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第三部最初

第三部 アドナイをたたえる人びと


   第一章 蟻の街のおやじさん


     爽竹桃の木かげで


「声がするのに、いくら叩いても返事がないと思ったら、お客さんかい?」
 烈(はげ)しく照りつけている屋外の陽光を背にして、小柄ながら、がっしりした老人のシルエットがちん入して来た。傍若無人はいつものことである。
「あら、すみませんでした。つい……あの、このお嬢ちゃん…
…」と私が、悦ちゃんを紹介しようとすると、老人は、彼女をひと目、ジロリと見ただけで、
「そっちの話は、あとで聞かせてもらうから。大至急、先生の智恵を借りたいことが起きたんでね」
 言いながら、もう、今まで悦ちゃんが掛けていた椅子にどかりと坐り込んで、左手に握ったタオルで首の汗をふきながら、右手の団扇(うちわ)をいそがしく動かしている。
 私は、悦ちゃんを目顔で外に誘い出した。


 隅田川の岸壁に添った公園は、やけつく日盛りの下にしずまりかえって、川面に、木材を引いてのぼる筏(いかだ)の姿さえもない。
「今のあの人、蟻の街のおやじさんでしょう?」悦ちゃんは、どちらかといえば、あきれ顔でたずねる。
「そうなの。あれが、蟻の会の小沢会長、通称おやじさん。『蟻の街のマリア』に写真のっていたかしら……」
「ええ。ずいぶん、性急屋(せっかちや)さんなんですね」
「たしかに気性は激しいけど、おじいちゃんを、すごく尊敬してるのね。なんでも困ったことがあると、今みたいに、すぐとんで来るの。おじいちゃんを、スーパーマンだと思っているようよ」
 「『蟻の街のマリア』には、北原怜子さんのこと、とてもくわしく書いてあるけど、あれ書いたおじいちゃんのことは、わかりませんね、あの、なぜ、蟻の街に住むようになったんですか?」
 私たちは、草いきれのする芝生を横切って道路側の柵ぞいに点々と植えてある夾竹桃が、ピンクの花を満開につけた下に、日蔭のベンチをみつけて腰を下ろした。


「おじいちゃんが、もともと劇作家だってことは知ってる?……おじいちゃんのお父さんも同じ劇作家で演出家だったけど、明治、大正、昭和にかけての、とても有名な人だったの。日本人で、演劇の勉強にヨーロッパに留学する人ってまだほとんどいなかったときに、正式にロンドンの俳優学校も卒業して演出の勉強してきたのね……日本の演劇が自分たちの伝統にあぐらかいてるだけじゃ、やがて衰えてしまう、ギリシャ、ヨーロッパが、長い間かかって磨いてきた演劇論を知った上で、日本の伝統演劇のレベルを上げていかなければ――って、帰ってきてからも必死だったのね。でもまだ時期が早かったから、理解されないで、ことに芝居の世界の制度を改善しようとして、あんまりひどい戦いをしたから、長生きできなかったらしい……」
 私は、桃楼じいさんの前半生を知る人びとから、機会あるごとに「あなたは知らないだろうが」という意味もこめて聞かされる、劇作家父子二代の話を、今日は悦ちゃんに受け売りする番だった。若き日のおじいちゃんが、父の遺志を遂げる闘志に燃え、中央の劇壇にあって、いかにヒラメキ、いかに活躍したかを伝えるのがもどかしかった。
「悦ちゃんより、まだ一つ年下のとき、宝塚で処女作を上演したんですって。

……でもね、さっき、キリストの受難劇書くのやめた話、聞いたでしよ、あんなふうに、おじいちゃんていう人は、自分が心から納得したことでないと、ドラマに書いたり演出したりが、絶対にできないらしい。……あ、そうだ、そもそもね、一三歳のとき、宝塚少女歌劇で上渡した処女作というのが、『十三の頼朝』っていう題だって。なにか、見当がつくような感じね。……この間の戦争に敗けて、そのあと、脚本全体がひどいことになっていたでしょう、おじいちゃん、台湾総督府から頼まれて演劇指導に行ってたんだけど、引き揚げてきて、想像以上に日本がどうしようもなくなってるの見て、もう、すんなり中央の劇界へもどる気になれなくなっちゃったのね。――『日本がこの荒廃した精神から立ち直るためには……』となっちゃうわけ。まあ、そこが、気狂いだといわれるところなんだけど――そこで、同志で集まって劇団をつくって、納得のいく生活をしながら芝居をやることと、そしてその上演する芝居の構想を、なにもかも忘れて練っているうちに、いつの間にか、世の中で虐げられている人たちや、敗戦後の日本中の貧乏の中でも、一ばん貧しい暮らしの人たちと、生活を共にしなければ、気がすまなくなってしまったっていうわけ……」
 桃楼じいさんが、偶然知ることになった、当時、浮浪者とよばれて屑を拾ってくらす人びとの集団を、誇りある生活共同体として発足させた上で、ほんの二、三カ月、名づけ親としての応援をするつもりが、問題の深刻さが見えてくるほどに、だんだん手をひけなくなって、ついに今日まで十数年、応援を続ける羽目になったいきさつを、私は想像もまぜながら説明した。
「結局、おじいちゃんがドラマを書くっていうことはね、紙の上に書くことじゃなくって、自分自身が、まず演ずるっていうことなのね、だけど、胸の中で描いている構想が大きければ大きいほど、それを世の中に現実化するのは難しくなるでしょう。結局、おじいちゃんの作品を、本当に『やりましょう!』って、命をかけて一緒に演じた人は、北原怜子さん一人だけだった……」
「わかった!  それじゃ、『蟻の街のマリア』は、おじいちゃんが若い時に書きかけてやめたっていう受難劇なんですね?」
「そう……でも、あれはまだまだプロローグ……」私は、(あの『蟻の街の奇蹟』を読んでいないあなたに、『蟻の街のマリア』を書いた桃楼じいさんの真意が、わかるはずが、ないじゃないの!)と言いたい気持ちだった。いや、あの『蟻の街の奇蹟』だって、今となってみれば、まだまだ入り口でしかないらしいのだ。
「じゃあ、おじいちゃんは、もっと続きを書いてるんですか?」
「さあ、書いてないけど書いてるというか、書いてるけど書いてないというか……」
「それ、どういう意味ですか?」
「おじいちゃんのドラマは、書くのも演ずるのもいのちがけになっちゃうから、普通の人ではついていけない……そして構想が現実にならなければ、おじいちゃんにとって、夢はドラマ性を失っちゃう……だからこのごろは、動物や植物と語ることだけが、むしろ現実になっているみたい。人間相手には、なにも書きたくない、しゃべりたくないって、ほとんど原稿も書かないし講演もしないことに
しちゃったの……」
――ますます収入が無くなって、私一人がハラハラするばかり……サンチョ・パンサの愚痴を、私は胸にのみこんだ。
「じゃあ、おじいちゃん、今日みたいに長いお話するのは、めずらしいんですか?」
「そりゃそうよ。あなたは知らないから無理もないけど、わたしが聞きたくても聞けないで、何年も辛抱してること、悦ちゃん、どんどんしゃべらせるんですもの……」

「ああ、そうだったんですか?」
「今日はおじいちゃん、調子にのって、どこまで行ってもきりがないし……悦ちゃん、これ以上、おじいちゃんの邪魔しちゃダメよ。ただでさえ、なんだかんだと蟻の街の心配ごとを持ち込まれるたびに、およそおじいちゃんの理想とは縁遠い問題でもって、身を粉にして走りまわるんだから。そしてそれがまた、ますますおじいちゃんを沈黙させる原因になるんだし……」
 どっちみち、桃楼じいさんという人は、話がなにかで中断すると、再び同じ話に戻るためしは、まずないのだから、いわずもがな
――と知りながら、この少女に関係ないことまでかぶせて、私は、いやがらせの念を押す。悦ちゃんは泣きそうな顔でうつむいた。そのしょげた様子に私が後悔していると、いきなりすぐ近くで、車のクラクションのおどけた拍子が鳴りひびいた。見ると、屑を満載した蟻の街の小型トラックが、目の前を通りすぎるところだった。運転手の水田さんが、手を振っている。
水田さんは、もと特攻隊の航空兵。片足、義足をつけていて、パッと花が咲いたような明るい人だ。
「悦ちゃん、あれ、見て……蟻の街の車。蟻が地球をひっぱってる絵。『世界を導く蟻の会』って書いてある……面白いと思わない? あの車、会長さんを迎えにきたらしいわ。お話、もう済むころでしょうから、行きましょうか」私はつとめて声をやさしくして、悦ちゃんをうながした。


     断食は やめてください


「お前さん、蟻の街に住み込みたいんだって?」
 小屋の扉をあけて、おじいちゃんといっしょに出てきたおやじさんは、悦ちゃんの顔をみると、ニコニコと話しかけた。
「俺もねえ、お前さんくらいの年のときに、アメリカに渡るつもりで、黙って家をとび出したんだ。ところが、移民の手続きだのなんだのと横浜の港で手間どっているうちに、家の者につかまって、連れ戻されてしまった。いっそのこと、船にしのび込んで密航すればよかったと思ったもんだよ。サンフランシスコあたりまで行ったら、海にとび込んで、アメリカに泳いで上がればよかったってね

……。お前さんも先生から、お母さんや尼さんに話してもらって、ダメだったら、あとは俺がひきうける。なんなら、今すぐ、このトラックで、八号地の新しい蟻の街へ行くかい?」
「会長さんまで、そんなにおだてては困ります。何しろ、このひと今朝からハンガーストライキで、こちらは降参してるんですから」
「その話もきいたよ。いいじゃないか。ハンガーストライキ、大いに結構。若い者が二日や三日、飲まず食わずでも、死にはしない。本当は、一週間ぐらい、腹をすかして野宿してから、バタヤをはじめるんでなけりゃ、大した勉強にならないんだ」
「だって、おじいちゃんまで、今朝から、断食のおつきあいしてるんですもの」

