山本弘氏の解説
「山本さんはオカルト本が好きなんですか、嫌いなんですか?」と訊ねられたことがある。答えは「両方」である。オカルト本の中には、あからさまな身障者差別や民族差別を標榜する本、大虐殺を肯定し人類滅亡を待望する本がよくある。そういうのは読んでいて本当に胸が悪くなる。著者のあまりの愚かさに辟易することもある。その一方、豊富な知識に裏打ちされ、さわやかな読後感を残す楽しいオカルト本も、少数ながら存在するのだ。
この『黙示録の秘密』は僕のフェイバリットである。十数年前に古書店で見つけ、その面白さに夢中になった。僕が聖書に興味を持つようになったのは、この本がきっかけである。
松居桃楼氏は一九一○年生まれの劇作家。戦後すぐ、浅草の隅田川のほとりに生まれたバタヤ(廃品回収業者)の集落、通称「蟻の街」に住み着き、彼らの権利を守るために尽力した。一九九四年に死去。代表作には、裕福な家に生まれながらバタヤの人々のために奉仕した北原怜子さんの短い生涯を描いた『アリの街のマリア 春秋社 一九六三年/一九九八年に新版)や、ユニークな教育論や哲学を展開した『はじめはみんな宇宙塵』(柏樹社 一九八九年)などがある。
どちらも大変に良い本なので、機会があればご一読いただきたい。
本書は、ある少女に松居氏が語って聞かせた内容を、彼の世話をしている田所静枝さんが文章に起こしたもの、という形式になっている(事実かどうかはたいした問題ではない)。
昭和四○年代のある日、旧「蟻の街」に残っていた松居氏のボロ小屋に、『アリの街のマリア』の大ファンだという中学二年の少女・多田悦子が訪ねてくる。悦子の家は二代前からのクリスチャンで、彼女も厳格なミッションスクールに通っていた。ところがある時、キリスト教の教えに疑問を抱くようになる。母親やシスターに訊ねても話がかみ合わない。それで家を飛び出したのだ。
思い詰めて、何度も学校の屋上から飛び降りようと思った、と語る悦子。「キリスト教のわからないことを全部、ぶっつけて、「これに対して、おとなの信者たちが、はっきりした答えを、言ってくれなければ、この屋上から飛び降りる』って叫びたかったんです」
それを聞いた桃楼じいさん、いさめるどころか、「う-ん、そいつは素晴らしい。これは素敵に面白い」と、木箱を叩いてはしゃぎだす。
まず拡声器を用意しなければ。それに疑問を箇条書きにしたものをプリントにして、上から撒いた方がいい。そうすればマスコミが大きく報道してくれるから。支援してくれるグループも用意しておこう。最低でも二週間は屋上でがんばらなくてはいけないから、前もって充分な食料を運びこんでおかなければいけない……と、悪ノリはとどまるところを知らない。
いや、なかなか食えないじいさんではないか。こういうノリは普通のオカルト本にはないものだ。僕はこのくだりで、すっかりこのじいさんが好きになってしまった。
しかし、悦子は真剣だ。答えを聞くまで、何も食べないと言う。
「宗教って、いったい、なんですか? 信仰って、どういうことなんですか? おじいちゃんは本当にキリスト教を信じてるんですか?」
じいさんはしばしの沈黙ののち、こう答える。「是非とも知りたいというなら、話してもいい。だが、それをおじいちゃんにしゃべらせる以上、君自身、いいかげんな気持ちじゃなくて、命がけででも最後まで聞くことを、約束できるかね?」
こうして、桃楼じいさんの長広舌が幕を開ける。いや、これが面白いのなんのって!
