中心に集まって、宗教連盟の契約をむすんだ場所だ(ヨシュア記二四章)。そのうえ、例のヨセフの墓もあるところ(二四-32)、いや、そればかりじゃない。十部族が、ユダ王国と分裂してイスラエル王国を造ったときに最初に首府をおいたのも、このシケムなのだ(列王紀(上)一二-25)。そして、シケムのすぐそばには、ゲルジムという山がある。――そこには、申命記に『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地に、あなたを導き入れられるとき、あなたはゲルジム山に祝福を置き、エバル山に呪いを置かなければならない』(一一-29)と書いてある
ところだ。シケムは、このゲルジム山とエバル山の問にあるんだがね、そこはまた、ヤハウェが、アブラハムの前に現われて『わたしは、あなたの子孫にこの地を与えます』と言ったので、アブラハムがヤハウェのために祭壇を築いたところでもあるし(創世記一二-6)、ヨセフの父親のヤコブが、ながい間住んでいたところでもあるんだ(創世記三三、三四章)……そこでサマリアびとは、『イスラエル全土で最も神聖な場所は、このシケムを見おろすゲルジムの山だ』と主張して、エルサレムに対抗する神殿をたてた。多分、それは、エズラが〈モーセの律法の書〉を持ち帰ってから、さらに一○○年以上たった、紀元前三二八年ごろだろう、といわれている。……もっとも、この神殿はその後、といっても紀元前一二八年ごろの話だが、――ペルシア帝国以来 ながい間、外国の属領だったユダヤが、当時のシリア王国に反旗をひるがえして、四百数十年ぶりで独立国になって、レビ族出身のハスモン家の王朝が生まれたとき、ヒルカヌス一世という、〈王と大祭司を兼ねた人物〉によって、完全に破壊されてしまった……」
「それで、ヨハネ福音書では、サマリアの女がイエスに向かって、『私たちの先祖は、この山で礼拝したのですが、あなたがたは、礼拝すべき場所は、エルサレムにあるといっています』(四-20)
と言っているわけですね」
「そう、イエスの時代、ゲルジム山の神殿は、ユダヤ人によって壊されたままになっていたから、『この山で礼拝したのですが……』と、過去形で言っているのだ」
「それで、そのサマリアびとは、現在はどうなってる?」
「そうだ、それを忘れてはいけない……いわゆる純粋なサマリアびとと自称する人びとは、今日でも、問題のシケムとゲルジム山のそばに、ほんのわずかだけ残っている」
「じゃあ、やっぱり十部族の子孫は生き残っているんだな?」
「彼らの主張するところを一○○パーセント信用するならば、そうなるかもしれない。しかし、われわれがさがしているのは、血筋そのものよりも、むしろ教義の問題だ。つまり、彼らが、守り続けているものが、はたしてほんとうに、いわゆる〈純粋なモーセの教え〉か、どうか……」
「それは、ユダヤ教の教義の内容とくらべての話か?」
「細かに分析すると、たしかにサマリアびとの方が、今日のユダヤ教よりも、より古い形式を残しているのではないかと見られるところが、どっさりある。ことによく問題になるが、たとえばペンテコステ(初穂の祭 七週祭 五旬節)はかならず日曜日でなければいけない、というような、祝祭日のきめかた。――これも、当時のエルサレムの神殿でおこなわれていたのと比較して、サマリアびとの解釈のほうが、正しいのかもしれない。……だが、とくに劃然(かくぜん)たるちがいは、いわゆる救世主の名前――名前だけじゃない、概念が、まるきりちがうんだ。――ユダヤ教のほうでは例の〈油を注がれた者〉という言葉から生まれたメシヤ(ギリシャ語訳はキリスト)に大きな期待をかけているだろう? ところがサマリアびとは、絶対に〈メシヤ〉とはいわない。〈もとへ戻す人〉あるいは〈再来する者〉という意味で、タエブというんだ。……そのうえ、ユダヤ教の救世主(メシヤ)は、ユダ族のダビデの子孫から生まれることになっているが、サマリアびとの救世主(タエブ)は第二のモーセとして、サマリアびとの子孫から生まれることになっている」
「ということは、『イスラエル十部族から、そのなかでもエフライム族から救世主が出る』ということになるな?」