「なに? 先生も? それはいかん。こんな親不孝娘の一人や二人が餓え死にしたって何のことはないが、先生に倒れられては俺が困る。蟻の街がどうにもならないから……それでなくてもこのごろは、なんだかおかしな青いパンしか食べてないっていう話だから、心配してたのに。先生、こんな小ムスメにかかり合っていないで、すぐ、何でもいいから腹一杯食べてくださいよ。頼みますよ」
 おやじさんの声が、あんまり真剣味を帯びているので、思わず顔をみると、目じりがぬれている。私はビックリして視線を外らせた。


 蟻の街の小型トラックは、一○メートルほど走りかけてから、急に止まって、小屋の扉をしめかけていた私を、助手席の老会長が手まねきした。私が小走りに出て行くと、おやじさんは首にかけていた財布をとって、そっくり手渡そうとしながら、「先生、金がないんじゃないの?」と、小声で言う。
 桃楼じいさんの収入といえば、テレビの出演料、講演の謝礼、本の印税などで、時にはまとまって入るが、年じゅうあることではないから、どうかすると、半年以上もまったくの無収入ということもあるのだ。しかも、余裕のあるなしにかかわらず、すべてポケットマネーでまかなう蟻の街の宣伝のための、印刷物や行事の費用、政治折衝のための、交通費や通信費
など、桃楼じいさんが一人でする活動の出費が食費とはケタ違いに大きくて、時には何十日も一銭もないことがあったり、断食同様の日があっても、驚くにはあたらなかった。クロレラ食の実験をはじめたのも、実は、できるだけ食費をゼロに近づけるという大目的が一方にあったので、その点では、私の方が、まっ先に歓迎したのだ。
 小沢老会長は、おじいちゃんの貧乏暮らしを誰よりも気にしていたが、蟻の街の厳しい経済事情もさることながら、おじいちゃんがあくまでも外部の応援者の立場で骨を折ってくれているのに、報酬を払ってはかえっていけないと思っているし、桃楼じいさんは、老会長のそういう理解が、たまらなく気に入っているようだった。結局おやじさんは、よくよくのことがなければ、金銭のことは口に出
さないことにしていたらしい。
 私は会長がつき出した財布を押し返しながら言った。
「あるのも嘘、ないのも嘘、とにかく、こちらは何とかやってます。……会長さんのお金は今、蟻の街のために一銭でも大切なんですから……」
「じゃあ、困る時はすぐ言ってくださいよ。いくら蟻の街が苦しくても、あなたがたの食いぶちぐらい、どうにでもなるからね……とにかく断食はいけない。是非食べてもらわなけれゃ困る」
 おやじさんは、すなおに財布をしまうと、水川さんに発車の合図をした。

「なにか、また、ご心配なことですか?……」私は、中に入ると、すぐたずねた。おじいちゃんの顔色が、すぐれないように感じたからだ。だがそれは、日ざしの強い公園の景色を見ていた目が、このコンクリートの小屋の暗さに馴れないせいだったかもしれない。室内は、ひやりとして、黴(カビ)の香りがただよっている。
 おじいちゃんは一瞬、間をおいてから、「いや、別に……」と言うと、自分の席にもどって腰を下ろした。そして、いかにも陽気らしく、「さあ、話をつづけよう。さっきは、どこまで話したんだっけ?」と言うと、目の前の、木箱のテー
ブルをはさんでしょんぼり立っている悦ちゃんに、坐れと合図する。
「あの、ごめいわくなのに、おじゃまして、すみませんでした」急に借りもののような、おとなぶった調子で、悦ちゃんは、神妙に頭を下げた。
 おじいちゃんは、ちょっと戸惑って見あげていたが、やがてクスクスと笑って、「ハハァ、おばちゃんに、なにか言われたな……だが、気にしなくていいんだよ、おじいちゃんは別に、悦ちゃん一人のために、無理して時間を割いてしゃべってるんじゃないんだ。本当のことをいうとね、今、目の前にいる悦ちゃんなんか、どうでもいいんだ。おじいちゃんは、全世界の、それも、過去から未来までの、すべての悦ちゃんだな、つまり、全生物にむかって話してるんだから。いや、生物だけじゃないよ、こういう時には、誰も聞かなければ、この壁にむかってでも、あの川にむかってでも語るのさ……だから、いつまでもそうやって立ってないで、掛けなさい」
 その言葉につられて坐りかけた悦ちゃんは、椅子の背に手をおいたまま、気になる様子で、チラと
私の方へふりむく。私がうしろから軽くうなずくと、彼女はホッとして腰を下ろした。
 しかし、もう、おじいちゃんにとっては、目の前の私たち二
人の存在など、問題でない雰囲気だった。ここはもう、二千年も三千年も前の、地中海の孤島の洞窟か、シナイ半島の沙漠の幕屋の中なのかもしれなかった。……そこで謎めいた神の啓示を、発作的に語っている預言者の姿が想像される……桃楼じいさんは今、自作の劇の登場人物になっているのだろうか……

 


 

  第二章 ソロモン王即位の謎

     頭に油をそそがれた者


「宗教とは、そもそもなにか……人間が永遠の命を求めること……」
 おじいちゃんは、卓上に立てた聖書を両手で挟み、両臂(ひじ)をついたまま、目を閉じた顔をやや上に向けて語っている。
「その永遠の命を得るための奥義は、モーセの五書のどこかに、暗号文でかくされているにちがいない。……それをどうやって解読するか……。その暗号はサイファー式らしいから、まず、モーセの五書を逆に読んでいってみる。但し、途中の埋め草を飛ばして本文だけを拾い出すためには、鍵言葉の助けが必要だ。その鍵言葉とは、『アドナイを否定せよ』だった……。
 アドナイを否定せよ、とは、どういう意味か?  へブライ語の聖書の中で、YHWHと書いてある所 英語訳ではロード、日本語では主という単語が出てくる文章は、飛ばして読め
――言いかえればヘブライ語ではエロヒム、英語ではゴッド、日本語では神という単語が使われている文章だけを、拾い出して読めということにもなるわけだ。


 したがって、本来ならば、神が中心になっている文章の部分だけを、たどっていけばいいはずなのだが、いきなりその作業にとりかかってしまうと、いったい、誰が、なぜ、モーセの五書に暗号文をかくす必要があったのかということが、のみこめない。そして、そのいきさつがはっきりしないかぎり、折角、暗号を解読しても、その真意をとらえそこなうおそれがあるから、まわりくどいが、モーセの五書なるものが、いつ、誰によって、どうやって書かれたのか、という話から、先にしよう。
 それにしても、モーセの五書といえば、神様がモーセに語ったことを、そのままモーセが書きとめたものだ
――と、今だに信じている人が多いわけだが、さっきも話したとおり、聖書批判学者たちの研究では、いわゆるモーセの五書の原型ともいうべき最初の文書が成文化されたのは、どんなに古く見つもっても、せいぜいソロモン王の時代、厳密にいえば紀元前八五○年以後というのが、定説のようだ。

 紀元前八五○年以後というと、――ソロモン王が死んだのは紀元前九三七年、そしてユダヤ十二部族の中の十部族が、その直後にソロモン王の子に背いて独立したのだから、ユダヤ民族の祖先から語り伝えられてきた断片的な伝説の数々が、はじめて一冊の書として成り立ったのは、ソロモン王の晩年か、あるいはその死後のことであって、その内容も、今日のモーセの五書のような長編ではなく、おどろくほど、短いものだったようだ。
 では、なんのために、ソロモン王の時代にユダヤ王国の誰が、そのような書物を書くことになったのだろうか? その動機をさぐるには、どうしてもソロモン王の経歴を、ひと通り知っておかなければならない。


 もともとユダヤが、外敵ペリシテびとと戦うために、ユダヤ十二部族の総意によって選ばれて王となったサウルが、こころざしを果たさずに戦死すると、その部下であり、娘婿であったダビデが三○歳で、はじめユダ族だけの王となり、やがて十二部族全体の王となった。
 列王記(上 二-11)によれば、彼はその後、のべ四○年間、王位にあったが、年老いたので、その死のまぎわに、王位を息子のソロモンにゆずったことになっている。だが、ここの所が、少々、問題だ。ダビデ王には、何人も息子があって、ソロモンは、かならずしも最初から正式な跡取りと決まっていたわけではなかった。
 その時の事情を簡単に説明すると(歴代志 上 三章 一節によれば)ダビデ王には男の子が都合一九人あった。その中でソロモンは、どうみても七人目以下、という計算になる。しかもダビデ王の晩年、彼の側近のほとんどの人は、第四番目のアドニヤが、王位をつぐものと思いこんでいたようだ。
 ところがある日、突然ソロモンの母が、老衰しているダビデに迫って、ソロモンに王位をつがせてしまう(列王記 上 一章)。……そもそも、その時、ダビデ王が、生きていたかどうかさえ、疑わしいのだが、そこまでは深入りしないことにして、要するに、祭司ザドクなる人物がアドニヤ一派の虚をついて、ソロモンの頭に、聖なる油をそそいで、王たることを宣言してしまったので、そのとたんに、すべての人が、ソロモンを、新しい王とみとめざるを得なくなってしまった
――というわけだ。
 このようにして、突然、王となったソロモンは、自分の競争相手だった兄のアドニヤをはじめとして、反ソロモン派の人びとを、片っ端から殺したり追放したりして、完全に一掃してしまう。それと同時に、ソロモンの頭に油をそそいで、ソロモンが王たることを宣言した祭司ザドクが、最大の功労者として重く用いられることになったのは、いうまでもない。
 それにしても、祭司ザドクが、ソロモンの頭に油をそそいだだけで、その瞬間にソロモンが王となったことを、すべてのユダヤ人が認めざるを得なかった、というのは、なぜだろうか? 