桃楼じいさんは二○代の頃、キリストの受難劇の脚本を書いてくれと頼まれたのがきっかけで聖書を読むうちに、その内容に疑問を抱くようになった。調べ続けるうちに、聖書には「永遠の命」を得るための秘密が暗号で記されているのではないかと考えるようになる(ここに出てくる 「コード」と「サイファー」についての解説には間違いがあるのだが、本筋には関係ないので省略)。もし暗号だとしたら、それを解くための鍵も聖書のどこかにあるに違いない……。
九○年代にベストセラーになるマイケル・ドロズニンの『聖書の暗号』(新潮社)と似たような発想である。だが、ドロズニンが聖書に関する初歩的知識さえ持たず、モーセの五書(『創世記』『出エジプト記』『レビ記」「民数記』「申命記」)が何千年も昔から一字たりとも変化していないという荒唐無稽な前提を元にしているのに対し、桃楼じいさんは聖書学や歴史に関する博識を武器に、聖書の成立過程や著者の動機に迫ってゆく。
桃楼じいさんが注目するのは「ヨハネの黙示録』だ。その中には封印された巻物についての謎めいた言及(第五章一節)がある。すなわち、「黙示録』の著者は旧約聖書に隠された暗号を解く鍵を発見し、それを別の暗号で『黙示録」の中に隠したのだ。巻末に、この害に決して何かつけ加えたり削除したりしてはならないという強い警告(第一三章一八~一九節)があるのは、改竄されるとその暗号が解けなくなってしまうからだ。
「黙示録』に何度も出てくる「七」「四二」という数字を手がかりに、じいさんが行き当たったのは、第一三章一八節の有名なフレーズ。
「ここに智恵が必要である。思慮ある者は獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六六六である」
この文章は「六六六という数字は、人間の数である」とも読める。これは旧約聖書「エズラ記」第一一章一三節の「アドニカムの子孫は六六六人」という記述が、聖書の暗号を解く鍵であることを示している。
旧約聖書には、神を「ヤハウェ」と呼んでいる箇所と「エロヒム」と呼んでいる箇所がある。これはもともと異なる人物が書いた文書をつなぎ合わせたためだ、というのが聖書学の定説である。
ユダヤ教徒は神聖な「ヤハウェ」という名を発音するのをはばかり、「アドナイ」と呼んでいる。
すなわち、「アドニカム」を「神をアドナイ(ヤハウェ)と呼ぶこと」、「六六六」を「否定する」という意味だと解釈すると、「旧約聖書の中の、神をヤハウェと呼んでいる箇所を無視せよ」という指示になる…。
他にも「ユダヤ十二部族の父といわれるイスラエルという名の人物と、兄の地位にとって代わったヤコブは本来別人だったのではないか」など、魅力的な仮説が次々に披露されるのだが、複雑になるので途中経過は省略しよう。
現在に伝わっているモーセの五書は、紀元前五世紀頃、バビロンから帰還したエズラ(ソロモン時代の祭司ザドクの血を引く)が持ち帰ったものとされている。桃楼じいさんの推理によれば、モーセの五書は、ザドクの一族が旧ユダ王国領土の権利を主張し、支配階級の地位を強化するために、本来の内容を大幅に改竄したものだ、という。
本来のヤハウェは情け深い神だったのだが、この改竄によって、ねたみ深くえこひいきする恐ろしい神に変えられてしまった、というのだ。
だが、この改竄作業を行なった人物X(いわゆる「祭司的記者」)は、ザドク一族の陰謀に反発していた、と桃楼じいさんは考える。そこで「エズラ記」に「アドニカムの子孫は六六六人」、つまり「モーセの五書の中の、ザドク一派が捏造した部分を信用するな」というメッセージを入れる一方、『創世記」および「出エジプト記」に真の教えを隠したのだ。
じいさんは、Xの心理を推測しつつ、『出エジプト記」『創世記」の中の、神を「エロヒム」と呼んでいる部分を逆の順序で読んでいくという手法で、Xがザドク一派の目をあざむきつつ、本当に伝えたかったことを解き明かす。天地創造の物語は過去ではなく、こうあらねばならないという未来の物語であり、人はエデンの園に帰らねばならないと説いている。『黙示録」のたわごとのように見える内容も、実は「創世記」の記述をひっくり返したものであり、同じことを説いている。
ついにたどりついた「永遠の命」の秘儀 ―― それは瞑想と断食である。
なあんだ、と思ってはいけない。ここから先がすごいのだ。
Xの正体は紀元前五四○年代にいた「第二イザヤ」だと、じいさんは推論する。『イザヤ書』第二一章には、猛獣や毒蛇さえも、他の生きものを傷つけあわずに生きている理想郷が描かれている。これこそ隠されたXの思想 ―― すべての生きものが帰るべきエデンの園ではないか。
もちろん、現実には、人間は他の生きものを食わねば生きていけない。「人間が、彼らを殺して食べてこそ、彼らの命は生かされたことになるのだ」と唱える人もいる。しかし、桃楼じいさんはそんな主張に異議を唱える。なぜなら、そのような解釈を正当だとすると、人間が他の人間を犠牲にすることも正当化されかねないからだ。
この、生きものを殺したくないということは、いわゆる道徳上の善悪を言っているんじゃない。殺される者の怖れや悲しみを、自分自身の怖れや悲しみとして感ずるからだ。それも、センチメンタリズムというようなものじゃない。全智全能の慈悲ぶかい神が感じる、痛みの共感だ。
だが、そうなると、当然、動物を殺して食べるどころか、穀物や野菜の命をとることさえもつらい、到底しのびない……その問題を悩みぬいた末に、自分が生きるということが、即ち無数の他の生きものを殺すということを意味するならば、むしろ自分を殺すことによってか少しでも多くのものに生きのびてもらうより、仕方ないという思いが湧きあがってきた時、断食がはじまるのだ。
じいさんがこんな思想を抱くようになったのは、若い頃の体験が関係している。小学校時代に同級生から陰湿ないじめに遭い、青年時代を過ごした台湾では日本人が現地の人々を搾取しているのを知り、日本に帰ってからはバタヤに対する世間の迫害を目にした(こうしたことは『はじめはみんな宇宙塵』に詳しい)。人間は常に弱者を犠牲にしてきたのだ。人間だけではない、あらゆる動物が他の動植物を食わねば生きていけない以上、神の王国の到来など永遠に夢物語でしかないのではないか?