「たしかに、そうした大きなちがいが目につくが、逆に共通点を拾いあげることになると、現存している〈サマリアのモーセの五書〉は、捕囚後に、徹底的に改ざんされて今日の姿となったはずの、いわゆるユダヤ教やキリスト教の聖典と、似ているところが多すぎるといわなければならない。もっとも言い伝えでは、ローマ皇帝のハドリヤヌスのときに、ユダヤ人の最後の反乱があって(一三二~五)、これのあおりで、サマリアびとの教典は全部、焼き払われた、というのだから、そのとき、大昔から伝えられていた、ほんものの〈サマリアのモーセの五書〉は、灰になってしまったのかもしれない。……だが、それより、もっと気になるのは、今日でもサマリアびとの大祭司が、アロンの子孫であることを、誇っている点だ。ただし、そのアロンの直系といわれる血統は、一七世紀で絶えたのだが、その後もアロンの叔父のウジェルの子孫と称する人たちが、代々、大祭司になっている(出エジプト記 六-18 参照)。……ところで、もし、サマリアびとが十部族の子孫であって、モーセの教え――ということは、エジプト脱出以来のヨセフやヨシュアの信仰――を正しく伝えているのならば、捕囚後に創作されたといわれる『祭司はアロンの子孫にかぎる』という掟に、こだわっているのがふしぎだ」
「というと、よしんば今日のサマリアびとが、十部族の子孫であったとしても、すでに〈純粋なモーセの教えを守る者〉ではなくなっているということだな?」
「残念ながら、そう考えざるをえない」
「ユダヤ教が、なんとなく流れ込んだか、あるいは力関係で、サマリア側が妥協したか……しかし、いずれにしても、今の段階では、エフライム族の伝統であるべきヨセフやヨシュアの信仰は、結局、消えた、と考える以外にないのかな
……」
「それを、なんとか探し出したくて、エフライム族の行方を追いかけているんだよ」
「トロイ発掘のシュリーマンのごとぎ執念だな」
博士はゆっくりと立てた膝を、両臂(ひじ)をのばしてかかえると、おだやかにわらった。
新しい契約をたてる日
「君は、同じシュリーマンでも、夢想的少年時代の彼にくらべたいんだろうが、これでも、そう行きあたりばったりにさがしまわっているわけじゃないんだ。――というのはね、もし、かりに、十部族の流れを汲んだ思想の持ち主があったとしたら、その人はまず第一に、エルサレムの神殿を、信仰の中心とすることに対して、なんらかの形で異議をとなえるはずだと思うんだ。……それから、さっきも言ったとおり、アロンの子孫でなければ祭司になれない、ということを主張するはずもない。だが、それよりも、もっと重大な条件は、もしエフライム族の秘密の伝承をうけついでいる人物がいるとしたら、サマリアびとはもちろんのこと、十部族やエフライム族を、異教徒として、口ぎたなく罵ったりして、否定するはずがない、ということだ。……」
「そういう条件にかなっている人物が、歴史上にいるのか?」
「旧約聖書の中でも、絶無とはいえない。たとえば、預言者のホセア――彼が残した言葉の中に、
『エフライムよ、どうしてあなたを捨てることができようか、イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。わたしは、わたしの激しい怒りを現わさない。わたしは、ふたたびエフライムを亡ぼさない(ホセア書一一-8~9)』
というのがある」
「あら、ホセア書には、エフライムを否定している言葉だって、たくさんあるでしょう?」
「当然さ。そういうカムフラージュが施してなかったら、聖書の正典として今日まで残っていなかった……なんでも『そこに、そう書いてあるから、そうなんだ』と思うくらいなら、本なんか読まないほうがいい」
「それにしても、よく残ったな、ユダのほうの権力者には不愉快だろう……」
「大体、預言書というのはね、エルサレムの神殿の権威をかさにきて独裁体制を貫こうとする権力者を批判する声がユダヤ地方以外の国々に亡命していた、いわゆるディアスポラ(離散の民)の間に積もりつもって、長年ひそかに発酵をつづけていったものなのだ。だから、表面では従来どおりエルサレムの神殿を讃美する言葉を並べながら、その裏に辛らつな皮肉が充満していることが多い」
「ホセアというのも、その一人なんだな?」
「ことにホセアという預言者は、イスラエル王国生まれの庶民で、彼がまだ生きているうちに、イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまったはずだ(BC七二二年)……」
「じゃあそのホセアの預言というのもほんとうは十部族が語りついでいたものかもしれないな? メソポタミヤかエチオピアに追放された人たちの間で……」