 

 一体全体、ある特定の人間の頭に油をそそぐことによって、その瞬間から、その人物が神聖視されるという制度は、いつごろから始まったのか?
 モーセの五書(出エジプト記二
八-41、二九-7、三○-30、レビ記八章など)には『油そそがれた祭司』ということが、何度も出てくる。ことに出エジプト記の第三○章(-22以下)では、聖なる油の作り方や扱い方などを、ていねいに説明している。
 しかし、それは、おそらくモーセ時代からあった制度ではなく、ずっと後世にはじめられた習慣を、ここ(出エジプト記や、レビ記)に書き込んだものらしいから、これらの記事は、歴史的事実として
は、信用できない。
 ことに、王になる人の頭に油をそそぐという話が文書に出てくるのは、サムエル記(上 一○-1)で、預言者サムエルが、さっき話したサウルを、ユダヤ十二部族の総司令官、つまり王として選んだときが最初だ。そして、それ以後、サムエル記には、頻繁に、頭に油をそそぐという言葉が出てくる(上 一六-1、二六-9~11、下一一-14、五-3)。
 これは、サムエル記の中心人物であるダビデが、『頭に油をそそがれた者』

つまり王となった者に刃向う者は、理由の如何にかかわらず天罰が下るということをくり返し強調しているわけだが(サムエル記 上 二四-6・11、二六-9、下一-14、五-3)、それにしても、ダビデはなぜ『頭に油をそそがれた者』の神聖さを、これほどまでに重要視したのだろうか?
 このサムエル記の内容を念入りに吟味してみると、どうやらダビデは、彼がもし、『油を塗られた者』の神聖さを一度でも無視したら(つまりサウルが『油を塗られた者であること』を無視したら)、他日、自身が王位を獲得した時に、同じことを別の人が、自分に行なう危険があることを、厳重に警戒したから ━━

だったらしく思われる。
 だが、いずれにもせよ、このダビデ王の時代以後、『頭に油をそそいで王となる』ということが、少くともユダ王国内では、すべての人びとから、非常に神聖なことと信じられるようになる。そして、その信仰は、その後、何百年、何千年と、ユダヤ民族の心の底までしみ込むことになった。

 ところで、この『頭に油をそそいで聖別された人』のことを、へブライ語ではメシアといい、それをギリシャ語に翻訳したのがキリストスという言葉だ。つまり、イエス・キリストとか、キリスト教という言葉も、ここから生まれることになったのだ。
 だが、このメシアという言葉が、いわゆる救世主の意味になったり、イエス・キリストの固有名詞のようになるのは、ずっと後世のことで、少くともダビデ、ソロモン時代から、その後のバビロニア捕囚時代にかけては、メシアといえば、ダビデ王家の正統の跡取りである王のことを意味しており、その、正統な跡取りに、油をそそいで神聖化する資格のあるものは、事実上、出エジプト記に出てく
る、アロンの子孫であるザドク家出身の大祭司に限られることになった
――ということを、はっきり認識しておかなければいけない。
 それにしても、ひとたび祭司が頭に油をそそいで聖別したら、その人(すなわちメシア)の王権は、もう、誰にも取り消すことはできないという信仰は、どうして人びとの心に強力に根を張ることになったのだろうか。

     ヤコブは果たしてイスラエルか?


「メシア(頭に油をそそがれた者)が神聖であるという考えを、当時のユダヤ民族に徹底的に浸透させたのがダビデだったことは、いま話したが、そのダビデ一人の言動だけで、全ユダヤ民族が、その後も長く、そう信じ続けるということが、あり得るだろうか?
 現に、ソロモンの死後、間もなく北部の十部族が、ソロモンの子に背いて、新しいイスラエル王国を建設したということは、その当時、少くとも北部地方に住むユダヤ民族が、メシアを絶対的には神聖視していなかった証拠といえないだろうか。
 それにもかかわらず、その後、数百年にわたって、南部のユダ王国内では、メシアというものの存在が、非常に重要視されつづけるのはなぜだろうか? これには、なにか、もっと強力な裏づけがなければならないはずだ
――とおじいちゃんは思うのだが、そのときピンとくるのは、このソロモンが、父の晩年に、突然、王位についたいきさつと、非常によく似た話が、創世記(二七章)にある、ということだ。

 それは、ヤコブが、年老いて目が見えなくなった父親をだまして、兄の相続権を奪いとった物語だ。誰でもよく知っている、有名な話だから、くわしくは言わないが、ヤコブの母はエサウとヤコブを生んだが、彼女は兄のエサウを嫌って弟のヤコブばかりを可愛がる。それで、なんとかして、兄エサウを追い出して弟の方に父の跡をつがせようと、たくらみ、夫のイサクが老衰して目がみえなくなっているのをいいことにして、兄エサウの留守のとき、弟ヤコブを、父の所に行かせ、父イサクに、ヤコブをエサウと錯覚させて、『間違いなく、お前に跡をとらせる』という誓いをたてさせてしまう。もちろん、その直後に、父イサクは自分がだまされたことに気づくのだが、どんな理由があるにせよ、ひとたび主(YHWH)に誓って、弟ヤコブの家督相続権をみとめてしまった以上、父親にも、それを取り消すことができない――という話だ。
 この物語は、ユダヤ民族の間に、相当、古くから伝わっていたものらしいが、主人公のヤコブが、かならずしも民衆の理想像ではなかった証拠に、そのヤコブという名は、へブライ語で『とって代る者』、それも、陰険な手段で、他人の地位を奪うような人
――を意味しているのだ。
 にもかかわらず、創世記(三二章)によると、その狡猾なヤコブが、ある日突然、神様から、『イスラエルという名に変えろ』と命令される。聖書の説明によれば、このイスラエルというのは、『神をうち負かす者』という意味だとなっているが、現代の聖書究家の多くは、それはむしろこじつけで、本当は『神よ戦え』とか『神よ輝け』と訳すべきだ
――と主賑している。
 それはともかくとして、やがてこのことが契機となって、ヤコブ
――すなわちイスラエルが、ユダヤ十二部族の元祖となる運命を担うものとなる――というのだが、これはいったい、どうしたことだろうか。


 おじいちゃんは、話をわかりやすくするために、これまで、モーセやソロモンやイエスを生んだ民族のことを、ユダヤ人とよんでいるが、元来これは、外国人(最初はローマ人)が、彼らをよぶ場合の用語で、旧約聖書の中では、ユダヤ民族のことを、イスラエルとよぶ例が圧倒的だし、近年、二千年ぶりに、パレスチナ地方に新しく建てた国の名も、『イスラエル』であるほど、彼らはイスラエルという名を、誇りとし、大切にしている。
 だのに、このイスラエルという名が、父や兄をだまして家督を奪った男がある日、偶然、神と相撲をとって勝ったから、そのごほうびにもらったものだ
――などというのは、あまりに信じ難い話だ。
 そこで考えられることは、ユダヤ十二部族の父といわれるイスラエルという名の人物と、兄の地位にとって代ったヤコブとは本来別人だったのではないか? ということだ。もし、そうだとしたら、いつ、誰が、何の目的で、このまったく異る人物の物語を一つに結び合わせたのか?
 ここで、もう一度、ソロモンが、父の王位を手に入れた時の状況を思い出してみる必要がある。ソロモンに最も都合よく書かれたはずの、ユダヤの歴史書を現代のわれわれが読んでさえ、怪しいと思われるのだから、その当時、彼の王位継承のしかたが、公明正大ではなかった
――と陰口をきく人は、相当あったにちがいない。
 とすれば、すぐ、思いあわされるのが、ヤコブ(とって代る者)の昔話だ。

――だが、ソロモンの存命中は、彼の権力が強大だったから、誰も、その不平不満を表に出すことができなかった。しかしソロモンが死ぬと、ただちに十二部族中の十部族が結束して、イスラエル王国を建設した。おそらく、それから以後のイスラエル王国の人びとは、声を大にして『ソロモンはヤコブだった』と非難しただろう。
 さあ、そこで、ソロモンの子孫をメシア(霊に油をそそがれた者――即ち国王)として戴くユダ王国側に知恵者がいて、そのヤコブと、ユダヤ十二部族の元祖イスラエルは、同一人物であるという書物を著わしたとすれば、どうなるだろうか? 事態は、大逆転を起こすことになるのだ。 

 

 もしかりにソロモンがダビデの王位を継承したことに異論をさしはさむ者があるとすれば、その人間は、それとよく似た方法で父の家督を継いだヤコブを否定することになる。そしてそれは、とりもなおさず、『イスラエル』というユダヤ民族全体を代表する名をも、冒瀆(ぼうとく)することになるのだから、(イスラエル王国側の人びとはなおさら)真正面から非難することは、できなくなるはずだ。
 うん、悦ちゃんもおばちゃんも、『もともと別人の、ヤコブとイスラエルを、一つに結び合わせた
――などというのは、またまたおじいちゃんの勝手なこじつけだろう』って言いたそうな顔をしているね?  じゃあ創世記の第三二章(28)の、ヤコブがイスラエルと、名前を変えろといわれたところの前後を読んでごらん。もし、その話があとから挿入されたものでないのなら、当然それ以後のヤコブのよび名は、神様がつけたイスラエルにならなければならないはずだろう。それが、まことに不思議なんだよ。例をあげると、まず第一に、創世記の最後まで、神が彼に呼びかける時、僅かの例外を除いてはすべてヤコブと呼んでいること――この例外の意味を、悦ちゃんが自分で読みとれるようなら、マープルおばあちゃんのあとつぎになれるかもしれないんだが、まあ、あとでゆっくり読むとして、第二に、改名後の説明文のところは、イスラエルとヤコブの名が混じり合って出てくること、第三には、出エジプト記以後、『イスラエルよ!』と神が呼びかけるのは、あくまでも、民族や国家をさす場合に限られているのだ。そしてさらに第四には、いわゆるモーセの五書を通じて、主(YHWH)のことを『アブラハム、イサク、ヤコブの神』とよんで、一度も『アブラハム、イサク、イスラエルの神』とはよんでいないこと。しかも一方では、単独に『イスラエルの神』というよび方が、実に頻繁にでてくる……これらの矛盾には、当然、なにかの理由がなければならないだろう。
 つまり、このようにして創世記に姿を現わすヤコブが、後日、突然、イスラエルと改名したという物語は、『ソロモンこそ、正統なる、油をそそがれたメシアである』こと、言いかえれば、主(YHWH)によって神聖化された人物であることを主張するために、ユダ王国の誰かが、大昔からの伝説を書き変えたもの 
――だと、おじいちゃんは推測するわけだ。しかも、そうだとすると、その書き変えたた時期は、聖書批判学者のいう『ヤハウィストがモーセの五書の基礎となる原典を、はじめて成文化した時期』と、一致することにもなる。
 ところで、このヤハウィスト文書に対抗して、その後イスラエル王国側では、いわゆるエロヒスト(のうちの、第一エロヒスト)が、彼ら独自のユダヤ伝説を書いた
――と聖書批判学者たちが言っている問題は、果たして、どうだろうか?