悩んでいた時、小学校時代に同級生だった中村浩・理学博士が、クロレラ食の研究をしていることを知る。霊感がひらめいた桃楼じいさんは、研究に協力するため、他の人がやりたがらない実験台に志願した。もう二年間も、毎日、クロレラの入ったパンや饅頭を食べている(『はじめはみんな宇宙塵』によれば、この実験は一九六五年から三年続いたらしい。つまり本書は一九六七年の出来事ということになる)。
桃楼じいさんの夢は、将来、クロレラの光合成の秘密が解明されて、無機物から有機物を作り出すことが可能になり、人間が他の生きものの命を取らなくても生きていけるようになることだ。何十年、何百年先かは分からない。しかし、そうなった時、人はようやく、すべての動物たちに「きみたちも是非、われわれ人間と同じように、何ものをも殺さないようになってくれたまえ」と説得することができるようになる。そして『イザヤ書』に予言された理想郷が実現する……。
その壮大な理想のために、今、桃楼じいさんはクロレラ食の人体実験に志願しているのだ。
だが、ここで非常に大切なのは、そのような大理想を実現する可能性は、今のところ、この地球上では人間の世界にしか存在しないということだ。(中略)しかたがないから、その日が来るまでは、つらくとも何かの命を奪って食べなければならないわけだ。
そこで、話は最初のふり出しに戻って、現実には、今われわれの目の前にある、このクロレラまんとうを食べるにしても、クロレラという植物や小麦の命をとることになるのだが、おじいちゃんはいつも、このクロレラまんとうにむかって、『われわれは今、神の王国の実現を心から念じながら、病気や死の心配を無視して人体実験をしているのだから、どうか、きみたちも協力してほしい』と、手をあわせて頼んでいるんだ。
さあ、どうだね悦ちゃん、きみも、このおじいちゃんといっしょに、このクロレラまんとうと牛乳にむかって、心からこの言葉をいう自信があるかね……」
僕はこのくだりを読んで、不覚にもジンときた。すべての動物に殺し合いをやめさせようというのは、小牧久時博士(「トンデモ本の世界」参照)の思想と似ている。しかし、小牧博士が高いところから声高に自分の思想を訴えているのに対し、桃楼じいさんは何世紀も先を見据え、社会の底辺でひっそりと自分の思想を実践している。そこには決定的な違いがある。
最初に書いたように、オカルト本の中には、神による大虐殺を肯定するものや、差別意識で書かれたものが多い。しかし、桃楼じいさんの信じる神(ザドク一派によって改竄される前の本来のヤハウェ)は、すべての生きものを愛する慈しみ深い神なのである。
聖書が暗号で書かれていると考え、聖書学の定説を真っ向から否定する珍説を唱えているという点では、この本はまぎれもなくトンデモ本である。しかし、その発想の根底にあるのは、弱者に対する優しい視点であり、人間同士だけでなく、あらゆる生命を平等に慈しむ思想なのだ。僕はそこにおおいに共感するのである。
とどめはあとがきだ。少女に話した内容をまとめて本にする、という話を田所さんから聞かされた桃楼じいさん、こうとぼけるのである。
「そんなことあったねえ……その時、そんなことをしゃべったの……? そうか、お母さんが迎えに来る前に逃げ出すといけないから、必死で大法螺言ったんだな……」
ヤラレタ。最後まで食えないじいさんだ。
(山本 弘)