「ところがなぜか、それが一○○年ほどたってから、エレミヤの耳に伝わってきたらしい……エレミヤはユダ王国側の預言者なんだ」
「でも、エレミヤは祭司の家柄じゃないんですか?」
「……たしかに、このエレミヤ書に『ベニヤミンの地アナトテの祭司の一人であるヒルキアの子エレミヤ』と書いてあるね(--1)しかしこの、ベニヤミンのアナトテというところは、ソロモン王によって祭司職をうばわれて追放されたアビアタルが、隠棲したところだ(列王紀 上 二-26、27)。
ソロモン王は、自分が王位に即こうとしたときに反対の態度をとったアビアタルを憎んで、死刑にしたかったのだが、アビアタルがダビデ王時代の元勲(げんくん)だったので殺すわけにはいかなかった (サムエル記 上 二二-11~23、同 下 一五-24~36、二○-25 参照)。ところでアビアタルとは反対に、ソロモン主の即位に賛成協力した、ただ一人の祭司で、王に油を注ぐ役目をはたした功績と、このアビアタルが失脚したおかげとで、エルサレム神殿の大祭司職をその後、永久に独占できることになったのが、ザドクとその子孫たちだった(列王紀--5~8、一-32~39)。実は、捕囚後に完成したモーセの五書の中で、くり返して『祭司はアロンの子孫にかぎる』と言っているのは、エルサレム神殿の大祭司になるのは、アロンの子孫であり、その中でも、ザドクの子孫にかぎる』ということを、暗に宣言しているわけなのだ(エゼキエル書四三-19、四四-15参照)。それだからこそ、捕囚後、例の〈モーセの律法の書〉を持ってエルサレムに帰ってきたエズラも、ザドクから六代目の子孫だったエズラ七-1・2)。こうしてザドクの直系は、一貫して、大祭司であると同時に、ユダヤの総督にひとしい実権を握りつづけた。もっとも、シリア国王のアンチオコス・エピファネス(在位一七五~一六四)以後になると、昔日(せきじつ)の面影はなくなるが、それでもなお、ザドクの子孫とそれにくみする人びとは〈サドカイびと〉とよばれて、ずっとサンヘドリン(最高法院)を牛耳っていたわけだ。それは、エルサレムが、ローマ軍によって壊滅する直前までつづいた」
「そこで話を戻させてもらうと、……エレミヤは祭司ではあっても、ザドク家の出身者ではなかった。むしろ、反主流派の一人だったわけだな」
「それで、エルサレムの祭司や国王は、エレミヤの預言を聞こうとしなかったんですね」
「とにかくエルサレムの神殿や、そこで行われていた宗教儀式に対するエレミヤの批判は手厳しい。
『主を拝むためにこの門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。……〈これは主の神殿だ〉という偽りの言葉を頼みとしてはならない』(エレミヤ書七-2~4)とか、そのほか、『あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭(はんさい)と犠牲とについて、彼らに語ったこともなく、また命令したこともない……』(七-22)……そしてさらにエレミヤは、こう言ってるんだ――『エフライムはわたしの愛する子。わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼を慕っている。わたしは、かならず彼をあわれむ』(エレミヤ書三一-20)」(エレミヤ書三-Nも参照)
「なんだ? さっきのホセアの言葉と、似てるじゃないか」
「そうなんだ。イスラエルの預言者ホセアの姿が消えてから、ざっと一○○年後に、こんどはユダ国の側から、消えた十部族たちとの和解を、堂女と口にする人間が現われたのだ」
「エレミヤという預言者は、ユダ王国がバビロニアと戦うことにも反対だったのでしょう?」
「旧約に出てくる預言者は、熱烈な国粋主義者や主戦論者が多かったのに、エレミヤはめずらしく、そういう狂信的な言動が国を亡ぼすもとになることを知っていた。そればかりじゃない。彼はホセアと同じく、イスラエル族とユダ族が手を握りあえる日がくることを切望していたんだね、だからこそ彼は、こうもいっている。――『主は言われる。見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約をたてる日がくる。この契約は、わたしが、彼らの先祖を、その手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない』(エレミヤ書三一-31・32……」