 おじいちゃんの結論から先に言うとね、多くの聖書批判学者が言うようなエロヒスト文書なるものが事実あったとしても、それがそのまますなおに、今日われわれが使っている旧約聖書の中に取り入れられているとは、おじいちゃんには到底考えられないんだ。
 なぜかというと、エロヒスト文書とよぶ部分をまとめたという北部のイスラエル王国は南北分裂後二○○年日の紀元前七二二年に、アッシリア帝国によって完全に滅ぼされてしまったのだから、当時の彼らがどんな信仰内容を持って、何を主張して、どう行動したかということについて、今日では、すべて南部のユダ王国系(つまりソロモン派、YHWH派、ザドク派)の人びとによって書かれたり、改ざんされたりした、憎しみや悪意のある記録を通じて推測する以外にないのだから、もし、エロヒスト文書と判断される文書があったにしても、その内容は、相当ゆがめられているに相違ない。
 それにしても、この、南部のユダ王国で信仰する主(YHWH)と、北部のイスラエル王国で信仰する神(エロヒム)との間には、その名称だけでなく、内容的にも何か大きな違いがあったと想像される根拠は多いが、たとえば列王記には南北両国が分裂した時、新イスラエル王国側では『レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した』(上 一二-31)と書いてある。それからまた、歴代志(下 一一-13)では、同じ時期に、新イスラエル王国の地域内にいたレビ族の祭司(ということは、当然、例の大祭司ザドクと同族であるはずの人びとだが)たちは急遽その放牧地と領地を捨ててユダ王国に移った
――と述べている。

 これだけ見ても、ユダヤが南北に分裂したのは、単に政治的な対立があったというだけではない、もつと根深い宗教的な軌蝶(あつれき)があったと推察されるわけだ。
 その証拠には、イスラエル王国が滅亡するに至った事情を記述している、列王記や歴代志では、イスラエル王国に、そういう悲運が見舞ったのは、彼らが主(YHWH)に対して、重ね重ねの不敬を行なったばかりでなく、主(YHWH)が特に寵愛し、油をそそいで聖別した、ソロモンの子孫や、彼に油をそそいだ祭司ザドクの子孫たちを、ないがしろにしたための、主(YHWH)の怒りのせいであることを力説し、徹底的に非難しているわけだ。
 だが、イスラエル王国滅亡の原因を、すべて神罰によるもの
――と断定したユダ王国自身は、それから後、どんな運命をたどることになっただろうか?

 

 

 

第三章 祭司ザドクの子孫たち

 

     律法の書の出現


「北部のイスラエル王国が、アッシリア帝国によって滅ぼされた、紀元前七二二年以降、あとに残ったユダ王国の歴史は、アッシリア帝国に対する隷属と反乱のくり返しだった。ユダ王国の方針がアッシリア帝国に随順しようという時期には、その誠意の表現の一つとして、アッシリアの宗教行事が、大々的にとり入れられる。その結果、当然、主(YHWH)は、ないがしろにされることとなる。反対にアッシリア帝国の圧力が少しでも弱まった時期には、ユダ王国はただちに近隣の国々を語らって、アッシリアに対して反乱をおこす。しかも、その時の大義名分はかならず、『主(YHWH)が、異教の神々に対する信仰を憤っておられるから』ということだ。それで、そういう時期には、まず、アッシリアの神々に対する宗教儀式を廃止して、主(YHWH)を唯一の神として、祀りなおす運動がはじまる。

 こうして、ユダ王国と、アッシリア帝国との関係は、ユダ王国内の権力者の中で、進歩的妥協派と国粋主義的保守派の力関係となって現われるから、その影響で、民衆もまた、異教の神々をまつることと、YHWH信仰への復帰をくり返すことになっていたわけだ。
 ところで、そういう不安定な状勢の中で(イスラエル王国が滅亡してから約百年後)、ヨシヤという若い国王がユダヤ王国の君主となった。彼が二六歳の時、エルサレム神殿の大修理を思い立ったが、その仕事に当っていた大祭司が、偶然に、今まで誰も知らなかった一巻の書物を、神殿の奥の食庫の中で発見した。大祭司がなにげなく開いて読んでみると、それは大昔に主(YHWH)が、モーセに語って記録させたという、律法の書だった。


 そのときの事情を、かなりくわしく伝えている列王記下巻の、第二二章と二三章から想像すると、その発見された律法の書の内容というのは『ユダヤ民族は主(YHWH)を唯一の神として、心をつくし、精神をつくし、力をつくして愛さなければならない。そして主(YHWH)がさだめた掟を片時も忘れず、子々孫々にまで教え伝えて、その指図どおりに生活するならば、ユダヤ民族は、永遠に栄えるであろう。だが、もし、ユダヤ民族をエジプトから救い出した主(YHWH)の恩を忘れて、異民族が信仰している神々をまつるようなことがあったら、徹底的に罰を与える……』というようなことであったらしい。
 列王記によると、大祭司の報告をうけて驚いたヨシヤ王は、早速ユダ王国内のおもだった人びとを神殿に呼び集めて、この律法の書を読みきかせた。そして、彼ヨシヤ王は、

 

 主に従って歩み、心をつくし、精神をつくして主の戒めとあかしと定めとを守り、この書物にしるされている、この契約の言葉を行なうことを誓った。民は皆、その契約に加わった(列王記 下二三-3)

 

と書いてある。
 では、この律法の書にもとづいて行なわれたヨシヤの宗教改革の、結果はどうなったのか? 意外にもその後ヨシヤ王は、アッシリア王の応援にむかうエジプト軍と戦って戦死し、律法の書発見の年(紀元前六二一年)からわずか二十年あまりで、彼の孫は、アッシリアに代って大帝国になった新バビロニアの、ネブカドネザル王により、捕虜として、バビロンにつれて行かれ、さらにそれから十年ほどで、ユダ王国は完全に滅亡した(前五八六年)。
 それにしても、ヨシヤ王は、たしかに律法の書の中の主(YHWH)の言葉どおりに宗教改革を行なったのだが、列王記によれば、それまでのイスラエル・ユダ両王国の国王たちの不信仰が、あまりにも主(YHWH)を怒らせたので、その時、すでに手遅れだったのだ
――という。
 もし、それが本当なら、そのような律法の書が、モーセ以来存在していたのに、なぜ、それほど手おくれにならない前に、主(YHWH)は、それを誰かに発見させなかったのか? また、もし、それとは逆に、この律法の書が、本当はモーセ以来のものではなかった
――としたら、いつ誰が書いて、なぜ、エルサレムの神殿の奥深くかくしておき、それがヨシヤの時、突然発見されることになったのか?  この事件の背後には、大きな疑惑があるわけだ。


 そこで、その当時の国際状勢を考えてみると、実は、問題のヨシヤがユダ国王になったのは、アッシリア帝国に対して、その東南部の諸民族が連合して、大々的に反旗をひるがえしはじめたころだった。しかもそれは今までに例のない、根づよいもので、その噂は、たちまち近東地方の全域に知れわたった。そこで、ユダ王国内の反アッシリア派は、若き国王ヨシヤを中心にして、早速、民族独立運
動を展開しはじめた。
 その第一歩として着手したことは、いうまでもなく、挙国一致で主(YHWH)を唯一の神として信仰するという運動だった。しかし、その方針を、ユダ王国内の国民に徹底的に浸透させるためには、これまでのように地方の祭司たちの、個々別々の解釈による生ぬるい指導に委かせておかずに、信仰の基準を明確に成文化することが必要になった。
――つまり、いわゆるモーセによる律法の書なるものは、こういう目的に呼応してヨシヤ王の時代に出現したものであることは、間違いないようだ。
 しかも、この時エルサレムの神殿で発見されたという巻物こそ、今日、われわれがモーセの五書の第五冊目のものとして読んでいる申命記の、もとになった書物にちがいない
――と、はじめて主張したのが、前に話したドイツの聖書批判学者 De ウェッテだった。そしてこの申命記のもとになった部分を、律法の書という形式で、モーセの言葉に似せて書いたと思われる人物を、現代の聖書批判学者たちは、申命典記者とよんでいる。

 さらに、今日の学者の多くが推定しているところでは、大体、申命記の第四章四四節から、第二六章の終りまでと、第二八章が、ヨシヤ王のときの律法の書の主体だったらしい、と言われている。では、この申命典記者とよばれる人は、いったいどんな人だったのだろうか? 聖書研究家の多くは、申命記の第一六章(16)に、ユダヤ教の三大祭、「過ぎ越し祭、七週の祭(ペンテコスタ)、仮庵(かりいお)の祭」にはかならず『主が選ばれた場所』に参詣しなければならないと書かれていることを重要視している。それは、この『主が選ばれた場所』とは、明らかにエルサレムの神殿をさしているからだ。
 そもそもユダヤ民族はかならず一定の時期にエルサレム神殿に参詣しなければならないという慣習は、ソロモン時代から始まっていたものと思われるが、これがモーセの律法として成文化されたことによって、エルサレムの神殿の祭司(つまりザドク一門)の権威が、これまで以上に高まった事実から見て、この申命典記者が、ザドク一門と無関係だったとは考えられないわけだ。
 だが、いずれにしても、この、律法の書なるものは、大昔から神殿の奥にかくされてあったものがヨシヤ王の時代に偶然発見されたのではなくて、近い将来にはじまる民族独立の大戦争を見越して、充分に練りあげられた、ユダ王国内における反アッシリア派の大芝居だったらしい。しかし、彼らがもくろんだ宗教改革による挙国一致が、かえって裏目に出て、ユダ王国の滅亡を早める結果となってしまった。
 
 では、その後のユダヤ民族のYHWH信仰は、どうなったのだろうか?


 

     ユダヤ思想の父エゼキエル
 

「くり返して言うが、紀元前五八六年に、ユダ王国は、バビロニア帝国のネブカドネザル王によって亡ぼされ、エルサレムの神殿も王宮も町も焼き払われ、城壁までとり崩されてしまった。そればかりでなく、当時の国王も大祭司も殺害されたのだから、本来ならばその際に、ユダ王国も、ユダヤ教も絶滅するところだったかもしれないのだが、まことに僥倖(ぎょうこう)にも、ユダ王国とユダヤ教を支える主流派の人びとの大部分は、それより約十年前(紀元前五九七年)に、バビロニア軍の捕虜として、バビロン周辺に連れ去られて行っていた。
 エレミヤ書(五二-28)によれば、その時、捕えられて行った民の数は約四、六○○人、また列王記によれば、

 

 エルサレムのすべての市民、およびすべての司とすべての勇士ならびにすべての木工と鍛冶一万を捕えて行った。残った者は国の民の貧しい者のみであった(下 二四-14)

 

とある。要するに、経済的にも文化的にも、その時代のユダヤの精髄は、第一回目の捕囚の時に、すでにことごとくバビロニア地方に移されていたわけだ。そのうえ、新バビロニア帝国の国王は、その前にイスラエル王国を亡ぼしたアッシリア帝国の国王にくらべると、きわめて寛大で、捕虜としてつれてきた人びとの中でも、優秀な者は、役人や技術者として手厚く待遇し、その他のユダヤ人に対しても、彼らだけの居留地で、自治的な生活共同体を組織して、彼ら自身の信仰を守り、そのうえ、自由に経済活動を行なうことさえ、大目に見ていたらしい。いうならば、かつてのユダ王国の特権階級の人びとの多くは、バビロニア捕囚後も、少くともユダヤ人の居留地内においては、故国にいたころとあまりちがわない階級制度や宗教的慣習を続けることができたはずだ。いや、むしろ、その状態を続けようと努力した――というべきかもしれない。
 では、そのバビロニア捕囚時代のユダヤ人居留地内で、宗教的な主導権を握っていたのは、どんな人びとだったろうか?


 旧約聖書の記述にもとづく限りでは、まず第一に注目しなければならないのは、後世の人びとから『ユダヤ思想の父』とよばれるようになった預言者エゼキエルと、その思想を支持したグループについてのようだ。

 このエゼキェルは、イザヤ、エレミヤとともに、いわゆる三大預言者の一人といわれているが、彼がいつごろの人で、彼の予言を集めたエゼキエル書なるものが、どの程度、信用できるかとなると、これまた、諸説まちまちというところだ。だが、現代の大かたの聖書研究家は、彼が捕囚時代の人物だったことは事実であり、エゼキエル書にのっている予言の大部分は、実際、彼自身が語ったものと解釈している。
 そこで、今、かりに、エゼキエル書に書かれている文章をたどって、その概略を拾い出してみると……そもそも彼は、エルサレムの神殿に仕える祭司だった(ということは、大祭司ザドクの子孫だったらしい)。そして、第一回目のバビロニア捕囚の時に、エルサレムから捕虜としてつれてこられた、いわゆる主流派の一人でもあった。しかし、彼らが捕虜としてつれ去られてから、その後、約十年間、ユダ王国は、バビロニア帝国の傀儡(かいらい)政権として存続しており、エルサレムには、一応、新バビロニア国王によって任命された国王も、大祭司もいたわけだが、エゼキエルは、『この状態は決して長く続かず、エルサレムは近き将来、かならず壊滅するであろう』と予言したといわれている。しかも、その予言の内容が非常によく当ったので、バビロニア領土内のユダヤ人たちから、半ば恐れられ、半ば尊敬される人物となったらしい。
 ところが、その後エゼキエルは、かっての徹底的悲観論とは正反対に、『ユダ王国は将来、かならず再建され、エルサレムの神殿は立派に復旧すること』を、大々的に予言しはじめた。そして、そのエゼキエル書の終りの部分には、未来のエルサレム神殿の設計と、それを中心とする新しい王国の国土計画が、驚くほど綿密に描かれている(エゼキエル書 四○章以下)。
 それにしても、聖書研究家たちの認めているように、当時エゼキエルという預言者が実際にいたのだろうか? 実在したとしても、本当に、このような予言をしたのだろうか?


 それについて疑問をいだく聖書研究家は、かなりあるようだ。しかし、その当時、バビロニア領土内のユダヤ人居留地の中に、エゼキエルのような、極端な国粋主義の思想をもった祭司がいて、主(YHWH)を中心とするユダヤ民族独立国家再建を強烈に叫んだということは、充分にありそうなことだ。
 そして、それを耳にした、かっての特権階級やそれに寄生する立場の人びとは、このエゼキエル的な国粋主義者たちが夢みたユダヤ民族共同体の未来像に、大賛成だったのは、いうまでもないことだ。

 そのころ、バビロニア帝国内に、かなり多くのユダヤ人居留地が散在していたらしいが、そのいた所で、このエゼキエル的思想をもっと深く研究するための集会が、たびたび開かれただろうし、そを、エゼキエル派の講師が、巡回して説教するというようなことも多かっただろう。そして、そこから、現代でもユダヤ人の居留地にはかならず存在するシナゴーグ(ユダヤ人の教会堂)がはじまったともいわれる。

 そればかりでなく、エゼキエル書によれば、エゼキエルは主(YHWH)から、『イスラエルの家を見守る者』としての役目を授かったと書いてある(三-16、三三-7)。ただし、ここでいう『見守る者』とは、『外敵の襲来を見守る者』ではなくて、ユダヤ民族を厳しく監督する者』というような意味だ。
 さらにまた、エゼキエル書では、『未来のエルサレムの神殿における祭儀に直接たずさわるのは、子孫にかぎる』(四四-15~31)と強調している。
 エゼキエル書に出てくる、この二つの主張を結びあわせると、レビ族出身のアロンの子孫である祭司 それも特に祭司ザドクの血統をひく者
――だけが、主(YHWH)に代って、すべてのユダヤ人の行ないを裁く権限がある、ということにもなるわけだ。しかも、このことは、単る予言ではなくて、その後、ユダヤ人のバビロニア捕囚がゆるされて、新しいユダヤ民族共同体が成立してからは、政治面でも、宗教面でも、その最高指導権は、実際に、祭司ザドクの子孫が握ることになり、そのザドク政権を支持する党派を、サドカイ派、あるいはサドカイびととよぶようになるのだから、このエゼキエル書の予言は、決して軽く読みすごすわけにはいかないのだ。
 では、いったいどのようにして、このエゼキエルの予言が、現実化されることになったか? さあ、ここで、いよいよ、エズラという、今日でもユダヤ人から『第二のモーセ』と讃えられている人物が、登場しなければならないことになる。


    第二のモーセ、エズラ

 

「紀元前五三八年に、ペルシャ帝国のキュロス王によって、バビロンの都が攻め落とされた。そして翌五三七年には、それまで捕囚されていたユダヤ人に対して、故国に帰ってもよいという勅令が、ペルシャ国王から出された。エズラ記第二章によると、そのために、四万人あまりが、もとのユダ王国領土内に帰還したという。この数字には、少々問題があると思うが、それはともかくとして、彼らはまず手はじめに、エルサレム神殿の修復をはじめた。だが、周辺に住む、前々からの住民の反対などもあって、作業が、思うように進まなかったらしい。では、どうしてそういう障害がおこったのだろうか?
 そもそも、第一次捕囚から最終的に帰国が許されるまでの、約六十年の空白期間を経て、バビロン周辺のユダヤ人居留民の多くが、久しぶりで故郷に戻ってみると、そこには、捕囚中もずっと残留していたユダヤ人や、捕囚中に、各国から移住してきた異民族が、相当数、住みついていた。彼らは、かつて所有していた土地や建物を、その後、わがものとして使用していたにちがいない。
――とすると、間題の畑や放牧地や家屋の所有権は、いったい、どちらに帰属するのだろうか?
 バビロニア地方から帰って来た連中は、かつての所有権を主張して『そっくり返せ』という。しかし残留組や外国からの移住者たちは、過去数十年の既得権をタテにとって、『返す理由はない』と答えただろう。そこに、当然、大きな紛争がおこる。そこで、こういう場合に、一ばん問題になるのは、従来の慣習はどうなっているか? ということだ。
 結論は、どうやら残留者たちの方に、分があったらしい。その証拠には、学識から言っても、経済力から言っても、宗教的にも、政治的にも、はるかにすぐれていたはずの、バビロニア地方からの帰還者たちが、残留者たちを、旧ユダ王国領域から追い出すのに、百年以上かかっているのだ。
 では、いったい、どういう手段を用いて、帰還者たちは、残留者たちの手から、かっての土地や家屋を取り戻すことができたのだろうか?  それは、例の『第二のモーセ』といわれる、エズラという人物が、紀元前四四四年にバビロンからやってきて、(本当は三九八年、あるいは三九七年だ、という説もあるが)『ユダヤ民族には、こういう事件を、どう処理すべきかという律法が、大昔から制定されてあるのだ。しかもそれは、人間が勝手に決めたものではない。主(YHWH)が、われわれの先祖のモーセに語って、書き残させたものだ』と称して、厖大(ぼうだい)な書物をつきつけたからだった。いうまでもなく、それこそ、今日、われわれが手にしている旧約聖書の中のモ-セの五書だった。
 それにしても、このエズラとは、いかなる人物だったのだろうか?