「それは、旧約聖書のモーセの五書を、否定していることになるのかね」
「非常に微妙なところなんだ。ユダヤ教徒の多くは、エズラが例の〈モーセの律法の書〉を持ってエルサレムに帰ってきたときを〈新しい契約をたてる日〉と解釈する。なぜかというと、そのとき、エルサレムに住むユダヤ人全員が、新しく与えられた掟のすべてを忠実に守ることを、かたく誓って契約の書に印を押したからだ(ネヘミヤ記九-38)。つまり、エズラのときに、エレミヤが預言した〈新しい契約をたてる日〉は、成就したと解釈するわけだ」
「じゃあ、現在、われわれが読むモーセの五書が、新しい契約ということになるな」
「だが、キリスト教徒は、それに対して、キリストとよばれるイエスが現われて、神と人間の仲をとりむすんで、新しい契約のたてかたを教えてくれたときこそ、エレミヤが預言した〈新しい契約をたてる日〉だったと主張する」(コリント人への手紙一一-25、へブル人への手紙八-6~一○-25)
「なるほど、キリスト教の新約聖書と、ユダヤ教の旧約聖書との分岐点だな」
「しかしね、正確に、言うと、〈新しい契約〉という言葉は、それ以前にも、宗教改革を志す人たちが、独創的な教団を組織するときに、よく使っているんだよ。たとえば、あの〈死海写本〉で有名なクムラン宗団というのがあったろう」
「たしか、エッセネ派という中の一つのグループだったか?」
「エッセネ派と断定できるかどうかは問題なんだが、とにかく彼らが、キリスト教より古いことは、はっきりしている。そのクムラン宗団でも、〈新しい契約〉という言葉を使っているんだ」
「クムランも、エフライムのほうの流れなのか?」
「ところが、彼らが書き残しているものの中には〈エフライム〉という言葉を、〈クムラン宗団の敵〉の代名詞として、なんども使っている……」
「そこにもなにかドラマがあるんだな?」
「もともとクムラン宗団というのは、さっき言ったシリア国王の、アンチオコス・エピファネスのころに、同じザドク家の中での勢力争いに敗れて、エルサレムの神殿を追われた組の残党らしいのだ。だから、自分たちこそザドク家の正統だという意味で、〈ザドクの子〉とも名乗っている……」
「双方とも〈新しい契約〉という言葉を使いながら、クムラン、エフライムはもともと相容れないか……じゃあキリスト教徒は?」
「イエスはいつも、サマリアびとに好意を持っていたんでしょう?」
「ところで、そのイエスという人物は、実在したんだろうな?……」

福音書の虚と実と
「それはなかなかの難問だな。なにしろキリスト教徒以外の者が書いたイエスという人物についての記録は、一つもないのだから……いや、それどころか、例の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の著者たちが書いていることでさえ、はたしてイエスそのものの実像かどうか、その点が、はなはだ疑わしいんだ。――ずいぶん乱暴な言いかただと思うかもしれないが、それならば、たとえばイエスの系図の問題一つとりあげてみても、実にふしぎなんだ。……〈マタイによる福音書〉(--1以下)は、『アブラハムの子であるダビデの子、イエスキリストの系図』という言葉ではじまって、アブラハムから〈キリストといわれるイエス〉までの系図が、整然と書いてあるね、では、ルカはどうか――こちらのは順序が逆で、イエスからはじまって、アブラハムどころか、この世のはじまりのアダム、そして神にまでさかのぼる系図が書いてある。だが、そんなことは、どうでもいいんだ。問題は、二つの系図に矛盾がないか、ということだ。――ところが、だよ、……アブラハムからダビデの間でも、だいぶ食いちがっているところがあるが、それはともかくとして、それどころか、ダビデから以降ヨセフの代まで、まったくの別ものなんだ(ルカによる福音書三-23~38参照)
「それ、ほんとうか?!」
「〈マタイ〉では、ダビデからソロモンとなって、ベアム、アビア、アサ……と、ユダ王国の歴代の王様の名が並んでいるが、〈ルカ〉のほうは、ダビデつぎがナタン、マタタ、メナ……と、ソロモンの母と同じバテシュァから生まれた、ナタンの系図になってしまう(歴代志 上 三-5)。したがって、〈マタイ〉と〈ルカ〉の系図を比較すると、すくなくともダビデ以後の部分では、イエスの父がヨセフであること以外には、同じところがまったくない、といってもいい」