 

 エズラ記の第七章に、エズラの系図が書いてあるが、それによると、彼はレビ族出身のアロンの子孫であり、例のダビデ、ソロモン時代の祭司ザドクから数えて六代目にあたる人物であって、『イスラエルの神・主がお授けになったモ-セの律法に精通した学者であった』――と紹介してある。
 また、彼はエルサレムにむかって出発するにあたって、ペルシャ帝国の国王から、『神の律法に照らして』エルサレムの事情を調べ、ユ-フラテス河から西に住むすべてのユダヤ教の信者を裁き、また、彼らに布教し、その教えを守らない者を投獄し、財産を没収し、追放し、あるいは死刑にする権限を与えられた(エズラ記七章)とも書いてある。
 このことが、どの程度まで歴史的事実かわからないにしても、多くの学者は、その当時の国際事情から推察して、ペルシャ帝国としては、周辺にあるエジプト、小アジア、ギリシャ諸国との間の緩衝地帯とするために、ユダヤ民族に、かなりの自治権を与えたということは、事実、あり得たことと考えているようだ。
 ところで、その時エズラが携えてきた『モ-セの律法の書』が、従来のものと同一でなかった
――ということは、前に言ったペルシャ国王の勅許(ちょっきょ)なるものの中に、わざわざ『あなたは、自分の手にあるあなたの神の律法に照らして』(エズラ記七-14)という言葉が使ってある点からも、充分に想像できると思う。

 それまでのユダヤ人が、かって一度も、目にも耳にもしたことがなかった、驚くほどくわしく書き改められた『モーセの律法』を、エズラが、エルサレムの広場で、すべての市民にむかって、はじめて朗読したときの劇的な状況は、ネヘミヤ記(八-3以下)にくわしく書いてあるから説明しないが、一ばん問題の、残留者たちとの土地や家屋の所有権争いは、このモ-セの律法』の、どの条項で、
決着がついたのだろうか?


 それは、レビ記の第二五章(8以下)に出てくる、『ヨベルの年』の制度だと、おじいちゃんは考えている。ヨベルというのはユダヤ人が公式の信号に使う角笛のことで、日本語の聖書には、ラッパと訳してあるが、『ヨベルの年』とは、五○年に一回、七月十日の贖罪の日に吹き鳴らすラッパを合図に、すべてのユダヤ人奴隷は解放され、さらにまた、すでに売り渡した土地でも、ユダヤ人の旧地主は無条件でそれをとり返すことができる――という制度なのだ(二五‐28・31以下)。
 だが、そんな制度が、本当に実行されたのかどうかということが、聖書研究家の中でも、たびたび問題になっている。なぜならば、もし、そんな制度が一度でも実行されたとしたら、必ずいろいろの悶着がおこるはずだから、何らかの形で、その時の状況が旧約聖書のどこかに姿を見せるはずだ
――というのも、無理のない意見だと思う。
 しかし、よく考えてみると、このヨベルの年の制度は、捕囚後のエズラの時代に、見事に活用されたことになりはしないだろうか? なぜならば、前にも言ったとおり、バビロニアの捕囚を赦されてってきた人びとと、捕囚中に新しく土地や建物を猿得した残留者たちとが対決した場合に、このヨベルの年の制度こそは、帰還者側にとって非常に有利だったはずだからだ。
 いわゆるバビロニアの捕囚は、約六十年間だったのだから、その期間中に土地や建物を手に入れた人びとの権利は、このヨベルの年の制度からすれば、当然、捕囚以前の、もとの持主に帰っているわけなのだ。
 もちろん、残留者たちが、エズラのたずさえてきた、エズラ以外に誰も知らなかった厖大な書物の内容を、うたがわしいと思わなかったはずはない。だが、さっき言ったように、ペルシャ国王の勅許は、エズラが持ってきたその書物にもとづいて、エズラに、すべてのユダヤ教の信者を裁き、その教えを守らない者を投獄し、財産を没収し、追放し、あるいは死刑にする権限を与えてあるというので
は、抵抗のしようがなかったにちがいない。
 それと同時に、バビロニア地方からの帰還者たちは、その、自分たちに大きな利益をもたらしたと思ってよろこんだ『モーセの律法』の内容に、この日以降、永久に批判を許されない、物心両面の首枷(くびかせ)になるものがどのくらい含まれてあるかに、気づいていただろうか?
 しかし、それにしてもこの時、エズラが持ってきた厖大なモーセの律法、つまり今日のモーセの五書なるものは、いつ、誰が、どこで作成したものだったのだろう?

 

     第四章 祭司的記者とは誰か


     レビ族の特典


「もう何度も話したが、グラーフ・ウェルハウゼン以後、いわゆる聖書批判学者たちの研究によって、モーセの五書というものの中でも、出エジプト記の後半の部分や、レビ記のほとんど全部、それに民数記の大部分など、とにかく今日、われわれが読んでいるモーセの五書の三分の一は、バビロニア捕囚時代か、あるいはそれ以後に、エルサレムの神殿に仕える特権をもっている人びと(それはレビ族出身のアロンの子孫で、もっと厳密にいえば、ダビデ、ソロモン時代の祭司ザドクの血統をひく人びとに限られてくるわけだが)と、それに従属する人びとの手によって、つくられたものだということが、明らかにされてきた。どうして、そんなことが言えるのかというと、これらの書には祭司となりうる唯一の部族であるレビ族だけにとって、あまりにも都合のよすぎる記述が、際限もなく盛り込まれているからなのだ。
 たとえば、申命記の第一六章(16)には、すべてのユダヤ人の男子は、必ず年に三回の大祝日に、主(YHWH)が選んだ場所(実はエルサレム神殿)に参詣しなければならないと書いてあるが、それにひき続いて『ただし、から手で主の前に出てはならない……おのおのの力に応じた捧げ物をしなければならぬ』としてある。しかも、その捧げ物の内容は、力に応じてどころではなく、厳重に細かなきまりができているのだ(出エジプト記二二-29・30、二三-19、レビ記一、二、三、四、五、民数記一五、二八、二九、申命記一二-11以下、

一七-11)。
 ではこのようにして、全ユダヤ人が納める莫大な捧げ物のすべてが、どういうふうに処理されるのかというと、まず、レビ記第二章には『……残りはアロンとその子らのものになる』(3、10)という言葉がでてくる(この場合アロンとその子らというのは、実はエルサレムの神殿に仕える祭司たちのことだ)。
そして、同じような記述が、そのあとに何度も何度も出てくる。たとえばレビ記では六章(16、18、29)、七章(6、10、14、16、34)、八章(31)、

一○章(12~15)、二二章(10)、二四章(9)、二七章、民数記一八章(8以下)、申命記一八章(1〜5)などがそうだ。
 レビ族は主(YHWH)に仕える神聖な人びとなのだから、その生活を、全ユダヤ人がささえるのは当然だというのだが民数記一八-21以下、

申命記一八-15)、ではなぜ、レビ族だけが、ユダヤの十二部族の中からえらばれて、主(YHWH)に仕えることになったのだろうか」


「ところで悦ちゃん……」おじいちゃんは、一寸からかうように悦ちゃんを見る。
「ユダヤ十二部族をひきつれてエジプトを脱出したモーセ自身は、何部族の出身だったか知ってるかい?」
「モーセは赤ちゃんの時、川に流されて、王様の娘に拾われたっていうけど……」
「その前は?」
「民数記の終りの方、二六章を読んでごらん」
「………『レビびとと、その氏族にしたがって数えられたものは次の通りである……』(57以下)あ、そのあとですね。……モーセのお父さんはレビの息子の子ども、お母さんは、レビの娘……兄弟がアロンで姉妹がミリア……」
「そう、アロンとモーセが兄弟で、その父も母もレビ族出身だった
――と説明してるわけだ」
「ああ、それで、アロンの子孫はレビびとの子孫だから、主に仕える祭司に決められたんですね」
「……とまあ、今日、われわれが読んでいる聖書には、はっきり書いてある。だが聖書批判学者たちの分析したところでは、『レビびとである祭司すなわちレビの全部族は……』(申命記一八-1)というような文章が、姿を現わすようになったのは、申命記ができてから以後、つまり、例の『律法の書』が発見された紀元前六一二年より後のことで、今日のモーセの五書の中でも、いろいろの儀式や掟の起源や内容をくわしく説明している所、それから特に細かな系図が出てくるところは、ほとんどバビロニア捕囚ごろかそれ以後の時代に、いわゆる祭司的記者たち、つまり、レビ族であり、アロンの子孫であり、ザドクの子孫である人びとが、自分たちに都合がいいように、驚くべき綿密さで書き加えたものだ
――と推測されているんだ。
 では、その祭司たちの祖先であるレビ族とかレビびととよばれる人びとは、本来、なにものだったのかというと、これがまた非常にあいまいなことになる。 

 

 創世記第四九章に出てくる、ヤコブ、すなわちイスラエルが、十二部族の将来を予言した言葉の中に、レビ族は明らかに入っているのだが、それにもかかわらず、民数記(--47)になると、レビびとは十二部族から除外されてしまっていて、その代りにヤコブが一ばん愛したヨセフの子エフライムとマナセ(ヤコブの孫にあたる)の子孫が、十二部族のうちに数えられることになる。それでヤコブ
(イスラエル)が決めた十二部族の中から、ヨセフとレビの端が消えてしまうわけだ。
 それだからこそ、後日、アッシリア帝国によって滅ぼされることになる北部のイスラエル王側を構成した十部族の中には、当然、レビ族が入っていない。
 しかも、前にも言ったが、歴代志(下 一一-14)には、ユダヤの十部族が、ユダ王国にそむいて独立した時、その当時の新しいイスラエル王国内にいた祭司とレビ族は、『自分の放牧地と領地を離れて、ユダとエルサレムに来た』という意味のことが書いてある。これらのことがいったい、何を意味するのかが、今日の歴史学者の中で、いろいろ論議されているが、ひょっとしたらレビ族ははじめから、ユダヤ十二部族の一つではなかったのではなかろうか? という説をとなえる学者もあるんだ。
 だが、もし、仮りに、レビ族がユダヤ十二部族の一つではなかったとすると、今日、いわゆるユダヤ教とか、ユダヤ思想とよばれるものは、本来ユダヤ民族のものではなくて、レビ族という、ユダヤ民族とは異なる民族の信仰を、レビ族出身の祭司たちが、特にザドクの一門である祭司たちが、ダビデ王や、その子のソロモン王や、またその後のダビデ家の人びとと結んで、巧みに当時のユダヤ人に押しつけたものだ
――ということになるかもしれない(こういうところから、ダビデもまだ もともとは十二部族の出身者でなかったのではないか? といっている学者もあるのだ)。
 もし、そのような仮説を立てるときには、ユダヤ教の中心となる主(YHWH)や、その信仰をユダヤ人に教えたと伝えられているモーセなる人物の正体というものは、どういうことになるか? 