「ふ-ん、マタイとルカのどっちが嘘なのか、あるいは両方とも……ということ以外にないな、なんといっても、一人の人物の系図なんだから……」
「嘘を書いたのがどっちだったにせよ、その動機を考えてみるなら、福音書を執筆する以上、『イエスはダビデの子孫である』ということを、是非とも証明する義務がある、と思ったからにちがいない。
「イエスはキリストである。キリストは、かならずダビデの家系から出る――という思想が、福音書が生まれる前の、キリスト教徒の中で、すでに定着していた、ということだろう」
「多分、そうだと思う。パウロも、〈ローマ人への手紙〉(一-3)に、『御子は肉によればダビデの子孫から生まれ……』と書いているから……。ところが、〈ルカ〉(二○-41~44)では、イエスは、『キリストは、ダビデの子孫から生まれるのではない』という意味のことを、はっきり言っている。――と書いてある、といわなければ正確でないが――どうやら、〈ルカによる福音書〉の著者は『イエスが、ダビデの子孫である』とは、思っていなかったらしい。だが、その点では、〈マタイ〉の著者も、同感だったのではないだろうか? (マタイによる福音書二二-41、45参照)」
「系図を肯定していないのなら、わざわざ福音書の冒頭に、もち出すことはいらないでしょう?」
「ところが、その〈イエスの系図〉の中に福音書を書いた人たちの本心が、はっきり顔を出しているんだよ……」
「イエスはメシヤじゃないとでも言うのか?」
「そう、そうなんだよ」
「しかし、イエスが救世主じゃなかったらキリスト教は存在しえないじゃないか」
「いや、『救世主じゃない』とは言ってない。――『イエスはタエブだ』ということを暗示したかったんだ」
「タエブ? ああ、さっき出てたな」
「ほら、サマリアびとの救世主――〈もとへ戻す人〉〈再来する者〉……つまり、第二のモーセだ」
「……というのは、ユダ族のメシアに非ず、サマリアびとの救世主である、か……」
「一見、マタイとルカは、まったく違う系図を書いているが、実は一ばん大切なところで完全に一致してるんだ。つまり『イエスの父がヨセフである』というところでね」
「父がヨセフ? 大工だったというヨセフだろう? なぜ、それが、一ばん大切なところなんだ?」
「イエスと発音しているから、気がつかないかもしれないが、元来、この名前はギリシャ風につづれば Iesous で、へブライ語なら Yēshûa(原文まま)(יְהוֹשֻׁעַ, Yehoshuʿa)だ。『YHWHは救い』とか、『YHWHの救い』とかの意味だそうだが、要するにギリシャ語の聖書では、イエスもヨシュアも区別はないんだ」
「まてよ?……『イエスはヨシュア』で、『ヨシュアの父はヨセフ』か……」
「そう……そして、〈父〉ということは〈先祖〉とイクオル(equal)だ」
「あ、!……イエスはエフライム族、ということなのか?」
「そうだったら、人間としてのイエスが、サマリアびとに共感を持つのは当然ですね、――旅人が強盗に襲われたとき、ユダヤ人の祭司は助けなかったのに、サマリアびとは親切に世話をした話を、隣人愛の説明にひいていたり……あれも〈ルカ〉だったでしょう?」(一○-30~37)
「そういえば、君 シケムとかいう町――新約聖書ではスカルか、――あそこの井戸のところで、イエスが、サマリアの女に話をする場面、あの話が意味深長だっていったね?」
「イエスの伝記を語る人の多くは、彼の布教はほとんどガリラヤの地方で行われたといっているね、そして、それはたしかに事実らしいのだが、福音書は、『預言者は、自分の故郷では敬われないものだ』とイエスが語った――とも書いてある(ヨハネ四-44、ルカ四-24)。――ということは、イエスは、あれほど多くの人に説教しながら、本当に手ごたえがあったと思えたことが、めったになかったという証拠だ。ところが、〈ヨハネ〉第四章に出てくるサマリアの〈ヤコブの井戸〉での物語だけは、まったく例外で、イエスはサマリアの女と話しあった後で、食事がのどに通らないほど感動している(四-27~38)。いったい、そこで、なにが起こったのだろう? ――最初は、ただ一杯の水をのませてくれと話しかけたのがきっかけで、イエスは『わたしが与える水をのむ者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧きあがるであろう』という。その言葉を聞いたサマリアの女は、イエスを預言者だと思い込んで、『わたしは、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。そのかたが来られたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせてくださるでしょう』と言う。するとイエスは『あなたと話している、このわたしが、それである」と答える。女は町へとんで行って、『私が会った人はキリストかもしれない』とみんなに告げる。福音書には、それにひきつづいて、『そこでサマリアびとたちは、イエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたい、と願ったので、イエスはそこに二日間、滞在された。そしてなお多くの人びとが、イエスの言葉を聞いて信じた。
彼らは女に言った。わたしたちが信ずるのは、もう、あなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、わかったからである』……と書いている。ところで、この話、一見、数あるイエスの説教の中のひとコマにすぎないようだが、サマリアびとの角度から眺めると、そこには、驚くべきことが、かくされていることが、わかるのだ。
たとえば一ばん最後の、『この人こそ、まことに世の救い主である』といった場合の〈救い主〉は、間違いなくタエブだったはずだ。そしてさらに、サマリアの女が『さあ、見に来てごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」と、みんなに告げたときの〈キリスト〉も、タエブだったにちがいない。なぜかというと、サマリアびとは、約束された神の王国がくるときには、例のタエブがゲルジム山の上に降りてきて、彼らに新しい奥義をさずけてくれることを、固く信じていたのだから。――しかも、サマリアびとにとって非常に大切な讃歌のなかには『水はタエブの器から流れ……』という意味の言葉がある。おそらくサマリアの女は、イエスが、『わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧きあがるであろう』と言ったとき、すぐ、タエブが、ゲルジム山に降臨してくる光景を連想したのだろう。……だが、そうなるとさらに問題になるのは、このヤコブの井戸の物語は、イエス自身というよりは、〈ヨハネによる福音書〉の著者が、サマリアびとの教義をくわしく知っていなければ、書けない話だということだ」
「そうすると〈ヨハネ〉の著者は、『イエスはメシヤではなくサマリアびとのタエブであった』と、胸中に思いながら、ギリシャ語のキリストという言葉を使っていた――ということになるのか?」
「〈ヨハネによる福音書〉の第一章(43以下)で、ピリポが、ナタナエルに言っている。――『わたしたちは、モーセの律法にしるしており、預言者たちがしるしていたヨゼフの子、ナザレのイエスにいま出会った」……この場合の、〈モーセが律法にしるしている〉というのは、申命記にある、『あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのような一人の預言者を、あなたのために起こされるであろう』という、モーセの言葉を指しているのだが、言いかえれば、それは〈第二のモーセ〉であるし、〈再来する者〉であるタエブを指しているはずだ」
「再来するのが第二のモーセだな? そのモーセはエジプト語で〈子ども〉だったな? そうすると新約聖書にやたらに出てくる『人の子』というイエスの自称ね、あれは〈モーセ〉っていう暗示だということにならないか?」
「面白い! そのアイデアについては、あとでゆっくり論ずる必要があるな……ところでヨハネの第一章にもどるけれども、ここではイエスのことを、〈ナザレのイエス〉とよんでいるが、〈マタイによる福音書〉(二-23)には、ヨセフが、幼な児とその母とをつれて、ナザレという町に行って住んだのは、『預言者たちによって彼にナザレびとと呼ばれるであろう、といわれたことが、成就す