 

 

     地上の放浪者を庇う神

「モーセの五書の中で、主(YHWH)という名は、いつ、どこから現われはじめるかというと、今日われわれが手にしている旧約聖書では、正確にいえば、創世記の第二章四節から、すでに頻繁に出てきているし、出エジプト記でも第三章のはじめから使われている。……だが、本当の意味で、主(YHWH)自身が、自分の名を人間に明かす場面は、出エジプト記第三章一五節で、

 イスラエルの人びとにこう言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、 ヤコブの神である主(YHWH)が、私をあなたのところへつかわされました』と。これは永遠の私の名、これは世々の私の呼び名である

 

というのが最初で、さらに第六章一一節には、

 

 『私は主(YHWH)である。私は、アブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現われたが、 主(YHWH)という名では、自分を彼らに知らせなかった』

 

と書いてある。

しかし、今も言ったとおり、この主(YHWH)という言葉は、すでに創世記第二章四節から何度も出てくるばかりでなく、創世記第四章二六節、つまり、カインとアベルの物語の終りでは、この時、人びとは主(YHWH)の名を呼びはじめたと述べている。いったい、これは、どちらが正しいのだろうか?
 そもそも、このカインという男は、弟アベルを殺した刑として、それ以来、永遠に地上の放浪者となったという。ところが、創世記の記事をよく読んでみると、悪人の代表のようにきらわれているカインに対して、主(YHWH)は、


 『誰でもカインを殺す者は、七倍の復讐をうけるでしょう』(四-15)

 

という、まことに奇怪な約束をしており、そのカインの子孫のレメクは、

 『カインのための復挫が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍』(四-24)

 

と宣言している。そして、それにひき続いて、例の、


 この時、人びとは主(YHWH)の名を呼びはじめた(二-26)

 

という文章が現われるのだ。
 もっとも、このすぐあとに、くわしい系図が出ていて、カインはいかにもユダヤ民族の先祖ではないように書いてあるが、その部分は、ずっと後世の人が挿入したものだということが、今日では明らかにされている。
――となると、元来、主(YHWH)は 地上の放浪者として虫けらのように扱われていたカインや、その末裔を、かばい抜こうとした、情ぶかい神だったのではないか? と思われる。それにしても、地上の放浪者を庇護する主(YHWH)と、その後のユダヤ民族と、どういう関係になっているのか?
 さあ、ここからが、大間題なのだ。

 

 旧約聖書によれば、ユダヤ民族の祖先が、はじめてカナンの地(今日のパレスチナ地方)に居住するようになったのは、アブラハムの物語が、そもそもの発端になっているが、実はそのころすでに、カナンの地には先住民がしっかり定着していたので、その中に、新しく割り込むことは、容易なことではなかったようだ。その証拠に、創世記(一四-13)には『へブルびとアブラム』(アブラムはアブラハムの元の名)という言葉が出てくる。ユダヤ人の多くは、このヘブルびと、とか、へブライ語という言葉の語源を、創世記(一○-21~24)に書いてあるノアの子セムの子孫にあたるエベルに由来するといっているが、実際は、国境周辺の者とか、国境を越えて侵入してくる者とか、あるいは動きまわる者を意味する、イブリ(あるいはハビル)から変化したものだという説があり、ことに極端な意見として、今日でいう浮浪者、つまり、一種の無頼の徒の集団を指すというものさえある。
 とすると、この『地上の放浪者カイン』と、『へブルびとアブラム』が、ともにYHWH(主)という名の神を信仰していたという、旧約聖書の記事に、おじいちゃんとしては、注目せずにはいられない。この両者の信仰対象が、はっきり同じ神様だったと解釈してこそ、後日、ユダヤの十二部族がヨルダンの川を越えて、カナンの地に侵入するにあたって、彼らの共通の守護神として、主(YHWH)を戴いたという物語とも、話が合うことになると思うのだ。
 だが、そうなると、ここでさらに問題になるのは、地上の放浪者カインや、へブルびとアブラム(アブラハム)の守護神であった主(YHWH)が、どういう事情から、あらためてモーセの前に現われることになったか、ということだ。出エジプト記によると、モーセが神に出会ったのは、神の山ホレブの麓だったという。モーセは、どうして神の山ホレブの近くまでやってきたかというと、その
ころ彼は、妻の父であるミデアンの祭司エテロの羊の群の世話をひきうけていたので、その羊の群を追いながら、荒野を移動しているうちに、たまたま、そこへさしかかったのだと書いてある(三-1)。
 つまりモーセは、ミデアンの祭司エテロの娘婿というわけだが、このミデアンの祭司エテロとは、いったい何ものだろうか? 

 

 創世記(二五-2)には、アブラハムの庶子の中に、ミデアンという人物が存在する。そして、いわゆるミデアン族なるものは、そのミデアンの子孫だということになっていて、その当時は、おもに、シナイ半島の南部で、紅海の北東部にあたるアカバ湾にそった地域に住んでいたらしい。したがって、エテロは、そのミデアン族の祭司だった――と、普通は解釈されている。
 ところが、土師記(--16、四-11)には『モーセの舅(しゅうと)であるケニびとの子孫は……』という文章が出てくる。もし、そのことが事実だとすると、ミデアン族とケニ族は、同一の氏族だったのか、それともエテロは、たまたまミデアン族の部落に住んではいたが、ミデアン族ではなく、まったく別の、ケニ族出身だったということなのだろうか?
 面倒な説明はぬきにして(民数記三一、土師記六、八、サムエル記上 一五-6参照)結論をいうと、ミデアン族とケニ族は別で、エテ族はケニ族だったという可能性の方が、つよいようだ。
――となると、いったい、ケニ族とは、どういう人びとなのだろうか?
 聖書研究家たちの説によると、このケニという名称はカインの名から変化したもので、ケニ族とはカインの末裔たちのことだといわれている。しかも、モーセのころのケニ族というのは(考古学者たちの説によれば)わずかの羊の群をつれて部落から部落へと放浪しながら、本業は、移動する鍛冶屋の仕事によって、細ぼそと生活していた、いわゆる浮浪者の群れで、徹底的に差別され、賤(いやし)められていたという。

 とすると、とすると、このケニ族たちが、世の中から賤民扱いされたのは、弟殺しのゆえに地上を放浪する運命を担わされたというカインの末裔だからなのか、それとも、彼らを賤民扱いするために、故意にその祖先をカインだと、世間の方から押しつけたからなのだろうか?……いずれにしても、ここで思い出してもらいたいのは、その、虫けら同様、見つけたら殺してしまえとまでいわれたカイン(創世記四-14)に対して、YHWH(主)という名の神が、『誰でもカインを殺す者は、七倍の復讐をうけるでしょう』と約束し(創世記四-15)、そのカインの六代目の子孫レメクは『レメクのための復讐は、七十七倍』(創世記四-24)といっており、そのレメクの子のトバルカインこそは、青銅や鉄による、あらゆる刃物を鍛える職人の元祖だ(創世記四-22)と、聖書に書いてあることだ。
 これらの数々の問題から類推すると、そもそもYHWH(ヤハウエ)という名の神を信仰していた最初の部族は、ケニ族だったのではあるまいか? という考えも出てくるし、さらに一歩進めて、モーセにYHWHという神を信仰する宗教を伝えたのは、たまたまミデアン族の土地に逗留(とうりゅう)していたケニ族の祭司、エテロだったという推測も成り立つわけだ。
 もし、かりにそうだとすると、祭司エテロが、モーセに伝えたと想像される宗教なるものは、地上の放浪者として虫けら同様に扱われていたカインの末裔さえも、徹底的にかばいぬくほどに、情ぶかい神であり、そういう神を信仰する宗教であった。だからこそ、その当時、エジプト国内では、これまた地上の放浪者であり、国籍のない無頼の徒の集団へブルびと
――として軽蔑されていたユダヤ民族たちにとって、本当の生き甲斐とは誠心誠意この神に仕えることだ ━━ と、モーセが確信したという考え方ができる――とおじいちゃんは信じている。
 だが、その公平無私な情ぶかい神が、どうして、ねたみ深くて、えこひいきする神、それゆえにこそ、無数の厳しい徒をさだめて、それを少しでも犯した者には、残酷な罰を与える神に変わったのだろうか?  どうしてもここのところを、しっかりと、掘り下げてみる必要がありそうだ。

 

 

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断食はやめてください
頭に油を注がれた者
ヤコブは果たしてイスラエルか
ユダヤ思想の父エゼキエル
律法の書の出現
第二のモーセ、エズラ
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16284941-エズラ-・-イスラエル人-1885-年、ドイツのシュトゥットガ
レビ族の特典
地上の放浪者を庇う神
アドナイの子孫

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     『アドナイの子孫を否定せよ』


 一体全体、主(YHWH)は、どういう理由から、レビ族の中のアロンの子孫だけに、祭司の職をゆだねたのか? 文献的には、出エジプト記第二八章(1)に、

 『またイスラエルの人びとのうちから、あなた(モーセ)の兄弟アロンとその子たち……をあなたのもとに来させ、祭司としてわたしに仕えさせ……』

 

とあり、また、民数記第三章(3以下)には、

 『彼らはみな油をそそがれ、祭司の職に任ぜられて祭司となった……あなた(モーセ)はアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺されるであろう』

 