るためである』と書いてある。ここに出てくる〈ナザレびと〉(Nazoraios ナザレイオス)というのは、ナザレの人(Nazarenos ナザレノス)ではなくて、元来は〈守る者〉つまり儀式や密儀を大切に守る人という意味らしいのだが、いわゆるクリスチャン(Xristianos クリスチアノス キリストに組する者)というよび名が、小アジアのアンティオキアの教会を中心とするパウロの弟子たちの間で、さかんに口にされるようになるまでは(使徒行伝一一-22~26)、イエスの弟子たちは、ほとんど、ナザレびと(ナザライオス)とよばれていたのだ
……(使徒行伝二四-5)」
「そのナザレびとというのが、〈守る人〉の意味だとすると、さっき、君が言った、サマリアの語源だとしている〈シャーマール〉と同じことにならないか?」
博士は、時折りメモを記入している大判の雑記帳を、見台よろしく曲げた膝の上にのせて、眺めながら聞く。
「そうなんだ。だから〈ナザレびと〉というのも、すくなくとも彼ら自身のグループの中では、〈モーセの律法を正しく守る人〉の意味をふくめているかもしれない。……となるとね、聖書研究家の多くがよく『四福音書の中でもとくに、イエスがキリストであることを強調しているのが〈ヨハネ〉なのだ』と言っているが、そのキリストとは、はたしてメシアだったのか、それともサマリアのタエブだったのか……」
「あの、『メシア訳せばキリスト』と、はっきり書いてあったのは、〈ヨハネ〉ではなかったでしようか。』
「そこがくせものなんだよ。『イエスはタエブ』という意識が強ければ強いほど、もともと『聖ななる油を注がれた者』というだけの意味をもつメシアとかキリストという言葉を表面に出す必要があったんだ。なぜならば、イエスが死刑にされた理由は、そこにあったに相違ない。ユダヤ人の社会では、サマリアびとのシンパサイザーは、異端者であり、〈悪霊にとりつかれた者〉だったのだから
……(ヨハネ八-48)そういえば、それに関係すると思われるおもしろい話が、〈ヨハネ〉の第一一章(45~54)に書いてある。――例のサンヘドリン(最高法院)で『もし、このままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう』と心配して、イエスの問題を評議したときのことだが━━『彼らはこの日から、イエスを殺そうと相談した。そのためイエスはもはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた』……とある。……余計な話になるが、新約聖書の中にエフライムという地名がでてくるのは、あとにもさきにも、ここだけなんだ。元来、〈ヨハネによる福音書〉の著者は、パレスティナの地理にくわしかったらしいのだが、不思議なことに、このエフライムという町だけは、今日、はっきりとその場所をつきとめることができない。しかし、もし、そこが、〈エフライムという名の町〉ではなく、エフライム族の子孫たちが、かくれ住んでいたところだったとすれば、この、〈ヨハネ〉の第一一章の文章は、実に活き活きとしてくるわけだ」
「ふ-ん……イエスとエフライムの関係というのが、浮かび上がってくる感じだね……当然、サンヘドリンの連中は、イエスを生かしておくわけにいかない……か」
「しかし、福音書が書かれた当時は、――紀元七○年以降から一世紀の終わりにかけて――その執筆者たちは、いわゆる狂信的なキリスト教徒と、徹底してサマリアぎらいのユダヤ教徒との板ばさみになって、自分たちが心に描いている理想通りのイエス像を、ありのままに表現することができなかった。そこでやむをえず、エフライムの族長ヨシュアの物語をにおわすことによって、その真意をほのめかそうとした」
「なるほど……それで、〈ヨセフの子孫ヨシュア〉と、〈ヨセフの子イエス〉とを、意識的に重ねているわけか」
「これから先をいちいちくどくど説明するのはやめておくが、とにかく、なぜかイエスがエジプトから帰国しなければならなかったり(出エジプト記と比較)、荒野で四○日の食断をしたり(出エジプト記二四-13・18、三四-28と比較)、ヨルダン川のほとりから公けの活動がはじまったり(ヨシュア記三-7と比較)、一二人の使徒をえらんだり(イスラエルの一二部族)するわけだ」
「それなら、あの、イスカリオテのユダの裏切りの意味は、どうなる? あれもヨシュアの話と関係があるのか?」
「説教家にしても、小説家やシナリオライターにしても、およそイエスの生涯について語ろうとする人は、この、ユダの扱いかたで苦労するらしいんだな。イエスが神の子で、ユダが裏切ることを、前から知っていたのなら、なぜ彼を一二人の弟子の一人にえらんだのか? 彼が罪を犯すことを知っていたのなら、なぜ諭して止めなかったのか? ……これは、福音書をすこしまじめに読む人なら、