と書いてある。しかし、この程度の記述では、説得力が不足していることを、いわゆる祭司的記者(モーセの五書を、最終的に編纂した人びと)は、充分に承知していたようだ。そこで、民数記の第一六章から第一八章では、レビ族同士の中で起こった大悶着を記述している。それは、同じレビ族でありながら、アロンの一家でないために、祭司の役側につけてもらえなかった人びとが、モーセとアロンのもとに押しかけて、『あなたがたのやることは、不公平だ』と詰問し、強硬に主(YHWH)がまつってある聖所の中に突入しようとした事件だ。しかし、この騒動は、彼らの不敬な言動を大いに怒った主(YHWH)が、その当事者はもとより家族までも皆殺しにしたことによって結着してしまう。
 しかし、これでもなお、なぜ主(YHWH)に仕える祭司はアロンの一家でなければならないのか?
ということの説明は充分だとはいえない。となると、結局、主(YHWH)が非常に怒りっぽくて、ねたみ深く、その上、自分の愛する人間には徹底して味方する性格の持主であることを、強調せざるをえなくなる。
 だから、いわゆるモーセの五書には、『この律法を無条件に厳しく守る者には主(YHWH)の加護があるが、万一、一つでもこれに背けば、神罰によってユダヤ民族は、みな殺しになるぞ』というような脅迫が、念入りに書き込まれるようになったわけだ。(出エジプト記三四-6・7・14、レビ記二
六-14以下、申命記五-9、六-14・15、七-1〜5、一一-27・28、二八-15~68、二九-20~28、三○-1〜20)

 

 しかも、この『ねたむ神』(出エジプト記二○-5、三四-14)としての主(YHWH)のイメージを、すべてのユダヤ人の心に、鮮明に印象づけるために、最も効果的に利用されたのは、モーセの十戒の中にある『安息日の制度』だったのではないかと思う。
 それにしても、六日間働いて七日目は聖なる安息日として、食事のための煮炊きさえもしてはいけないという制度は、いつごろからはじまったのだろうか。……『それは天地創造のときに神がきめたのだ』とか『モーセがシナイ山で主(YHWH)から告げられた十戒の中にある』……などという答え方は、もちろん答にならないことは、わかるね?
 ではいつごろからの制度かというと、どんなに早くても、捕囚時代か、それ以後らしい
――と、多くの学者が推定している。その理由は、そもそも、へブライ語の Shabbāth(シャッバース)あるいは、Shabāth(シャバース、英語のSabbathサバス)という言葉のもとは、バビロニア語のSappath(サツパス)、あるいはSabbattu(サツバツ) で、毎月の『一五日目』の意味なのだが、列王記(下 四-23)、ホセア書(二-11)、アモス書(八-5)、イザヤ書(一-13、六六-23)、エゼキエル書(四五-17)などには、いずれも『一日と安息日』あるいは『新月と安息日』という、一対になった言葉で出てくる。これは、その当時(捕囚以前)はヘブライ語のShabbāth(シャッバース)でも、七日目ごとの安息日ではなくて、『一五日目』とか『満月の日』を意味していたことを示している。
 ただし、エレミヤ書(一七-21)やイザヤ書の第五八章(13)、エゼキエル書の二○章(12~16)、同四六章(1)には、これらの書物が書かれた当時、いわゆるモーセの十戒による七日目ごとの安息日という制度が、すでに普及していたと察せられる記事がでてくるが、この三つの書物の中で、エレミヤ書とイ
ザヤ書に安息日という言葉がでてくる部分は、ずっと後世の人が挿入したものだということを、聖書研究家たちの多くが認めている。そして最後のエゼキエル課の著者は、前にも言ったとおり、典型的なザドク一家の人物だったことが明らかなのだし、この書物そのものが、かなり後の、ネヘミヤやエズラの時代に書かれたものではないか、という人もあるくらいだ。
 では、安息日という言葉が、明らかに今日の解釈どおりのものとして歴史上に現われるのは、いつごろからか?  というと、それがなんと、例のネヘミヤ、エズラ時代以後のことで、しかも、その当時、いわゆる安息日の制度を知らない人間が多かったことが、ネヘミヤ記の文面から充分に推察できるのだ(一○-31、一三-15~22)。……となると、ここでもまた、七日目ごとの安息日の制度なるものが、ザドク一派の創作ではないかと疑わざるを得なくなる。
 それにしても、捕囚時代ないしその後のザドク派にとって、七日日ごとの安息日を守るという制度が、なぜ必要だったのだろうか?


 おじいちゃんの推量を端的に言うなら、それは、すべてのユダヤ人に、モーセの五書の朗読を、きかせるためだったに相違ない――といっても、そのような規則が旧約のどこにも書いてあるわけではない。せいぜい申命記第三一章(10)で、モーセが『七年に一回、かならずすべてのユダヤ人に、律法を読んできかせろ』と告げており、また、第一七章18以下)に『国王はつねに律法を読まなければいけない』と書いてある程度だ。
 しかし、実際問題としては、エズラ時代から以後になると、七日目ごとの安息日に、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)で、モーセの五書を朗読する習慣は、確立されていたものらしく思われる。なぜならば、今日のユダヤ教では、モーセの五書が、五二の部分に区切られてあって、その一区切りずつを、安息日ごとに朗読すると、ちょうど一年で読み終るようになっているのだ。
 この点から見ても、エズラの時代に、あの厳格なモーセの五書が確定したことと、エズラの時代以後、七日目ごとの安息日なるものが決められて、その日にはかならず、モーセの五書の朗読を聞かなければならないという慣例ができあがったということの間には、深い関係があったに相違ないと思われるのだ。

 そればかりでなく、モーセの五書には安息日を守れということが、 くり返し出てくるが(出エジプト記一六-23、二○-8、二三-12、三一-12、三四-21、三五-2、レビ記一九-3、民数記一五-32、申命記五-12)、その中でも、とくに出エジプト記第三一章、三五章、民数記一五章には、安息日の掟を破った者は、かならず殺されなければならないということが書いてある。
 これほど厳格に安息日を守れと命令しているのは、ほかにマスコミの手段がなかった当時、全国民にモーセの律法を暗記させ、浸透させるために、最も効果のある方法だったからではないだろうか?
 おじいちゃんは、今まで話してきた、いくつもの根拠によって、モーセの五書というものの大部分は、捕囚以後に、ザドクの子孫の誰かが、自分たちに都合のいい内容を、大々的に加筆し、編集しなおしたに相違ないと推定するわけだが、では、その編集は、誰の手によって、どういう条件のもとに、行なわれたものだろうか?

 

 これほどの大計画のもとに実行される編集が、もちろん、完全に秘密を守られなければならないのだから、それをさせる人選には、極力、気を使ったことだろう。しかし、このような仕事を、一人や二人の手でできるわけのものではない。ザドク家としては、極く近親の身内や、日ごろ充分手なづけている者の中から、学者や著作者を厳選したつもりでも、中に、この計画に反発の気持ちを懐(いだ)いていた者もいたかもしれない。今後、自分たちの民族を永久に規制する、神の啓示としての書物に、一部の権力者の都合によって手が加えられるということに対して、怖れや憤りを感じた人物が、あったにちがいないと、おじいちゃんは思うのだ。
 なぜならば、今日の聖書批判学者たちが『祭司的記者が加筆した部分』とみている文章が、実に用意周到な計画のもとに挿入されたと思えるのに、それでいながら、なんとも理解できないほどずさんな不手ぎわが、あちこちに目立ちすぎるのだ。
 これは単に技術が未熟だとか、書き手が無責任だったとかで起こったことなんだろうか?  おじいちゃんは、それよりも、なにかもっと、積極的な意図があったためではないかという感じがするんだ。もし、そうだとすると、ではいったい、誰が、なんのために、そのような、あまりにも歴然とつぎはぎのあとがわかるような、加筆、挿入の作業をあえてしたのだろうか? そこで、もう一歩、ふみ込んだ憶測をしてみるのだが、かりに、もし誰かが、ザドク一派の策謀を抑止しようと決意したとしたら、当時のような、絶対的な圧制下で、とり得る抵抗手段とは、どんな方法だっただろう?
 それは、表面的には権力者の注文どおりの仕事をしているように見せかけながら、ある特定の部分だけを拾い読みしていくと、そこに、まったく別の意味の文章が浮かびあがるような、暗号文をつくりあげることによってザドク一派の企みを、根底からくつがえそうという構想ではなかったか?
 さあ、ここまできたら、これ以上、面倒な説明はいらないだろう」おじいちゃんの目が鋭く光った。

「悦ちゃん、さっき話した、エズラ記にあった鍵言葉は、なんだつけ?」
「…………」
「ほら……アドニカムの子孫は六六六人……」
「あ」
――悦ちゃんの顔色が、青ざめている。話があまりに不気味になってきたせいだろうか?
「つまり、このアドニカムという言葉は、『主はよみがえる』とか『主が来る』とか『主が立ちあがる』という意味なのだから、いずれにしても、神を主とよんでいる人びと、つまり主(YHWH)をかさに着て、すべてのユダヤ人を支配しようとする人びと
――と、とれないこともない、とすると、『アドニカムの子孫』とは、実は『ザドクの子孫』を暗示しているのではないだろうか?
 それから、六六六というのが、『否定する』とか『認めない』という略号と読めることも、さっきくわしく話したね。そうなると、問題の『アドニカムの子孫は六六六』ということは、『ザドクの子孫を否定する』という意味にもなるし、『モーセの五書の中の、ザドク一派が捏造した部分を信用するな、その部分を抜かして読め……』という意味にも、とれるわけだ。
 だが、問題は、それだけじゃあなかったね……おじいちゃんは、さっき、主 アドナイ(YHWH)の部分を抜かすということは、神 エロヒムという言葉が使ってある部分だけを拾い出して、しかも逆に読めということらしいといったろう。
 さあ、これからが、いよいよお待ちかねの、旧約聖書暗号解読のはじまりということになるわけだ」

 おじいちゃんは、ひときわ陽気に、手にした聖書を振ってみせた。(ああ、やっと、あの、断食寮で毎朝うけとった速達の内容に入っていくんだ……それにしても時間が……)と、思わず私がため息をついた時、電話が鳴り出した。
「ああ、お母さんたちが、東京駅についたんだな?」言いながら、またおじいちゃんが、受話器をとる。

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