誰でもすぐ感じる疑問だ。だが、もっと不可解なのは、あれほど、終始一貫イエスについて、ありがたずくめの物語をのべている福音書の著者たちが、自分たちの仲間の中に、イエスを裏切った者があったことを、なぜ口をそろえて吹聴することが、できたのか? ということだ。われわれの現実として考えてみたとき、すぐひっかかることだ」
「たしかにそこが腑に落ちないな、聖書を一応読んだ印象では、ユダが裏切ろうが裏切るまいが、イエスの死刑には変わりなかったとしか考えられないよ」
「福音書には、『預言が成就するため』ということが、しきりに出てきますよね、ユダの場合も、なにか旧約にあるケースと、関係ないんでしょうか?」
「そこだ、そのところをじっと見つめなければいけない。もしイエスの生涯が、ヨシュアの物語と重なりあっているとしたらね、ヨシュアの一生だけでなく、その後のエフライム族の運命がどうなったか? ――つまりイスラエル王国の歴史はいうまでもないが、捕囚後のサマリアびとの境遇も、ひっくるめて考えてみる必要がある。……」
「あ、そうか!! ヨシュアの子孫――つまりサマリアびとを裏切ったものは、ユダ族だということか?」
「もちろん、そのこともね、だが、それだけでなく、エジプト脱出以来、ヨシュアからイエスにいたる純粋のモーセ(=イクナトン)の教えを、異端として葬ろうとするものは誰か? それはユダとレビとベニヤミンの三部族だ……」
「なるほど、それをイスカリオテのユダになぞらえたか……となると、ユダに裏切られたイエスと、残りの二人の弟子たちは、消えた十部族を象徴する効果もあるわけだな?」
「そこで、さっきの〈ヨハネ〉の一一章にでてくる、イエスが身の危険を感じてエフライムという町にかくれた話を思い出してみるとね、新約聖書には、そこ以外には、まったくエフライムという名が出てこないが、それだけにかえって、イエスを中心にしてエフライムを復興させようとする、かくれた運動があったのではないか? と想像したくなるんだ。なぜか、というと、使徒行伝に、イエスの死後、最初の殉教者といわれるステファノが殺されると、それにひきつづいて、まだキリスト教に転向していなかったパウロー当時はサウロだね――が、先頭に立って、キリスト教徒の家に押し入って、男や女をひきずり出して、つぎつぎに獄に渡して、教会を荒し廻った。そこで『散らされて行った人たち(イエスの弟子たち)は、御言(みことば)を宣(の)べ伝えながら、めぐり歩いた。(その中の一人)ピリポはサマリアの町に下って行き、人びとにキリストを宣くはじめた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって、彼の語ることに耳を傾けた』(八-4~6)と書いてある。……要するに、イエスの信仰が、どこよりも早く爆発的に拡がりはじめたのは、サマリア地方だったのだ。しかも、それは、パウロたちがおこなったような、ギリシャ語による布教ではなくて、アラム語による布教だったのだ――。ということは、今日われわれが、ギリシャ語やラテン語による福音書を通じてだけ理解しているイエスの教えとは、かなりちがう内容のものが、サマリア地方では語り伝えられていたのかもしれない。……そして、その秘密の教義が、例のアラム語によるイエスの教えを大切にする人びとの間だけに、ひそかに語りつがれて行った――だからこそ、その流れを汲むシリア教会の人たちは、旧イスラエル王国の地域ばかりでなく、ユダヤから、シリア地方全体を、エフライムと呼んでいたのではないだろうか?……」
「そうするとそのシリア教会が、中国に伝来したとき、シリアからパレスティナ一帯のことを、遏拂菻エフライム(Ephrim)とか拂菻(Phrim)とよんでいた、それが中国の歴史にまで残ることになった、という次第だな」
「もし、そうだとしたら、あの長安の石碑に刻まれてある『大秦景教』――つまりエフライム景教――という言葉の意味は、イエスの教えまでで止まらないんですね、ヨシュアからヤコブの子のヨセフにさかのぼって、もしかしたら、エジプトの唯一の神アトンにまで、つづいていくのでしょうか……」
私は、ほとんど独り言をつぶやきながら、降りつづいている雪の、無音の響きを五体で聞いていた。
